第19話 鏡の靄
支えてくれたのは、ゼミの友人だった。彼に助けられ、私はなんとかギャラリーのバックヤードにあるトイレに逃げ込んだ。冷たい水で顔を洗うと、少しだけ意識がはっきりした。心臓が、まだバクバクと音を立てている。
震える手で蛇口を閉め、ゆっくりと顔を上げる。そこに、鏡があった。曇った鏡。私は、その中に映る自分の姿を、恐る恐る見つめた。
そこにいたのは、青白い顔をした、知らない女だった。
目の下には深い隈が刻まれ、血の気の失せた唇は小さく震えている。そして、何よりも私を恐怖させたのは、私自身の「色」だった。
私の体からは、何の色も発せられていなかった。
喜びも、悲しみも、怒りさえも。そこにあるのは、ただ、ゆらゆらと揺らめく、透明な靄だけ。まるで、すりガラス越しに自分を見ているかのように、輪郭がぼやけている。感情という、人間を人間たらしめる色が、私の中から完全に抜け落ちてしまっていた。
鏡の中の私は、空っぽの器だった。教授の言った通りだ。魂がない。
トレードマークだったはずの、ピンクと水色のメッシュを入れた髪が、その透明な靄の中では、まるで色褪せた古い写真のように、くすんで見えた。SNSで完璧な私を演じるためのピンク。誰とも繋がれない現実の私を示す水色。その二色さえも、自己喪失という名の濃い霧に覆われて、その意味を失っている。
私は、誰だっけ。
三万人のフォロワーに「天才」と崇められる、デジタルアーティストの「HAL」。それとも、本物の色を描けず、数字に魂を売り渡した、ただの臆病な女。
鏡の中の靄は、ますます濃くなっていく。もう、自分の顔さえもはっきりと見えない。まるで、世界から私という存在だけが、消しゴムで消されていくような感覚。
「いや……」
喉から、かすれた声が漏れた。
これが、私が求めたものの結末なのか。承認の数字と引き換えに、私は、自分自身の色を、自分の魂を、完全に失ってしまったのだ。
鏡に映る、色のない、透明な靄。それこそが、SNSの向こう側にたどり着いた、私の、真実の姿だった。




