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第四話 掠れた春

 再び目を覚まし、時計の針に目をやると、時刻は既に昼を迎えようとしていた。


 何か嫌な夢を見たような気分だが、指先に昨日の感触、エリが俺の身体を使って奏でた音の響きがそれを忘れさせる。


 圧倒的な技巧と表現力、それは、俺には決して出せなかった模範解答とも呼ぶべきピアノ。


 折り合いをつけたと思い込ませていた俺の心の奥を、あの音がざわつかせる。


 あんな風に弾けたら、どんな気持ちになるのか――


 そんなことを考えた自分に、思わず苛立ちを覚える。


「……はぁ」


 深く息を吐き、布団を跳ね除けた。


 リビングに降りて、顔を洗い、簡単に着替えて、適当に朝食の準備を始める。


 親父達はまだ寝ているのか、一階には俺一人だけ。


 そんな状況で気が付けば、視線は自然とリビングのピアノへと向かっていた。


 ――そして、その隣にはエリの姿があった。


「おはよう、渚!」


「うおっ! お前いきなり出てくんなって!」


「えー? だって、早く弾きたくてさ」


「いや、こんなところ親父達に見られたらーー」


「ふぁ……おはよ」


 当然と言わんばかりに言葉を返してくるエリに、俺が呆れたようにため息をついたそのとき、妹の紗月(さつき)が階段から顔を覗かせた。


「って、何一人で騒いでんの……?」


 髪は寝癖だらけで、開き切らない目を擦るそんな紗月の視線は、俺の横を素通りしている。


「……なあ、紗月」


「ん?」


「俺以外に、誰かいるように見えないか?」


「は? いる訳ないでしょ?」


 紗月は寝起きの不機嫌な拍子のままに首を傾げる。


 エリは笑いながら、自分の手を紗月の前で振るが、その様子に紗月が気づく様子はない。


「……嘘だろ」


 背筋に寒気が走る。


「大学生にもなった兄が中ニ病とか、ないわ……」


「いや、そういうやなくて……!」


 俺は適当に誤魔化し、紗月が呆れ顔で洗面台へと向かうのを見送ってから、エリを睨んだ。


「エリ……お前俺にしか見えてないんか?」


「うん、そうみたい」


「そうみたいって……先に言っといてくれな、俺がおかしな奴みたいになるやろ!」


「いやー、私もそんなこと知らなかったからさ」


 さらっと言うエリに、俺が頭を抱えていると、紗月に続いて親父もリビングへと降りてきていた。


「おはよう渚。なんや今日はえらい早いな」


「ああ、おはよう親父。って、俺が早いんやなくて、親父らが起きてくんの遅いだけや」


「え、もうそんな時間か?」


「せやけど、なんか予定でもあんの?」


「いや、別になんもないんやけどな」


「なんやそら……」


 適当な会話を続けていると、父さんが思いついたように続けてくる。


「せや渚。時間も昼過ぎで周りの迷惑にもならんし、目覚めのピアノでも聴かせてくれへんか?」


「あのな、何度も言ってるけど俺は人前ではもうーー」


 親父の何気ない一言を断ろうとしたのだが、横目には明らかに興奮しているエリが映る。


「ね、なら私が弾いてもいい?」


 エリが耳元でささやいてくる。


「はあ、ちょっとだけやで……」


 できれば断りたい所だが、親父の前でやるだやらないだの、押し問答をすることもできないので、呟きながら渋々ピアノの前に座った。


 そして――


「それじゃ、お邪魔しまーす!」


 まただ。


 エリが言うと同時に、俺の身体が勝手に動き出す。


 指が鍵盤の上に置かれた瞬間、空気が変わった。


「これは……」


 メンデルスゾーン『春の歌』


 最初の一音が鳴った瞬間、部屋の中の空気が揺らいだ。


 柔らかく、それでいてどこか儚い旋律が流れ出す。


 繊細なタッチで紡がれた音が、夏の暑さを忘れさせ、頬を掠める穏やかな春風を思い起こさせる。


 強弱のコントロールが異常なほどに洗練された、ひとつひとつの音が、流れるように繋がりながらも、正確無比な粒を持っている。


「……!」


 気がづけば、洗面所から戻ってきた紗月も、ピアノの隣で立ち尽くしていた。


 後ろに立つ父さんも、ただ黙って聞き入っている。


 中間部を抜け、終盤へと差し掛かるにつれ、旋律はさらに深みを増していく。


 音の余韻が、まるで日差しに溶けるように消えていく。


 最後の音が響き、空間の色を春に塗り替えてしまったその瞬間――


「…………」


 沈黙が訪れた。


 俺を含めた皆が息を呑み、動き出せないでいる。


「……お兄ちゃん、やっぱりピアノをやめるなんて勿体ないんじゃない?」


 やがて、紗月がゆっくりと口を開いた。


「せやな……」


 その言葉に父も同意して頷く。


「これだけの演奏ができるんやったら、もういっぺんやってみたらええんちゃうかと……そう思ってしまうな」


 その言葉に俺は一人、胸の疼きを感じていた。


 エリと比べれば俺のピアノがあまりに拙いことなど、俺自身が一番よく分かっている……


 俺の指がこの音を奏でることを求めている。それが事実だとしても、これは俺のピアノではない。


「ま、まあそれはまた考えとくとして……それより、俺ちょっと用事あるから出かけてくるわ」


「あ、おい!」


 とりあえずの言葉と共に俺は、止めようとする二人と満足そうに頷いていたエリを残して外へと駆け出していった。



---



 あのあと俺は、家に戻ることなく町中を歩き回り、そして夜になった今は近くの山道を歩いていた。


 実家の裏手には、昔からよく来た小さな山がある。


 夜風が心地よく、俺のバラついた頭の中を少しでも整理できるかと思ったのだが……


「もう一回、か……」


 呟くように言ったその瞬間――


「渚、こんな所にいたんだ」


 ふと振り向くと、エリがそこにいた。


「エリ……よー見つけたな」


「ま、私は感が良いからね」


「感か……」


 エリと目を合わせられずに、俺は自分の手を見て目でつぶやいた。


「なあ、教えてくれへんか……エリは、なんでそこまでピアノにこだわるんや?」


 流れを無視したその問いかけに、エリは一瞬だけ寂しそうな顔をする。


「……」


 だがすぐに微笑み、言葉を返してくる。


「それはね――」


 その言葉が終わる前に、彼女の肩が、ゆらりと揺らぐ。


 いや――

 

 揺らいだのではない。背景の星空が、透けたエリの身体越しに見えている。


「……っ!」


 まるで、絹の布がほどけるみたいに、エリの輪郭が薄くなっている。エリ自身も気づいたらしく、彼女は自分の手を見つめていた。


「……なんで?」


 まるで、消えかけているかのように……


 俺はその光景を呆然と眺めることしかできない。


「おい……エリ?」


「大丈夫、ちょっと疲れただけ……!」


 エリは取り繕うが、その笑顔はどこか儚かった。


 俺の中で、どこか嫌な予感が膨らんでいく。


「渚、明日も弾こうね」


 そんな俺を放り出して、エリは言葉だけ残してふわりと消えてしまう。


 その場に立ち尽くしたまま、静かな夜の風を感じていた俺の身体は、なぜか――締め付けられるように痛かった。

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