第9話 汚されたスケッチブック
コンクールの日を境に、私とユカリの間にあった透明な空気は、粘り気のある濁った緑色に取って代わられた。それは、私たちの間に築かれた、見えないけれど確かに存在する壁だった。今まで当たり前のように交わしていた朝の挨拶も、昼休みの他愛ないお喋りも、放課後の美術室で隣り合って絵を描く時間も、すべてがぎこちない沈黙に変わってしまった。
真実の色を見てしまうことは、残酷なことなのだろうか。ユカリの笑顔の裏に渦巻く嫉妬を知ってしまった日から、その問いが、冷たい棘のように私の胸に突き刺さっていた。
決定的な事件が起こったのは、コンクールの結果発表から一週間が過ぎた、冬の曇天が空を覆っていた日の放課後だった。美術室で一人、イーゼルに向かっていると、珍しくユカリが入ってきた。忘れ物でもしたのだろうか、気まずい沈黙が、絵の具の匂いが充満する部屋に重くのしかかる。
「……ユカリ」
勇気を振り絞って、声をかけた。彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り返る。その瞬間、彼女の体から、今までで一番濃い緑色の靄が、ごぼりと音を立てるように溢れ出した。その色を見るだけで、私の胃はきりりと痛み、吐き気がこみ上げてくる。
私の沈黙を、ユカリは肯定と受け取ったようだった。彼女の表情からすっと光が消え、その瞳に深い絶望の色が浮かぶ。
「なんで……」か細い声が、静かな美術室に響いた。「なんで、私を見るとき、そんな顔するの?」
違う、と叫びたかった。けれど、言葉は喉に詰まって出てこない。
ユカリは何も言わず、踵を返して美術室から出て行こうとした。その時、彼女の視線が、私の机の上に置かれたままになっていた、一冊のスケッチブックに留まった。それは、私が誰にも見せず、大切に描き溜めていた空想風景画のスケッチブック。ユカリがかつて、「ハルちゃんの世界って、こんなに綺麗なんだ」と目を輝かせてくれた、私の魂そのものだった。
彼女は、吸い寄せられるようにそのスケッチブックを手に取った。一ページ、また一ページと、無言でめくっていく。彼女の周りを覆っていた濁った緑は、もはや靄ではなく、嫉妬と自己嫌悪が混じり合った、どす黒い奔流となって渦巻いていた。
そして、彼女は、近くにあったパレットを掴んだ。そこには、使いかけの絵の具が、まだ生々しく残っている。
「やめて」
私の声は、彼女には届かなかった。
ユカリは、パレットナイフで、緑色の絵の具を無造作にすくい取ると、それを、スケッチブックの見開きのページに、叩きつけた。
ぐちゃり、という鈍い音。パレットナイフの金属の縁が、画用紙の繊維を、ざり、と削る音がした。粘り気のある油絵具が引き伸ばされる時の、鈍い抵抗感が、私の魂を物理的に引き裂くようだった。
私が描いた、繊細な青色の空想風景が、粘り気のある緑の絵の具に、無残に塗り潰されていく。それは、単なる悪戯ではなかった。私の魂に対する、明確な裏切りであり、冒涜だった。
ユカリは、我に返ったように、はっと息を呑んだ。自分の手についた緑の絵の具と、汚されたスケッチブックを、交互に見比べている。その瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「私には……」彼女は、嗚咽混じりに言った。「私には、ハルみたいに心の色を描けない……だから、壊すことしか、できなかった……!」
それは、凡人が天才を前にした時の、魂の叫びだった。彼女はスケッチブックを床に落とし、自分の手についた絵の具を忌々しげに見つめながら、美術室から逃げるように去っていった。