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ピクセルに散りばめられた心の色  作者: 大西さん
第9章 滲むインク、伝わらない言葉
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第28話 共有の壁

ミナトさんとの共同制作は、翌日から始まった。それは、私が今まで知っていた「制作」という言葉の概念を、根底から覆すような体験の幕開けだった。他者の痛みを引き受けることの意味、そして、言葉で何かを共有することの困難さ。その二つの問いが、私の五感すべてに突きつけられる、生々しい現実となっていく。印刷所の古時計が刻む、カチ、カチ、という乾いた音が、ゴングのように鳴り響いていた。


■共有の壁


印刷所の扉を開けると、昨日と同じ、インクと紙の匂いが私を迎えてくれた。けれど、今日はその匂いに、微かな緊張感が混じっている。作業台の上には、私のタブレットと、祖父の未完成の肖像画が、並べて置かれていた。デジタルとアナログ。虚構と実体。そして、私と祖父。異なる時代を生きた二つの魂が、今、この場所で交差しようとしていた。


「準備は、いいですか」 ミナトさんは、いつものように静かな声で言った。彼の周りには、今日も使い込まれた藍染めの布のような、穏やかで温かみのある藍が揺蕩っている。私はこくりと頷き、タブレットの電源を入れた。画面に表示されるのは、私が祖父の絵から読み取り、デジタルで再現した「心の色」。夕陽のような赤金色と、祈りのような一筋の青。


「まず、この赤金からお願いします。温かくて……でも、ただ温かいだけじゃないんです。もっと、こう、夕暮れがもうすぐ終わってしまうような、寂しい光が混じっていて……」 私は、画面をミナトさんに見せながら、色の持つニュアンスを必死に言葉で伝えようとする。けれど、言葉にすればするほど、本質が指の間からこぼれ落ちていくような、もどかしい感覚に襲われた。色は見えても、言葉にできない。


「……分かります」ミナトさんは静かに言うと、「少し、失礼します」と私の隣に立った。そして、私のタブレットを持つ手に、彼の手をそっと重ねてきたのだ。驚いて顔を上げると、彼は私の目ではなく、画面の色だけを、真剣な眼差しで見つめている。「あなたの目を通して、この色を『感じ』ます。だから、あなたも、この色に意識を集中し続けてください」


言われた通りに、画面の色をじっと見つめる。すると、不思議なことが起こった。画面の中の赤金色のピクセルが、まるで呼吸を始めるかのように、ゆっくりと明滅し始めたのだ。それは、私の意識が、デジタルの色を介して、祖父の記憶へと接続された瞬間だった。


古時計の音が、だんだんと遠のいていく。目の前にあるのは、ただ、祖父が生きた時間の断片。絵を描く喜び、家族と過ごす温かい食卓、アトリエに差し込む午後の光。そのすべてが、赤金色の粒子となって、私の意識の中に流れ込んでくる。それは、心地よく、そして少しだけ切ない、追体験だった。


■色の洪水


ミナトさんのインク練りは、一種の儀式のようだった。彼は、私の言葉にならない色の波動を頼りに、パレットナイフで様々な色のインクを少しずつ混ぜ合わせていく。赤、黄、金、そしてほんの少しの黒。それらが練り合わされるたびに、私の脳裏には、祖父の人生の新たな場面が、鮮烈な色となって映し出された。


画家としての成功を夢見る、若き日の野心。それは、溶鉱炉の奥で燃え、まだ不純物を多く含んだ鉄のような、ギラギラとした真紅となって現れた。初めての個展で、自分の絵が売れた時の純粋な喜びは、弾けるような黄金の飛沫となった。


けれど、穏やかな記憶ばかりではなかった。


突然、視界が、暴力的な色で埋め尽くされた。


赤と黒。


それは、私が知っているどんな赤とも黒とも違っていた。血飛沫のような赤と、すべてを無に帰すような漆黒。二つの色が、互いを喰い合うように激しくぶつかり合い、火花を散らしている。そこには、憎しみも、悲しみも、怒りさえもなかった。ただ、純粋な恐怖と、破壊の衝動だけが、濁流となって渦巻いている。


「うっ……!」


思わず呻き声が漏れた。戦争だ。祖父が体験した、あの地獄の色。直接的な映像は見えない。ただ、色の奔流が、爆音と、叫び声と、鉄の匂いを伴って、私の五感を蹂虙する。他者の痛みを引き受けるということは、こういうことなのか。綺麗事ではない。魂が、根こそぎ削り取られていくような、圧倒的な暴力。私が祖父の記憶に深く同調したその瞬間、隣に立つミナトさんの藍色に、一瞬だけ、「畏れ」を示す冷たい銀色の光が混じったのを、私は視界の端で確かに捉えていた。他者の魂の深淵に触れたことへの、彼自身の戸惑いや恐怖が、その銀色の閃光となって現れたのだ。


その赤と黒の奔流が過ぎ去ると、今度は、画家としての挫折の色が押し寄せてきた。思うように描けない苦しみは、泥水のような茶色となって視界を濁らせる。生活のために、描きたくもない絵を描かなければならない屈辱は、錆びついた鉄のような、ざらついた焦茶色をしていた。


けれど、どんなに暗い色の中でも、必ず、一筋の光が見えた。


それは、細く、けれど決して途切れることのない、純金の色。


どんな絶望の中にあっても、描くことを諦めなかった祖父の魂。家族への愛。そして、まだ見ぬ未来への、かすかな希望。その金の筋が、暗闇を切り裂くように、私の意識の中に差し込んでくる。祖父は、ただ苦しんでいたわけじゃない。この光を、守り抜くために、戦い続けていたのだ。

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