第31話 鏡としての男
影山は、私の方に視線を移した。「君が、ハル画伯のお孫さんだね。君も、絵を描くそうじゃないか。SNSで、大変な人気だと聞いているよ」
彼の言葉に、心臓が凍りついた。彼は、私のことまで知っている。
「君なら、分かるはずだ。数字が、どれだけ雄弁かということが。三万人のフォロワーは、君の才能を証明する、何よりの証拠だ。その力を、こんな薄暗い場所で、古臭い感傷のために、無駄にするのかね?」
彼の周りの銀色の粒子が、ちりちりと鋭い音を立てているように感じた。彼は、私の過去の亡霊だった。私が捨てたつもりの、数字への信仰を、悪魔のように囁きかけてくる。私は、数字という名の冷たい光に目が眩みそうになり、無意識にポケットの中に手を入れた。指先が、祖父の絵筆のざらついた木の感触に触れる。その、不器用なほどに実直な手触りだけが、私をこの場所へと繋ぎ止める錨だった。
「……お引き取りください」 私のかろうじて絞り出した声は、震えていた。
「そうかね」影山は、肩をすくめると、一枚の名刺をテーブルの上に置いた。「感傷に浸るのは結構だが、その感傷で家賃が払えるのかね?気が変わったら、いつでも連絡をくれたまえ。ああ、そうだ」彼は、ドアに向かいながら、ふと何かを思い出したように振り返った。「私も、若い頃は、画家を目指していたんだ。君のお祖父さんのようなね。だが、私には、才能を金に換える才能しかなかった。皮肉なものだよ」
そう言って、彼は自嘲気味に笑った。その一瞬だけ、彼の無機質な銀色のオーラの奥に、錆びついた絵の具のような「褪せた赤銅色」が、亡霊のようにちらついたのを、私は見逃さなかった。それは、彼が捨てたはずの情熱の残滓であり、「この人もまた、色に破れた人間なのだ」と、私に直感させた。
影山が去った後、工房には重たい沈黙が残された。テーブルに置かれた名刺の、鋭い角がやけに目に付く。「……あの銀色にも」私がぽつりと呟いた。「昔は、違う色が混じっていたのかもしれないですね」ミナトさんは、私の言葉に静かに頷いた。「描きたかった色を失った人間は、時に、色に値段をつけることでしか、絵と関われなくなるのかもしれない」彼の言葉は、影山を責める響きではなく、むしろ深い哀れみを帯びていた。私たちは、彼もまた、この世界で傷ついた、もう一人の表現者なのかもしれないという事実から、目を逸らすことができなかった。
■共有された揺らぎ
その夜、私たちは、どちらからともなく、作業台に向かい合っていた。けれど、どちらの手も、動かなかった。
「……三百万円、か」 先に沈黙を破ったのは、ミナトさんだった。「正直、助かる額ではあるんだ。この機械の部品も、もう作られていない。いつ壊れてもおかしくないし、修理には、それくらいかかるかもしれない」
彼の言葉は、ただの事実だった。けれど、その奥には、工房を守りたいという、彼の切実な想いが滲んでいた。彼の藍色の中に、不安を示す灰色の粒子が、霧のように混じり始めている。
「でも」と、私は言った。「おじいちゃんの絵は、数字じゃない」 「分かっている」ミナトさんは、私の言葉を遮った。彼は一度、窓の外の暗闇に目をやってから、私の目を見ずに言った。その声には、苛立ちが混じっていた。「分かっているさ。でも、理想だけでは、何も守れないこともあるんだ。君には、分からないかもしれないが」
君には、分からない。その言葉が、私の胸に突き刺さった。私の過去の苦しみを、彼は知らない。
「分かるよ!」私は、思わず声を荒らげていた。「数字に魂を売り渡した人間の気持ちなんて、私の方が、ずっとよく分かる!あれは、麻薬なの。一度手を出したら、もう戻れない。おじいちゃんの絵を、そんな世界に渡したくない!」
私たちは、初めて、互いに感情をぶつけ合っていた。けれど、それは、憎しみ合うためのものではなかった。互いが、同じものを大切に思うが故の、痛みを伴う衝突だった。
気づくと、私は、テーブルの木目を、何度も指でなぞっていた。不安の表れだった。ミナトさんは、何も言わずに、立ち上がると、私に温かいお茶を淹れてくれた。
湯気の向こうで、彼の藍色が、少しずつ、元の静けさを取り戻していく。私の心もまた、その色に呼応するように、凪いでいった。
「……すみません」 「いや、僕の方こそ」
私たちは、同じタイミングで、そう呟いていた。そして、どちらからともなく、小さく笑った。
影山という嵐が、私たちの間にあった見えない壁を、壊してくれたのかもしれない。私たちは、ただ美しいだけの関係じゃない。弱さも、不安も、苛立ちも、すべてを共有できる、本当のパートナーに、なりつつあった。




