第二話 本物の音
俺は小さく息を吐き、再びピアノに向き直る。
指先から感じる音の響き、沈む鍵盤の感触――やはり、すべてが昔のまま変わっていない。
耽る俺を無視して、指は自然と回り始めた。
音が部屋を満たし、心が少しずつ解きほぐされるような感覚すら覚える。
そして、ふと横を見ると、エリが目を閉じて微笑んでいた。まるで、この音を噛み締めるように。
「……」
妙な気持ちにさせられる。俺のピアノをこんな風に聴いてくれる人がいるなんて、久しぶりだった。
その無言の賞賛に、俺の意識はエリへと向かってしまう。
「いいね……」
満足そうに頷いたエリの声が耳に届くと同時に、最後の響きが消えたことに気付かされる。
「いいよな、別れの曲」
「ううん、違うよ。私が言ったのは、渚のピアノのこと。やっぱり寂しそうな音だけど、それでもすごく優しくって、生きてるって感じ……」
俺は思わず鼻を鳴らす。
「幽霊の子供に褒められても、素直に喜ばれへんけどな」
「えー、そこは喜んでよ。それに、私こう見えても18歳なんだから!」
エリはぷくっと頬を膨らませて言ってくるが、18歳だって?
「え、まじ……?」
「まじまじ、大マジ」
「えぇ……」
いや、幽霊に年齢の概念が適用されるかどうかの話の前に、どう見ても14,5歳にしか見えないのだが……
「っていうか、聞いてばっかりじゃなくて、エリは弾かないのか?」
「できるならそうしたいんだけど……」
頭の中を整理しながら声をかけた俺に対して、エリは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「私、もうピアノに触れないんだよね」
「……あ、そうなんか」
言葉に詰まる。
そりゃそうだ。壁を通り抜ける幽霊がピアノを弾くなんて、普通に考えたらありえない。
エリは俺の隣に立ち、鍵盤の上にそっと手をかざす。
だが、指が触れていても鍵盤は沈まない。
そこに存在していないかのように。
「こうやって私としての形はあるのに、音は出せないの。なんだか変でしょ?」
「……不便そうやな」
「うん、すっごく」
笑顔を歪ませて呟くエリに、俺は自分の手のひらを握りしめて言葉を返す。
「……なら、俺が弾いたるやんか」
「え?」
「弾かれへんなら、代わりにエリが弾きたい曲を俺が弾く。それやったら多少は我慢できるやろ」
「……!」
俺の言葉にその目がぱっと輝いた。
「それで、どうや……?」
「凄く嬉しい……! だけど、その前にちょっとだけ試してみてもいい?」
「試すって、何を?」
俺が聞き返した瞬間――
「……え?」
身体が勝手に動き始めた。
まるで誰かに操られているかのように、身体が言うことを聞かない。
「ちょっとだけ……借りるね?」
その言葉が耳に届いた瞬間、背筋に氷を当てられたような冷たさが走った。
「お、おい……なんやこれ……!」
指先から感覚が消え、まるで別人の手のように意志を失った自分の指が勝手に動き出した。
心臓が暴れ出す。制御を奪われる恐怖。だが、俺のその恐怖心をかき消すように、流麗な音楽が部屋を包み込んだ。
完全に制御を奪われた指が、まるで別の意志を持っているかのように鍵盤の上を駆け巡る。
リスト『愛の夢 第3番』
俺だって何度も弾いたことがある、別れの曲にも負けず劣らずの有名曲。
だが、俺にこんな音は出せなかった。
信じられないほど繊細で、そして際立った音の粒……
「……っ」
鳥肌が立つ。
俺の指が、俺の手が、俺の身体が――まるで別の何かに生まれ変わったような錯覚に陥る。
響き渡る。
部屋いっぱいに、そしてさらに遠くまでも広がり続ける圧倒的な演奏。
「すごい……」
自然と、声が漏れる。
エリの演奏技術に返せる賞賛はその言葉一つのみだった。
俺にも長い間ピアノをやってきたという自負がある。だが、これは完全に次元が違った。
鍵盤の隅々まで意識が行き届いている。まるでピアノが自ら音を紡いでいるかのように感じられる。
けれど、それと同時に何かが違うと、そう感じている自分もどこかにいた。
俺のピアノは、ブランクがあるとはいえ『生きた音』だとエリは言った。
けれど、エリの音は完璧すぎる。それは俺とは真逆で、どこか冷たさすら感じさせる音……
思わず、口をついて出そうになったそんな言葉を抑えて、目の前の音に再度集中し直す。
高まる感情を押し上げるかのような終盤、俺の指は音の奔流を掴むがごとく加速し、そして、最後の音が響いた。
「……っは」
余韻が消えるとともに、俺の身体の制御が戻り、静寂が訪れる。
思わず息を吐いた自分の肩が、わずかに震えているのがわかる。
「……これが、エリの演奏か」
エリは嬉しそうに笑う。
「どうだった?」
「どうって、そんなことより、なんでこんな事ができるって思ったんや……?」
ピアノが弾けないなんて、あんな風に落ち込んで言っていた割に、こんなあっさりと解決策を見つけてしまうのにはどうしても違和感を感じる。
「ま、まあ、感ってやつかなぁ……」
「感ってそんな……」
明らかに何かを隠しているような様子に質問を続けようとするが……
「そんなことより! どうだったの、私のピアノは?」
言葉を遮るようにはぐらかされる。この様子では聞いても答えが返ってくることはなさそうなので、仕方なく俺がエリの言葉に答えることにした。
「まあ悔しいけど、正直に言って俺なんか足元にも及ばんぐらい凄いわ……」
「ありがとう。けど、私は渚のピアノが好きだよ」
「……」
エリの言葉に、俺は少し口を噤んでしまう。
「今日はありがと。また二人で弾こうね」
そんな俺を横目に、エリは笑いながらに手を振って、窓の方へと歩いていくが、軽い目線だけ送って、答えに詰まったままの俺は、ゆっくりとピアノを閉じた。
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その夜、布団に入ってもなかなか寝付けないでいる俺は、夜に慣れてきた目で自分の指を見つめていた。
エリがいなくなったあと、久方ぶりに話した家族との会話を忘れさせるほどに、頭の中で音が鳴り止まないのは、エリの奏でたあのピアノ。
俺とは比べものにならない、圧倒的な技巧。
なぜ、そんな才能を持ったやつが幽霊になっているのか、なぜ、弾き続けようとするのか、なぜ、俺はあれほどの演奏を知らないのか……
幽霊になってまで、音楽にしがみつくエリの内面には、おそらく外からでは理解のできない執念が込められているのだろう。
俺は知らず知らずのうちに、エリのことが気になっていた。
そして――
「明日も、弾くことになりそうだな……」
そんな呟きを最後に、俺はゆっくりと瞼を落とす。




