第25話 邂逅
「……あの、大丈夫ですか?」
不意に、奥から声がした。はっとして顔を上げると、一人の青年が、心配そうな顔でこちらを見ていた。私と、同じくらいの歳だろうか。少し長めの黒髪が、柔らかな光の中で揺れている。インクの染みで汚れた、紺色のエプロン。その胸元には、「湊谷」という刺繍があった。
彼が、ミナトさん。
私は慌てて涙を拭った。けれど、彼の姿を見た瞬間、私は再び、言葉を失ってしまった。
彼の体から、色が発せられていたからだ。
それは、深く、静かで、どこまでも澄んだ藍色だった。
けれど、その色は、私が今まで見てきたどの藍色とも、全く違っていた。祖母の葬儀で見た、母の悲しみの藍は、胸が張り裂けそうになるほど重く、冷たい雨のようだった。けれど、彼の藍は、違う。それは、悲しみや絶望の色ではなかった。
古い紙とインクの匂いがする、静かで、少しひんやりとした藍色。夜の、深い海の底の色。それは視覚情報であると同時に、私の肌を撫でる、ひんやりと滑らかな絹のようでもあった。すべての音を吸収し、すべてを優しく包み込むような、絶対的な静けさと、包容力の色。見ているだけで、荒れ狂っていた私の心の波が、すうっと凪いでいくのが分かった。長時間見ていても、頭痛も吐気も、全く起こらない。むしろ、心の奥底から、じんわりと温かくなってくるような、不思議な感覚。虚構のネオンピンクとは対極にある、魂を鎮める本質的な色だった。
「すみません、突然……」私がかろうじてそう言うと、彼は「いえ」と小さく首を振った。そして、私の手の中にある、黄ばんだメモに気づいたようだった。「そのメモは……」「祖父の遺品の中から、見つけました。画家の、ハルという者の孫です」
私の言葉に、彼は少しだけ目を見開いた。そして、ふっと、その表情を和らげる。「……そうでしたか。画伯の、お孫さん」彼の声は、その藍色のオーラと同じように、静かで、落ち着いていた。「お待ちしていました。いつか、誰かがこれを持って、ここを訪ねてくれると、僕も、僕の祖父も、ずっと信じていましたから」
彼の指先が、作業台の木目にそっと触れる。長く使い込まれて、インクの染みが地図のように広がった、美しい木目。その指先もまた、黒いインクで染まっていた。けれど、その汚れは、少しも不潔には見えなかった。むしろ、彼がどれだけ真摯に、この仕事と向き合ってきたかを示す、誇り高い勲章のように見えた。
■祖父の言葉
ミナトさんは、私を店の奥へと招き入れてくれた。どうぞ、と勧められた古い木製の椅子に腰を下ろす。彼が淹れてくれた温かいお茶の湯気が、インクの匂いと混じり合った。
「画伯……あなたのお祖父さんには、僕の祖父が、大変お世話になりました」ミナトさんは、少し離れた場所にある、巨大な鉄の塊――活版印刷機に寄りかかりながら、静かに語り始めた。「二人は、戦友だったそうです。戦争から帰ってきて、一人は絵を描き、一人は文字を拾う。やり方は違えど、二人とも、形のないものを、形あるものとして残すことに、人生を捧げていました」
彼の言葉を聞きながら、私は、祖父の肖像画に混じっていた、あの青い待望の色を思い出していた。祖父は、この場所と、ここにいる青年と、私が再び繋がることを、ずっと待ち望んでいたのだ。
「あなたのお祖父さんは、よくこう言っていました」
ミナトさんは、私の目を真っ直ぐに見つめた。彼の深い藍色の瞳に、吸い込まれそうになる。
「『心は、触れられるものに宿る』と」
心は、触れられるものに宿る。
その言葉は、まるで鐘の音のように、私の空っぽの心の中に、深く、そして重く響き渡った。
触れられるもの。油絵具の凹凸。インクの染みた紙の質感。この、作業台の木目。それらすべてに、作り手の心が、時間が、人生が、確かに宿っている。それに比べて、私が追い求めていたものは何だっただろう。SNSの「いいね」の数。フォロワーの数。それらは、決して触れることのできない、実体のない、空虚な数字の羅列だ。
見えないものにこそ価値がある。その答えが、今、目の前にあった。価値があるのは、目に見えない「心」そのものだ。そして、その心は、目に見えて、手で触れられる「物質」に宿ることで、初めて誰かに届くのだ。
祖父の温かい赤金色の記憶と、ミナトさんの静かな藍色の存在が、私の心の中で交差し、新しい光を生み出していく。それは、金色でも青色でもない、まだ名前のない、希望の色だった。
「あの……」私は、震える声で言った。「祖父が遺した、未完成の肖像画があるんです。それを、完成させたくて……」
ミナトさんは、黙って私の言葉を聞いていた。そして、すべてを理解したように、深く、静かに頷いた。彼の周りの藍色が、ほんの少しだけ、温かく揺らめいたように見えた。




