第21話 未完成の顔
「まあ、こんなものが入っていたのね」
母が箱の奥から取り出したのは、一枚のキャンバスだった。大きさはそれほどでもない。けれど、そこに描かれた絵を見て、私は息を呑んだ。
それは、一人の男の肖像画だった。
がっしりとした肩、少し猫背気味の背中。着ているセーターの質感まで伝わってくるような、力強い筆致。背景には、彼が愛したであろうアトリエの風景が描かれている。けれど、その絵は、決定的に何かが欠けていた。
顔。
首から上の部分が、真っ白な余白のまま、ぽっかりと残されているのだ。下塗りのジェッソが塗られただけの、何も描かれていない、聖域のような白。
私は、吸い寄せられるようにそのキャンバスに近づいた。指先で、そっと絵の具の部分に触れてみる。ごつごつとした、油絵具の凹凸。それは、私がタブレットの滑らかな画面の上で失ってしまった、確かな「手触り」だった。スタイラスペンが生み出すデジタルのピクセルとは全く違う、物質としての絵の具が持つ、圧倒的な存在感。
指を滑らせると、絵から微かに立ち上る祖父の「心の色」が見えた。あの温かい赤金色が、絵全体を包み込んでいる。それは、描かれている人物――おそらく祖父自身――への、深い愛情の色だろう。けれど、その赤金色の奥に、一筋だけ、違う色が混じっていることに気づいた。
静かで、澄んだ青色。
それは、何かを、あるいは誰かを、ひたすらに待ち望む色だった。希望とは少し違う、もっと切実で、祈りに近い青。この未完成の肖像画は、ただ途中で放棄されたわけではない。この青い待望の色は、この絵が「未完成」であること自体に、何か重要な意味があるのだと、私に強く訴えかけていた。




