第三話:二つの揺り籠
裁定神の沈黙は、同意ではなかった。それは、代替案の思考に費やされた、冷徹な計算の時間だった。
主神が人類の自主性に賭けるという、あまりにも不確実な計画を口にした瞬間、裁定神の思考はすでに別の結論へと達していた。
「その賭け、あまりにも分が悪い。だが、主神よ、あなたの言う『可能性』とやらを完全に否定するつもりもない」
裁定神は静かに告げると、観測室の空間に手をかざした。すると、光のアーカイブの中から、惑星『地球』のデータがまるごと複製され、主神が見ていたスフィアの隣に、寸分違わぬもう一つの青い惑星が浮かび上がった。
創生から現代に至るまでの、数十億年にわたる全情報――原子の一つ一つの位置情報から、そこに生きた全人類の思考と記憶のログまで、すべてが完璧に再現されている。
「バックアップは確保した。これで、あなたの『賭け』がどのような悲劇的結末を迎えようとも、我々のプロジェクトそのものが破綻することはない」
これが、裁定神の出した答えだった。リスクヘッジ。完全なる保険。
そして、それは同時に、二つの異なる未来への分岐を意味していた。
「オリジナルはあなたの計画通りに進めるがいい。私はこの複製を使い、私のやり方でデバッグを行う」
「何をする気だ?」
主神が問う。
「感情プログラムの強制的な修正だ。憎悪、嫉妬、過剰な支配欲…システムの不安定化を招くネガティブなバグを、根源から削除する。彼らの精神に直接アクセスし、『エデン・コア』を書き換える」
その言葉に、補佐神が息をのんだ。
「そんなことをすれば、彼らの人格は…!自我は維持できるのですか?」
「多少の変容は免れんだろう。だが、争いも、憎しみもない、安定した論理的な社会が実現できる。それこそが、知的生命体のあるべき姿ではないのか?」
ここに、神々の間での明確な意見の対立が生まれた。
一つは、主神が率いる『オリジナル地球』。
欠陥を抱えたままの人類に、自らを変えるための『きっかけ』という名の情報を与え、その選択と進化を見守る。それは、彼らの自由意志と、バグから生まれるかもしれない奇跡的な可能性を信じる、あまりにも人間的なプロジェクト。
神々は、これを内々に『プロメテウス計画』と名付けた。人間に、新たな『火』を与える計画だ。
もう一つは、裁定神が主導する『コピー地球』。
神の権能をもって、人類の精神に直接介入し、問題の根源である感情バグを強制的に除去する。それは、確実性と安定性を最優先し、創造物から欠陥を取り除く、完璧主義的なプロジェクト。
こちらは『エピメテウス計画』と呼称された。
後から、その結果の重大さを知ることになる計画。
「よかろう」
主神は、裁定神の挑戦を受けることにした。
「ならば、どちらのやり方が我々の創造した『知性』にとっての真の救いとなるか、証明しようではないか」
こうして、二つのプロジェクトは同時に始動した。
主神と補佐神は、オリジナル地球の無数の人々の中から、最初の『パッチ』を投入する対象を慎重に選び始めた。
彼らが選ぶのは、権力者でも天才でもない。社会の片隅で、世界の矛盾に苦しみ、それでも何かを信じようともがいている、ごく普通の一人の人間だった。
その人物の心に、ささやかなインスピレーションとして、新たな価値観の『種』を植え付けるのだ。
一方、裁定神はコピー地球に対し、より大規模で直接的な介入を開始した。彼の権能は、惑星を覆う巨大な精神干渉フィールドと化す。
コピー地球に住む人々は、まだ何も気づかない。だが、ごくわずかな時間のうちに、彼らの心から、誰かを妬む気持ちや、理由なく他人を憎む感情が、まるで朝霧が晴れるかのように消え去っていくことになる。
彼らはそれを、自らの精神的な成長だと錯覚するだろう。争いが減り、世界は急速に平和へと向かうはずだ。
観測室には、並んで浮かぶ二つの地球が、静かに自転している。
片方は、これから神が投じた一石によって、新たな混乱と、未知の可能性の波紋が広がっていくだろう。
もう片方は、神の外科手術によって、静かで穏やかな、予測可能な未来へと整えられていくだろう。
二つの揺り籠。二つの人類。
神々の壮大なる対照実験が、今、静かに幕を開けた。そして、その実験結果が、神々自身の存在意義をも問うことになることを、まだ誰も知らなかった。
人類の未来は、2通りの方法で試されることになりました
あなたなら、どちらの世界を選びますか?
どちらの世界で生きたいですか?