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ピクセルに散りばめられた心の色  作者: 大西さん
第10章 画商の影
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第30話 日常の光

祖父の記憶の奔流に飲み込まれた、あの嵐のような一日が過ぎて、私の心身には、心地よい疲労と、今まで感じたことのない種類の静けさが訪れていた。他者の痛みを引き受けることは、ただ共に壊れることではなかった。誰かが隣でその色を受け止めてくれるだけで、暴力的な奔流は、新しい何かを生み出すための、豊かな源泉へと姿を変える。


■日常の光


「そろそろ、お昼にしましょうか」 インクを練る手を止め、ミナトさんがそう言ったのは、ちょうど印刷所の古時計が正午を告げた時だった。彼はエプロンで手を拭うと、店の奥にある小さな階段を上がっていく。そこは、彼のささやかな居住スペースになっていた。


ついていくと、四畳半ほどの板の間に、小さなキッチンと、使い込まれた木のテーブルが置かれていた。窓から差し込む柔らかな光が、部屋の隅の埃をきらきらと照らしている。生活感はあるけれど、不思議と整然とした、彼の人柄そのもののような空間だった。


ミナトさんは、慣れた手つきで冷蔵庫から豆腐とネギを取り出し、まな板の上で小気味よい音を立てて刻み始める。鍋からは、出汁のいい香りが立ち上っていた。私は、何をすればいいのか分からず、ただその入り口で立ち尽くしていた。誰かのために食事が用意される、そんな当たり前の光景が、私にとってはあまりにも久しぶりで、どう振る舞えばいいのか分からなかったのだ。


そんな私に気づいたミナトさんは、ふっと微笑んで、「お椀、そこの棚から取ってもらえますか」と静かに言った。その声に促され、ぎこちない手つきで食器棚から二つの汁椀を取り出す。


やがて、テーブルの上には、湯気の立つご飯と、豆腐とワカメの味噌汁、そしてささやかな卵焼きが並べられた。特別なご馳走ではない。けれど、そのすべてが、温かい光を放っているように見えた。


それは、薄金の色だった。


派手な輝きはないけれど、じんわりと心を温める、日常の温もりの色。味噌汁の湯気と共に立ち上る薄金の粒子が、部屋の光の中で、ゆっくりと溶けていく。私は、その光景を、ただじっと見つめていた。


「どうぞ」 「……いただきます」


二人で向かい合って、静かに箸を進める。味噌汁を一口すすると、出汁の優しい味が、疲れた体にじんわりと染み渡っていった。美味しい。そう思った瞬間、私の体からも、淡い桃色の粒子が、ぽわんと一つ、生まれては消えた。


ミナトさんは、何も話さない。ただ、時々窓の外を眺めながら、穏やかな表情で食事をしている。彼の周りには、もちろんあの深海の藍が漂っているけれど、今はその藍色の中に、食卓を包む薄金の色が、優しく溶け込んでいるように見えた。


会話はなくても、沈黙は少しも苦痛ではなかった。同じものを食べ、同じ時間を共有する。ただそれだけのことが、どれほど人の心を慰めてくれるのか。私は、SNSの何万という「いいね」よりも、この一杯の味噌汁の方が、ずっと確かに、私の空っぽの心を満たしてくれることを、静かに悟っていた。


■影の来訪


穏やかな昼食の後、私たちが階下の工房に戻った時だった。からん、と乾いたドアベルの音が鳴り、一人の男が、躊躇なく中へ入ってきた。


仕立ての良いスーツを着た、四十代くらいの男。髪は整えられ、その立ち居振る舞いには、隙のない自信が満ちている。けれど、彼の体から放たれている色は、その洗練された外見とは裏腹に、鋭く、そして冷たいものだった。それは、磨き上げられたステンレスのような、無機質な銀色。その粒子は、計算と、野心と、そしてほんの少しの焦燥が混じり合って、見る者に威圧感を与える。


「湊谷活版印刷所さんで、お間違いないかな」男は、室内を見回しながら言った。「私は、画廊『KAGEYAMA』の、影山と申します。先日、お電話させていただいた者です」


影山。その名前に、ミナトさんの肩が微かにこわばったのが分かった。彼の藍色が、警戒するように、少しだけその濃度を増す。


「……何の、ご用件でしょうか」 「単刀直入に言おう」影山は、ミナトさんの言葉を遮るように、まっすぐに彼を見つめた。「君のお祖父さん、湊谷氏が所有していた、画家のハル氏の作品を、いくつか譲っていただきたい。もちろん、それ相応の対価はお支払いします。この絵は最低でも300万にはなる。いや、海外のオークションなら…」


生々しい数字に、私は息を呑んだ。祖父の絵が、そんな価値で測られる。その事実に、言いようのない嫌悪感がこみ上げてきた。


「お断りします」ミナトさんは、きっぱりと言った。「あれは、売り物ではありません」 「ほう」影山は、面白そうに口角を上げた。「美しい友情だ。だがね、湊谷君。才能というものは、市場で正当な価格がついて、初めてその価値が証明される。君たちのやっていることは、美しいがただの自己満足だ。才能を、思い出という名の金庫に閉じ込めて、埋もれさせるのは、罪だと思わないかね?」


彼の言葉は、冷たい刃物のように、私たちの信念に突き刺さった。そして、その刃は、特に私に深く突き刺さった。数字こそが価値の証明。それは、かつて私が囚われていた、呪いそのものだったからだ。

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