第29話 限界
色の洪水を浴び続けて、二時間が経った頃だった。私の体は、とっくに限界を超えていた。
最初は、軽い頭痛だった。それが、こめかみを締め上げるような激しい痛みに変わり、やがて、視界そのものが歪み始めた。ミナトさんが練り上げるインクの色が、ぐにゃりと滲んで見える。インクの匂いが、吐き気を催す悪臭に感じられた。気づくと私は、作業台の縁を、指先が白くなるほど強く握りしめていた。
「ハルさん、少し休みましょう」 私の異変に気づいたミナトさんが、心配そうに声をかけてくれる。けれど、私は首を横に振った。今、休むわけにはいかない。祖父の記憶との接続が、途切れてしまうのが怖かった。
「大丈夫……です。続け、てください」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど、か細く震えていた。呼吸が浅くなる。手足の感覚が、少しずつなくなっていく。印刷所の壁際に置かれた、乾き待ちの紙の列が、まるで墓標のように見えた。古時計の音が、私の命を削るカウントダウンのように、不気味に響く。
「……無理だ」
ミナトさんが、ぴたりと手を止めた。「あなたの色が、悲鳴を上げている。これ以上は危険です」
彼の言葉の意味を理解する前に、私の視界は、再びあの赤と黒の奔流に飲み込まれた。今度は、今までで一番強い波だった。祖父が戦場で見た、友の死。その絶望が、鋭いガラスの破片となって、私の全身に突き刺さる。
「あ……、ああ……っ!」
声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まった。もう、立っていられない。体が、糸の切れた操り人形のように、床へと崩れ落ちていく。意識が、遠のいていく。暗闇に沈む寸前、私は、絶望の中で一つの答えにたどり着いていた。他者の痛みを引き受けることの意味なんて、ない。それはただ、共に壊れ、共に沈んでいくだけの、無意味な共鳴なのだ、と。
■救い
意識を失う、その寸前だった。
ふわり、と。私の体を、何かが優しく包み込んだ。
それは、色だった。
全ての音と光を吸い込む、夜の海の底のような藍。
彼が、崩れ落ちる私を抱きとめるように、私の前に立ちはだかったのだ。彼の体から放たれる藍色のオーラが、まるで分厚いビロードのカーテンのように、私と、私を苛む色の洪水の間に割り込んできた。
赤と黒の暴力的な粒子が、彼の藍色に触れた瞬間、すうっとその勢いを失っていく。鋭いガラスの破片は、深い海に沈む雪のように、穏やかに溶けて消えていく。彼の藍は、痛みを消し去るのではない。ただ、その衝撃を、すべて吸収し、受け止めてくれていた。
守られている。
その感覚が、嵐の後の凪のように、私の心に広がっていく。どれくらい、そうしていただろうか。気づくと、私は床に座り込み、ミナトさんのエプロンを握りしめて、子供のように嗚咽していた。
「……ごめん、なさい」 「謝らないでください」 ミナトさんは、私の隣に静かにしゃがみ込むと、作業台の上を指差した。「見てください」
そこには、彼が今まで練り上げてきたインクがあった。私が追体験した、祖父の人生の色。暴力的な赤と黒、挫折の茶色、そして希望の金色。それらが、ミナトさんの藍をベースにしたインクの中で、複雑に混じり合い、滲み合っていた。
それは、もう、どの単色でもなかった。
赤でも、黒でも、金でも、藍でもない。すべての感情を内包した、深く、豊かで、そして、どこか神聖ささえ感じさせる、全く新しい一つの色。滲むインクは、カオスではなく、新しい調和を生み出していたのだ。
「痛みは、それだけではただの破壊でしかないのかもしれない」ミナトさんは、その新しい色を、指先でそっと撫でた。「でも、誰かがそれを受け止め、寄り添うことで、それは、新しい何かを生み出すための、力に変わる。僕は、そう信じています」
彼の言葉が、インクのように、私の心にゆっくりと滲んでいく。
他者の痛みを引き受けることの意味。それは、共に壊れることじゃない。一人では生み出せなかった、新しい色を、新しい意味を、二人で、共に創り出すこと。
私は、涙で濡れた顔を上げた。ミナトさんの周りの藍色は、夕陽の光を浴びた海のように、金の粒子をきらめかせながら、優しく、ただ優しく、私を包み込んでくれていた。




