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ピクセルに散りばめられた心の色  作者: 大西さん
第8章 深海のような藍
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第26話 工程見学と価値観の衝突

祖父が遺した「心は触れられるものに宿る」という言葉。その本当の意味を、私はこのインクと紙の匂いが満ちる場所で、今まさに全身で受け止めていた。目の前にいるミナトさんという青年が放つ、深海のような藍色。それは、私がずっと独りで抱えてきた能力の孤独さを、静かに溶かしてくれる不思議な力を持っていた。


■工程見学と価値観の衝突


「もしよければ、少し、見ていきますか」私の申し出に静かに頷いた後、ミナトさんはそう言って、店の奥にある巨大な印刷機へと私を促した。それは、眠っていた鉄の巨人が目を覚ますかのように、重々しい存在感を放っている。「これは、ハイデルベルグ社のプラテン機。この工房のぬしです。もう七十年以上も、気難しい顔で文句ひとつ言わず、働き続けてくれています」彼は、まるで長年の相棒を紹介するように、愛おしげな手つきで機械の鉄のボディをそっと撫でた。


彼は、壁一面に広がる巨大な棚から、木製の引き出しを一つ、静かに引き出した。中には、何百という鉛の活字が、整然と眠っている。彼は、ピンセットのような道具を使い、その中から目的の文字を一つ、また一つと拾い上げていく。


その指先に伝わる、鉛だけが持つ、ひんやりとした重み。活字ケースの木枠に、金属の活字が「こつん」と当たる、乾いた音。何十年も人の指に触れられて、角が丸くなった活字の、滑らかな感触。


彼の仕事は、単なる作業ではなかった。言葉の重みそのものを、一つひとつ拾い上げる、神聖な儀式のように、私には見えた。


彼がスイッチを入れると、低い唸り声と共に、機械がゆっくりと生命活動を開始した。ガチャン、ガチャン、という規則正しい金属音。それは、SNSの通知音のような軽薄さとは無縁の、眠っていた鉄の巨人が始めた深呼吸であり、確かな重みを持った心臓の鼓動だった。床から、足の裏を伝わって、体の芯まで届く、心地よいローラーの振動。ミナトがインキナイフでインクを練る、カシャ、カシャ、というリズミカルな音だけが、その重厚な呼吸の合間に響き、まるで職人の精神統一を促すための鐘の音のように聞こえた。


ミナトさんの作業は、無駄がなく、流れるように美しかった。インキナイフと呼ばれる金属のヘラを使い、練り台の上で黒いインクを練り上げていく。粘り気のあるインクが、鈍い光を放ちながら、彼の意のままに姿を変えていく。


「インクは、生き物なんです。その日の気温や湿度で、機嫌がすぐに変わる。デジタルならスライダーを動かすだけで済むんでしょうけど」彼は、私に視線を向けずに言った。その言葉には、棘はなかったが、デジタルとアナログの間にある、埋めがたい哲学の違いが滲んでいた。「僕たちは、インクが紙に馴染む時間を、ただ待つしかない」


次に彼は、活字が組まれた版を機械にセットし、一枚の厚いコットン紙を差し込んだ。機械がアームを動かし、紙を咥え、版へと押し付ける。一瞬の圧着。そして、刷り上がった一枚が、静かに排出トレイへと滑り落ちてきた。


彼はその一枚を手に取り、私に差し出してくれた。受け取った紙は、まだほんのりと温かい。印刷された文字の部分が、わずかに凹んでいるのが、指先から伝わってくる。触覚で読む文字。その確かな手触りに、私は感動で打ち震えた。デジタルの画面では決して感じることのできない、物質としての言葉の重み。そこには、ミナトさんの丁寧な仕事と、この機械が刻んできた七十年という時間が、確かに宿っていた。

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