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ピクセルに散りばめられた心の色  作者: 大西さん
第1章 色を見る少女
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第0話 オリジナルショートストーリー版

初めて「心の色」を見たのは、小学三年生の夏だった。祖母の葬儀の日、泣き崩れる母の周りに、藍色の光の粒子が雨のように降り注いでいた。それはコンピュータの画面で見るピクセルのように、一つひとつが独立しながらも、全体として悲しみの形を作っていた。その色があまりにも濃く、重く、私は頭を抱えて悲鳴を上げた。必死に目を閉じても、瞼の裏に色が焼き付いて離れなかった。その夜から三日三晩、高熱にうなされ、「もう見たくない」と泣き叫んだのを覚えている。


以来、私の目には人々の感情が、デジタルデータのような光の粒となって見えるようになった。喜びは黄金のパーティクル、怒りは赤い火花、恐怖は紫の靄。そして同時に、強い感情を見続けると、激しい疲労に襲われることも知った。


中学二年の時、親友のユカリが突然私を避けるようになった。理由が分からず近づいた時、私は見てしまった。ユカリから噴き出す、どす黒い緑色の粒子。それは、クラスで一番に選ばれた私の絵への、押し殺した嫉妬の色だった。ユカリの「なんで、私を見るとき、そんな顔するの?」という問いに、私は何も言えなかった。見えすぎることの残酷さを、誰にも説明できなかった。それ以来、人と深く関わることが怖くなった。


美大三年生になった今、渋谷のカフェで一人、タブレットに向かっている。SNSのフォロワーは三万人を超え、「天才デジタルアーティスト」と呼ばれることもある。投稿すればすぐに「いいね」が千を超えるが、投稿ボタンを押した瞬間、胸が締め付けられる。タブレットを裏返し、震える手で珈琲を飲む。数字が増えても、心の穴は深くなるばかり。昨日投稿した「都市の孤独」という作品には、五千の「いいね」がついた。青と紫のグラデーションが美しいと評判だが、私が本当に描きたかったのは、満員電車で見た、疲れ切ったサラリーマンから立ち上る、灰色がかった青——諦めの色だった。私はいつの間にか、他人が見たい「映える」色を描くようになっていた。本当の「心の色」——その重さ、痛み、温度——は、どうしてもピクセルには変換できない。


髪のピンクと水色のメッシュが、カフェの照明に照らされてキラキラと光る。友人から褒められるこの二色は、SNSで完璧を演じる私と、誰とも繋がれない現実の私の象徴。そして、私には一つだけ、どうしても見えないものがある。自分自身の心の色だ。鏡を見ても、そこには色のない、透明な靄しか映らない。まるで、私だけが世界から取り残されたような、空虚な存在。


祖父の遺品整理で見つけた描きかけの肖像画は、顔の部分だけが白く残されていた。油絵の具の凹凸、筆跡、そこには確かな「手触り」があった。震える手でキャンバスに触れると、絵から微かに立ち上る祖父の「心の色」が見えた。赤と金が混ざった夕陽のような温かい色で、その中に一筋の青い光が混じっていた。それは、何かを——誰かを待ち望む色。母は、祖父が「見えすぎるあの子に、見えないものの大切さを教えてあげたい」と言っていたことを告げた。祖父の画材箱の底には、活版印刷所の住所と、「ミナトという青年を訪ねなさい」と記されたメモが挟まっていた。


下町の活版印刷所は、ビルの谷間にひっそりと佇んでいた。重い扉を開けると、インクと紙の匂いが鼻をつき、なぜか涙が溢れそうになった。カウンターから顔を出した青年は、私と同い年くらいに見えた。インクで汚れたエプロンに、少し長めの黒髪。ミナトと名乗った彼の優しい眼差しに、息を呑んだ。


ミナトは、祖父が「心は、触れられるものに宿る」と言っていたことを伝えてくれた。その瞬間、私は、ミナトから立ち上る心の色を見た。深い藍色だが、祖母の葬儀で見た母の色とは違った。それは悲しみではなく、深い海のような包容力の色。インクが紙に染み込むようにじんわりと広がり、長時間見ていても疲れない。むしろ、心の奥底から温かくなっていく。


震える声で、祖父の肖像画を完成させたいと打ち明けた。そして、初めて会ったミナトに、堰を切ったように自分の秘密を語った。心の色が見えること、その代償、親友を失った痛み、そして自分の心の色だけは見えない恐怖。話しながら、涙が止まらなかった。


ミナトは黙って聞いていてくれた。そして、そっと作業台の試し刷りを手に取った。


「この部分、インクが滲んでいるでしょう?…悲しみと愛情が混ざった時、インクはこんな風に滲む。僕には心の色は見えないけど、別の方法で感じることはできる」


ミナトは私の涙で濡れた目を真っ直ぐ見つめた。


「じゃあ、あなたがタブレットで描いた心の色を、僕が特別なインクにして、この余白に印刷しましょう。あなたの目と、僕の手で。きっと画伯も、それを望んでいたはずです」


共同作業は予想以上に過酷だった。祖父の人生の重みを追体験し、戦争の記憶や画家としての挫折の色を見ては、嗚咽を漏らした。だが、ミナトの藍色に包まれると、その痛みは少しずつ癒されていった。


一週間後、ミナトは試し刷りを時系列に並べた。そこには、ピンクと水色が自然に溶け合った、朝焼けの空のような淡い紫色の滲みがあった。


「これが、今のあなたの心の色じゃないかな」


私は声を上げて泣いた。初めて、自分の心の色を「見た」気がした。それは、確かな、美しい色だった。


完成した祖父の肖像画は、デジタルとアナログが完璧に融合していた。顔の部分には、私が魂を込めて描いた心の色を、ミナトが心を込めて印刷した祖父の表情があった。それは、祖父の八十年の人生が凝縮された、愛に満ちた存在だった。


ミナトの問いかけに、私はスマホを見つめた。最新の投稿には一万の「いいね」がついているが、初めてその数字が意味のないものに思えた。


「これは、投稿するものじゃない。私たちと祖父だけの、かけがえのない作品」


代わりに、私は新しい作品を描き始めた。私とミナトが作業する風景。ピンクと水色と藍色が混ざり合い、新しい色が生まれていく奇跡の瞬間。その時、スマホが震え、ユカリからのメッセージが届いた。


『ハル、久しぶり。ユカリです。あなたの展示会の記事を見ました。…あなたは私を傷つけないように、自分が傷つく方を選んだんだね』


手が震え、涙がスマホの画面を濡らした。ミナトに背中を押され、私は返信を打った。


『ユカリ、連絡ありがとう。私も謝りたかった。見えすぎることで、あなたを傷つけてしまったから。でも今は、誰かと分かち合うことを学んだの。もし良かったら、また会えないかな。あなたと、もう一度』


送信すると、すぐに既読がついた。『うん、会いたい。あなたの本当の色が、やっと見られる気がする』


「ねえ、ミナト」と、声が震えた。


「私、やっと分かった。心の色を見る力は、繋がるためにあったんだね。一人で見続けるから辛かった。でも、誰かと分かち合えば、それは重荷じゃなくて、贈り物になる」


ミナトの藍色が、夕陽のような橙色を帯びた。それは、祖父の色によく似ていた。


「祖父が残した余白は、ただの未完成じゃなかった。私たちが出会うための、かけがえのない場所だったんだ」


印刷所の活版印刷機が、ゆっくりと動き始める。カシャン、カシャンという機械音。それは、私たちにとって、新しい命のリズムだった。


もう、強い感情を恐れない。ミナトがいれば、どんな色も受け止められる。そして、自分の心の色が見えなくても構わない。ミナトの目と手が、それを優しく映し出してくれるから。


創ることは、一人で完結するものじゃない。誰かと共に、お互いの見えない部分を補い合いながら、新しい色を生み出していく。それが、祖父が描きかけの絵に込めた、最後の、そして最高の贈り物だった。


窓から差し込む朝の光が、完成した肖像画を黄金色に照らす。祖父は優しく微笑んでいるように見えた。まるで、「よくぞ、見つけてくれた。愛しい孫よ」と言っているかのように。


私とミナトは、これからも印刷所で新しい作品を作り続けるだろう。デジタルとアナログの境界を越えて、心の色を、触れられる愛に変えながら。そして、ユカリとの再会も、新しい色を——希望の色を生み出すきっかけになるはずだ。

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