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ピクセルに散りばめられた心の色  作者: 大西さん
第7章 活版印刷所の扉
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第24話 路地

空が、急に狭くなった。


左右を近代的なビルに挟まれた、細く、薄暗い路地。アスファルトの地面には、一日中陽が当たらないのだろう、湿った空気が澱のように溜まっている。放置されたゴミ袋から漏れる酸っぱい匂いが、微かに鼻をついた。頭上では、ビルの壁面に設置された室外機が、単調な唸り声を上げていた。さっきまでの商店街の喧騒が嘘のように遠ざかり、ここだけが世界から切り離されたような、不思議な静寂に包まれていた。


スマホの地図は、この路地の真ん中あたりを指して、「目的地です」と無機質な音声で告げた。けれど、周りを見渡しても、お洒落なカフェや雑貨店があるわけではない。ただ、古びた町工場や、人の気配のない事務所のドアが並んでいるだけ。本当に、こんな場所に?


不安に駆られながら、一歩、また一歩と奥へ進む。その時だった。ふと、ある建物の前で足が止まったのは。


三階建ての、くすんだモルタル壁のビル。一階部分だけが、深い緑色に塗られた木枠のガラス戸になっていた。錆びついた鉄製の看板には、かろうじて「湊谷活版印刷所」という古い書体の文字が読み取れる。ここだ。


私は、しばらくその建物を、ただ呆然と見上げていた。それは、私が今まで生きてきた、きらびやかで、移ろいやすいデジタルの世界とは、あまりにもかけ離れた存在だった。何十年という時間が、その壁の染みや、窓枠のペンキの剥がれに、確かに刻み込まれている。それは、SNSのタイムラインのように、決して流れ去ることのない、確かな重みを持った時間だった。


心臓が、少しだけ速く打つのを感じる。ドアノブに手をかけるのを、一瞬ためらった。この扉を開けてしまったら、もう後戻りはできない。色のない靄に閉ざされた、安全な私の世界が、終わってしまうかもしれない。けれど、ポケットの中で握りしめた祖父の絵筆が、かすかな温もりを伝えてくる。「行け」と、そう背中を押されているような気がした。


意を決して、重たい真鍮のドアノブに手をかけ、ゆっくりと、力を込めて扉を引いた。


■匂いの洗礼


扉が開いた瞬間、私は、匂いの洪水に襲われた。


それは、今まで嗅いだことのない、けれど、魂の奥底のどこかでずっと知っていたような、懐かしい匂いだった。


まず、鼻をつくのは、油性のインクが放つ、独特の甘く、そして少しツンとする香り。次に、様々な種類の紙が持つ、乾いた植物のような匂い。そして、それらを支えるように、古い木材と、冷たい金属の匂いが、すべてを包み込んでいる。それは、物質だけが持つことのできる、複雑で、豊潤な匂いのシンフォニーだった。


その匂いを吸い込んだ瞬間、私の涙腺は、何の予告もなしに決壊した。


ぼろぼろと、大粒の涙が頬を伝って落ちる。自分でも、なぜ泣いているのか分からなかった。悲しいわけではない。嬉しいわけでもない。ただ、この匂いが、私の空っぽの心の中に、あまりにも優しく、そして深く染み渡ってきたのだ。


それは、私がSNSの世界で失ってしまった、すべてのものだった。手触り、重さ、そして、時間。数字や「いいね」では決して測れない、確かな存在感。祖父のアトリエで感じた匂いと同じ、何かを「創り出す」場所だけが持つ、神聖な空気。デジタルアートという、無臭で、無菌で、指先一つで消せてしまう虚構の世界に浸かりきっていた私の魂が、この本物の匂いに触れて、浄化されていくようだった。


涙で滲む視界の先、薄暗い室内の奥には、壁一面に設置された、巨大な棚が見えた。それは、無数の木製の引き出しで埋め尽くされている。活字の引き出しだ。その一つひとつに、鉛でできた文字たちが、出番を待って眠っている。その光景は、まるで巨大な図書館の書架のように、荘厳で、静かな知性に満ちていた。


私は、入り口に立ち尽くしたまま、ただ泣き続けた。それは、自分自身の空虚さを洗い流す、生まれて初めての、温かい涙だった。

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