第27話 告白
印刷機が止まると、アトリエには再び静寂が戻ってきた。残るのは、インクの匂いと、機械が発する余熱だけ。壁際にずらりと並べられた、試し刷りの紙の列が、まるで楽譜のように見えた。一つひとつ、インクの乗りや圧が微妙に違う。完璧を求める、職人の執念の記録だ。
私たちは、作業台を挟んで、向かい合っていた。ミナトさんの周りには、相変わらず、あの深海の藍が、静かに揺蕩っている。その色に見守られていると、不思議と、今まで誰にも言えなかったことを、話してもいいのかもしれない、という気持ちが湧い上がってきた。
「あの……私が、祖父の肖像画を完成させたいのには、理由があるんです」
声が、少し震えた。ミナトさんは、何も言わず、ただ静かに私の次の言葉を待っている。彼のその沈黙が、私に勇気をくれた。
「私には……昔から、人の感情が、色になって見えるんです」
言ってしまった。
堰を切ったように、言葉が溢れ出した。それは、自分でも驚くほど、抑制の効いた、静かな告白だった。祖母の葬儀で見た、悲しみの藍色の雨のこと。親友を傷つけてしまった、嫉妬の濁った緑色のこと。SNSの数字に溺れ、自分自身の色を見失ってしまったこと。そして、この印刷所の扉を開けた時、彼の藍色が、どれほど私を救ってくれたかということ。
話している間、私は一度も泣かなかった。ただ、事実を、淡々と伝えることに集中した。まるで、他人事のように。それが、正気と自尊心を保つための、私なりの最後の砦だった。
一通り話し終えると、重たい沈黙が落ちた。ああ、やっぱり、引かれてしまっただろうか。気味悪がられただろうか。頭がおかしいと思われただろうか。後悔の念が、冷たい靄となって胸に広がり始める。
けれど、ミナトさんの反応は、私の予想とは全く違うものだった。
彼は、驚いた様子も、疑う様子も、一切見せなかった。ただ、深く、そして慈しむような眼差しで、私を見つめている。彼の周りの藍色は、少しも揺らぐことなく、むしろ、その深さを増しているようだった。彼は、私の告白を、その言葉の奥にある痛みも、孤独も、すべて丸ごと、その深い藍色で受け止めてくれていた。
その絶対的な肯定の前に、私は、ようやく、心の底から安堵のため息をつくことができた。私の体から、張り詰めていた緊張が抜け、代わりに、淡い桃色の粒子が、ほろほろと、涙のようにこぼれ落ちた。
■提案
「そうでしたか」
長い沈黙を破って、ミナトさんが静かに言った。「画伯が、あなたに『見えないもの』の大切さを伝えたがっていた理由が、少しだけ、分かった気がします」
彼は、作業台の上に置かれていた一枚の試し刷りを手に取った。それは、インクの量が多すぎて、文字が少し滲んでしまった失敗作だった。
「この部分、インクが滲んでいるでしょう?」彼は、その滲んだ箇所を、インクで汚れた指先でそっと撫でた。「僕には、あなたのように心の色は見えません。でも……別の方法で、それを『感じる』ことはできるんです」
別の方法で、感じる。その言葉に、私ははっとした。
「例えば、このインクの滲み。悲しみと愛情が混ざった時、インクは、よくこんな風に滲む。喜びが強い時は、紙の繊維が立ち上がるように、インクが盛り上がる。僕には、それが指先で分かるんです。インクの粘度や、紙の湿り具合、圧のかかり方。そのすべてが、刷り上がったものに『感情』として現れる。僕も、祖父から受け継いだこの繊細すぎる感受性に、若い頃は随分と苦しめられました」
彼は、私が見ている色の世界を、触覚と経験の世界で、完璧に理解していた。見ているものは違えど、感じている本質は、同じなのかもしれない。
孤独だと思っていたこの能力は、分かち合えるのかもしれない。
ミナトさんは、私の顔を真っ直ぐに見つめ、そして、信じられないような提案をした。
「じゃあ、こうしませんか」彼の声には、確信に満ちた響きがあった。「あなたがタブレットで描いた、お祖父さんの心の色。そのデジタルデータを、僕に見せてください。あなたが『見た』色を、僕がこの手で『感じ』ながら、特別なインクとして再現します。そして、そのインクを使って、この機械で、あの白い余白に印刷するんです。あなたの目と、僕の手で。きっと画伯も、それを望んでいたはずです」
共同制作。デジタルとアナログの融合。私の目と、彼の手。それは、私が想像もしなかった、けれど、心のどこかでずっと求めていた、唯一無二の答えだった。
■握手の代わり
ミナトさんの提案に、私は、ただ頷くことしかできなかった。言葉にならないほどの感謝と、これから始まることへの期待で、胸がいっぱいだった。彼の周りの藍色が、まるで祝福するように、きらきらと輝いて見える。私の体からも、安堵を示す淡い桃色の光が、溢れ続けていた。
何か、この気持ちを形にして伝えたかった。けれど、「ありがとう」という言葉だけでは、あまりにも足りない気がした。差し出された救いの手に、どう応えればいいのか分からない。
すると、ミナトさんは、ふっと微笑んだ。そして、新しい試し刷りの紙を一枚手に取ると、インク練り台の隅に残っていた、彼の藍色によく似たインクを、人差し指の先に、ちょんとつけた。
そして、その指を、真っ白な紙の上に、そっと押し当てる。
そこに現れたのは、彼の指紋がくっきりと浮かび上がった、小さな藍色の円。それは、彼自身の、確かな存在の証だった。
彼は、その紙を、無言で私の方に差し出した。
握手の代わりだ。そう、直感した。
私は、ポケットの中で握りしめていた祖父の絵筆を取り出した。そして、キャップを外し、ミナトさんが使ったインクを、その筆先に、ほんの少しだけつける。
彼の藍色の指紋の隣に、私は、小さな四角を描いた。
私がいつも見ている、感情の最小単位。ピクセル。
紙の上で、彼の有機的な指紋と、私の無機的なピクセルが、静かに隣り合っている。それは、違う世界に生きてきた二人が、初めて交わした、言葉よりも雄弁な契約の証だった。
私たちは、その小さな紙を挟んで、どちらからともなく、小さく微笑み合った。印刷機の鉄の匂いと、インクの甘い香りの中で、私たちの、そして祖父の物語が、今、確かに、新しい一歩を踏み出した。




