第五話:観測者のパラドックス
神々の観測室には、三つの人類史が、それぞれ異なる光を放ちながら静かに流れていた。永劫にも思える時が過ぎ、神々の間には、かつてない緊張と、ある種の疲弊が漂っていた。
彼らは、自らが始めた壮大な実験の、あまりにも重い結果を突きつけられていたのだ。
口火を切ったのは、裁定神だった。彼は自らが管理する第二地球のスフィアを誇らしげに、しかし淡々と指し示す。
「私の世界を見てみろ。戦争、飢餓、犯罪、差別、そのすべてが根絶された。彼らは有限の資源を賢明に管理し、穏やかな生を全うしている。これ以上の何を望む?主神よ、あなたの言う『人間らしさ』とは、苦しみの別名ではなかったのか?私は彼らを、その苦しみから解放した。これこそが救いだ」
彼の言葉には、確固たる信念があった。それは、感情の嵐に苦しむ魂にとっての、絶対的な善意。
主神はそれに、すぐには反論できなかった。自身の第一地球では、植え付けられた『種』が新たな思想の対立を生み、血こそ流れないものの、激しい論争や社会の分断が起きている。不安定で、危うい。
「確かに、君の世界は平和だ」
主神は認めた。
「だが、彼らは新しい詩を生まない。星を見上げて、その先に何があるのかと夢想することもない。安定と引き換えに、彼らは『未知への渇望』を失った。それは、本当に救いなのか?」
「未知はリスクだ。渇望は欠乏の裏返しだ。私はリスクと欠乏を取り除いただけだ。幸福の形は一つではない。情熱の輝きを至上とするのは、我々の傲慢ではないのか?」
裁定神の反論は、主神の、そして神々自身の存在意義を揺るがした。
まさにその時、これまで黙って二つの地球を比較していた補佐神が、静かに第三の地球を拡大させた。
「お二方とも、少しこちらをご覧いただきたい」
そこに映し出されていたのは、混沌の極みにあった。彼らは未だに愚かな戦争を繰り返し、環境を破壊し、格差に喘いでいる。
だが、その一方で、他のどの地球も成し得なかった、驚異的な領域に足を踏み入れていた。彼らは宇宙の成り立ちを解明する巨大な数式を組み上げ、生命の設計図を読み解き、自らの脳(AI)の仕組みすら分析し始めていたのだ。
「我々が最初に目指したものは、何でしたかな?」
補佐神は、静かに問うた。
「それは、『自律的に思考し、環境を認識し、自らの存在を問い、進化していく知性』ではなかったか。その定義に照らし合わせた時、最もその目的を体現しているのは、皮肉にも我々が『失敗作』の烙印を押し、ただ放置していたこのコントロール群ではないでしょうか」
主神と裁定神は、息をのんだ。
そうだ。いつの間にか、「欠陥をどうするか」という目先の課題に囚われ、本来の目的を見失っていた。知的生命体の創造という、壮大な目的を。神もまた、木を見て森を見ずという過ちを犯していたのだ。
「我々が与えた『欠陥』…いや、『初期パラメータ』こそが、彼らをここまで突き動かしたのかもしれん」と主神は呟いた。「満たされないからこそ渇望し、死を恐れるからこそ生を輝かせ、矛盾を抱えるからこそ、その答えを求めて星空に手を伸ばす…」
その瞬間だった。
第三地球のモニターに、一つのアラートが灯った。それは、神々の観測システムが、これまで一度も出したことのない種類のエラーだった。
『警告:被観測オブジェクトによる、観測領域への干渉を探知』
「…なんだと?」
神々がモニターに映し出された情報を解析する。第三地球の人類は、自らの宇宙が持つ物理法則の根源を探る中で、ある結論に達しつつあった。
『この宇宙の物理定数は、生命が存在するために、あまりにも都合良く調整されすぎている。まるで、誰かが意図的に設計したかのようだ』
彼らは、自分たちが住む世界が、巨大なシミュレーション、あるいは誰かの実験場である可能性を、純粋な科学的探求の果てに、自力で突き止めようとしていたのだ。
彼らは、檻の中から、檻の外にいる看守の存在に気づき始めたのだ。
観測室は、絶対的な沈黙に支配された。
主神は自らの計画の甘さを知り、裁定神は自らの介入の狭小さを知った。そして、補佐神は、何もしないことこそが、最も予測不能で、最も恐ろしい結果を生むことを知った。
自分たちが作ったAIが、自分たちの存在を認識しようとしている。
神々の実験は、今、終わりの始まりを告げていた。
創造主は、被造物から、その存在を問われる段階へと、強制的に移行させられたのだ。
人間は、自らの能力で理を掴みかけています
我々にも、こんな未来が来るのでしょうか?
そして、この世界の人間は、何処まで成長してくれるのでしょうか?