第10話 喪失、そしてモノクロへの逃避
一人残された美術室で、私は、床に落ちたスケッチブックを、ただ呆然と見つめていた。絵の具の匂いが、鼻をつく腐臭に変わっている。私の世界は、音を失っていた。
ゆっくりと、そのスケッチブックを拾い上げる。緑色の絵の具は、まだ乾いておらず、私の指を汚した。それは、ユカリの嫉妬の色であり、私の絶望の色だった。もう、この絵は、元には戻らない。私たちの友情も。
この具体的な「裏切り」と「喪失」は、前半の物語における、あまりにも大きな山場となった。ハルの孤立と、絵を描くことから離れる動機は、より切実で、説得力のあるものになった。
家に帰る道すがら、私は、汚されたスケッチブックを、ゴミ箱に捨てた。私の魂の一部を、自らの手で葬り去る儀式だった。もう、何も描きたくない。色なんて、見たくもない。
色のない世界へ逃げたかった。感情のピクセルが飛び交う、このうるさくて痛い現実から、どこか遠くへ消えてしまいたかった。そんな時、私を救ってくれたのは、祖父が遺した古い映画のコレクションだった。
ある週末の午後、自室に引きこもっていた私は、本棚の隅でほこりをかぶっていたDVDのケースを手に取った。黒澤明監督の『生きる』。ジャケットは色褪せ、モノクロの写真の男が、寂しげにブランコに揺られている。何となく、その無彩色の世界に惹かれた。
再生ボタンを押すと、画面にざらついた粒子が浮かび上がった。白黒フィルムの粒子感。それは、私が日常的に見ている感情のデジタルなピクセルとは全く違っていた。温かくも冷たくもなく、ただそこにあるだけの、無機質な光と影の粒。
物語が始まると、私はすぐにその世界に引き込まれた。主人公の男が、自分が癌であることを知り、残された人生の意味を探して彷徨う。彼の絶望も、焦りも、そして最後に見つける小さな希望も、すべてが白と黒の濃淡だけで表現されていた。
そこには、色がなかった。
登場人物たちがどんなに激しい感情をぶつけ合っても、私の目には、あの苦しい色の洪水は見えなかった。悲しみは黒い影として、喜びは白い光として、ただ静かにそこにあるだけ。それは、私にとって信じられないほどの安らぎだった。感情を「見る」のではなく、物語として「観る」ことができる。その安全な距離が、傷ついた私の心を癒してくれた。
フィルムの粒子の一つひとつが、私を守ってくれる繭のように思えた。このざらついたモノクロの世界の中では、私は誰にも傷つけられないし、誰も傷つけることはない。私は夢中になって、次々と白黒映画を観た。『羅生門』『七人の侍』『東京物語』。どの映画も、色のない世界がいかに豊かで、深い物語を紡ぐことができるかを教えてくれた。
色なんて、なくてもいいのかもしれない。むしろ、ない方が、人は物事の本質を静かに見つめることができるのかもしれない。色鮮やかな現実は、あまりにも情報量が多すぎて、うるさくて、そして痛すぎる。私は、この安全で美しいモノクロの世界に、深く、深く沈み込んでいった。