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第三話 夢

 遠くから響く拍手の音が、耳にこだまする。


 次は|僕の番〈・・・〉だ。


 暗闇の中に浮かび上がる光の粒。


 ステージの上。


 スポットライトを浴びているはずなのに、視界はぼんやりと滲んでいた。


 目の前には、こちらを今にも飲み込まんとするように大口を開けたグランドピアノ。その鍵盤が、無機質な光を放っている。


 そうだ。これは――


 あの日の舞台だ。


 不規則に跳ねる心臓を抑え、指を震わせながら鍵盤に手を置く。


 だが、指は動かない。


 いや――動かせない。


 手が鉛のように重く、びくとも動かない。


 指先が冷たい汗でじっとりと湿っていく。


 息を吸うことさえ苦しくて、肺が押し潰されそうになる。


 審査員席から、小さく咳払いをする音がした。


 客席がざわつく。


 早く弾け。


 早く。


 早く。


 早く。


 頭の中で繰り返される同じ言葉、それでも指は動かない。


 汗ばんだ手のひらが気持ち悪い。


 息が詰まりそうだ。


 焦燥感に全身を支配される。


「母さん……」


 搾り出した言葉と共に、震える耳元で優しい声がした。


『なんで弾かなかったの?』


 しかし同時に、それはどこか冷たい声。


 振り向けば、そこにはエリが立っていた。


 あの白いドレス姿のまま、静かにこちらを見つめている。


 ――これは夢だ。


 そう理解し切る前に、エリが一歩、近づいてきた。


「違う。俺は、弾かれへんかったんや……」


 喉が詰まるような感覚とともに、搾り出すように言葉を吐く。


 しかし、エリはゆっくりと首を横に振った。


『嘘』


 その一言が、鋭く胸を刺した。


 反射的に目を逸らそうとする。


 見てはいけない、聞いてはいけない――そう思っているのに、体を少しも動かすことができない。


 エリの瞳が、逃げ場のない真実を映し出していた。


『違うよ、渚。分かってて弾かなかったんでしょ?』


 心臓を掴まれたような感覚がする。


 何かが喉まで込み上げてくるが、それを吐き出すことはできない。


『弾けなくなった人は何人も見てきたけど、渚はそうじゃない……』


 エリは、静かに俺の手を取る。


『だって、渚は今でも弾けるじゃない』


 その瞬間、ふっと指先に鍵盤の感触が蘇った。


 ひやりとした象牙の質感。


 慣れ親しんだグランドピアノの鍵盤。


 |そうだ僕は〈・・・・・〉――


 弾けなかったんじゃない。


 弾かなかったんだ。


 才能、将来への不安、周囲の目、そして母さんの……


 すべてを理由にして、ピアノから逃げただけ。


 もう二度と、あんな思い(・・・・・)をしたくなかったから……


 それだけだったのに。


 気が付けば、頬を雫が伝っていた。


 エリは何も言わず、ただ手のひらを包み込んでくる。


 やがて、視界が揺らぎ、暗闇が静かに俺を包み込む。


 遠ざかる音


 最後に聞こえたのは――


『きっと弾けるよ』


 そんな、優しくもどこか悲しげな囁きだった。



---



 目を開けると、俺は自分のベッドの上にいた。


 窓の外では、朝日がじわじわと世界を照らし始めている。


 静かに天井を見つめた俺の心臓は、まだ、妙な鼓動を刻んでいて、夢の中で蘇った鍵盤の感触を、指先がまだ覚えている。


 その感覚が消える前に俺は、静かに深呼吸をして


 もう一度、眠りに落ちた――

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