第一話 出会いの曲は、別れの曲
盆の帰省。
久しぶりに帰ってきたこの家は、驚くほど何も変わっていない。玄関の靴箱も、微かに木の香りがする廊下も、その奥に見える一台のピアノも……まるで時間が止まっているようだ。
ほんの数年前まで、ここには慌しい母さんの足音、そして俺の音があった。
だが今は、蝉の声だけがやたらとうるさい。
「……ただいま」
感傷に浸りながらも廊下に声を飛ばす。
「って、誰かおらんのか?」
が、返ってくるのは煩わしい静寂だけ。
「今日帰るって言うてたのに、2階の電気も付いとらんし、ほんまに誰もおらんのか……」
呟きながら靴を脱ぎ捨てて廊下を進むと、音楽とは縁遠い田舎の家には場違いな大きな影。
そしてその隣には、母の仏壇……
目を逸らそうとしても、視界に入り込んでくる二つの存在に、胸を騒めきが襲う。
「はぁ……」
振り払うようにリュックをソファの上に投げると、揺れる鼓動が少し和らいだようにも感じられる。
少し心を落ち着けた俺は、線香をあげて瞼を落とした。
静かすぎる部屋の中。
父さんも妹も、今は出かけているのだろうか。
「……」
線香の香りが薄らいできた頃、ふと目を開くと、自然と視線はピアノへと向かっていた。
「この家にあっても誰も弾かんし、かわいそうやからな……」
拙い言い訳に意味がないことを理解しながら、俺はピアノの前に腰掛ける。当分触れていなかったが、間違いなく指が覚えている。
ゆっくりと鍵盤に指を置き、軽く押してみれば、微かに調律の狂った音が響いた。
深く息を吸い込み、昔母のためによく弾いていた曲を思い出しながら、鍵盤をなぞり始めた。
「懐かしいな……」
ショパン・エチュードOp.10-3
所謂『別れの曲』
懐かしい旋律が部屋を包み込む。
本当に久しぶりだった。
動く指に若干の鈍さは感じるが、それでも音は形になっている。
「……」
しかし、なぜだろうか。
指を運ぶこととは別のどこかに集中が持っていかれてしまう。この空気感、まるで誰かに見られているような……
家には1人で、誰かが戸を開いた音もしていないのだから、そんな訳はないと思いつつも、リビングのカーテンの隙間に目をやると……
「……誰や!」
二つの視線が交わされた。
演奏の指を止めてかけた声に返事はない。
「気のせい、な訳ないでな……」
確かに、誰かと視線が合ったはずだ。だが窓の外にある庭は高い塀で仕切られていて、外から誰かが入れるようにはなっていない……
ゆっくりとピアノの前から立ち上がり、慎重にカーテンに近づく。
心臓が妙にうるさい。
緊張しながら、俺はそっとカーテンを引くと――
「あ、バレちゃった……!」
そこには白いドレスを着た少女が立っていた。
髪は肩に届くか届かないかの長さで、どこか儚げな顔立ち。そして、窓越しでも伝わってくる異様なほど透き通った肌と、今にも消えそうな輪郭……
その姿に俺は息を呑む。
「……え?」
呆然と立ち尽くして声を漏らす俺に、目の前の少女は小首をかしげた。
「あれ、もしもーし?」
「あ、えっと……君は、なんでこんな所におるんかな?」
「わっ、喋った」
「そら喋れはするけど……それより、なんで?」
驚きを隠せずに詰まりながら言葉を発する俺とは対照的に、少女はあっけらかんと答えてくる。
「聞こえてきたから」
「それって……」
俺は目の前の少女と向き合ったまま、隣にあるピアノへと視線を向けた。
「そ、それが気になっちゃって」
なるほど、それで入り込んだ訳……か?
「いや待て、そんな理由より先に聞かなあかんことがある。君、どうやってウチの庭に入り込んだんや?」
「それは簡単」
そう言って少女は大したことではないかのように、俺たちの間にある窓をすり抜けてリビングへと入ってきた。
「マジ…………?」
「あはは! そんなに驚いちゃっておもしろい!」
目の前で起こったことに呆然としている俺を無視するかのように、少女は指差しで笑っている。
「面白いって……そりゃそうやろ! 普通は君みたいな……なんて言うたらええかわからんけど、とにかくこんなん驚くて!」
「私みたいって、幽霊のこと?」
「せや、君みたいな……」
思考がやっと追いついてくる。
「ちょっと待ってくれよ。てことは君は――」
「うん、私もう死んでるよ?」
「うわぁぁぁぁぁ!!」
反射的に後退りし、ソファの角につまずく。
「そんなに驚かなくてもいいじゃん。別に襲ったりしないんだからさ」
「アホ抜かすな! 幽霊ってお前そんな……驚かん方が無理あるやろ!」
「ふぅん、そうなのかな?」
幽霊の少女は、つまらなそうに肩をすくめた。
「当たり前や!」
とにかく落ち着け俺……
よし、落ち着いてるな?
……これは夢か何かか?
いや、アホみたいに力いっぱい頬をつねってもちゃんと痛い。……つまり、現実?
「それより、あなたなんて言うの?」
混乱する俺をよそに、少女はピアノを見つめながらこちらに声をかけてきた。
「え?」
「名前よ、名前! 私はエリ、あなたは?」
朗らかな声と共にこちらに向き直って無邪気に笑いかけてくる少女に、俺は顔を引き攣らせながら何とか言葉を返す。
「渚……俺は渚や」
「ああ、渚っていうんだ。いい名前だね」
「そう、か……」
「うん! それより、ピアノはもう終わり?」
俺のことを名前で気軽に呼んでくる少女はピアノを指差してにっこりと微笑む。
その姿に、俺はさっきまでの緊張が徐々にほぐれていくのを感じていた。
「さっきの、よかったよ」
「……え?」
「別れの曲でしょ? 渚のはちょっと悲壮感漂いすぎで、もはやお葬式の曲って感じだったけど、なんだか懐かしくてさ……」
懐かしいとは、何か含みのあるような言い方……
それに有名曲とは言っても、ただ少し聞いていただけでそんな風に表情を緩めるその姿はまるで……
「君も……エリも、ピアノを弾いてたんか?」
「……まあ、ね」
一瞬、エリの表情に陰りが浮かぶ。
「やっぱそっか……」
「え、やっぱりって?」
しかし、直ぐに明るく言葉を返してきた。
「さっき言っとったこともそうやけど……その服、発表会のときに女の子がよー着とった奴と似とるしな」
「へえ、結構ちゃんと見てるんだ」
「こんなんでも昔はピアニスト目指してたし、コンクールとかも出とったから……」
そうやって自重気味に答える俺に、エリは不思議そうに疑問を投げてくる。
「目指してたって、辞めちゃったの?」
「色々あってな……」
「そっか」
「まあ……」
問答を終えてしばらくの沈黙が続いた頃、エリは空気を変えるように声を上げた。
「けど、指が覚えてる。ちゃんと“弾ける人”の音だったよ」
「弾ける人、か……」
その言葉が俺にとってどんな意味を持つかは分からない。だがしかし、旋律を鮮明に覚えている俺の指は、無意識のうちに震えていた。
「ねえ、もうちょっと弾いてみて?」
エリは俺の横を通り過ぎてピアノの前に立つ。
「……え?」
「渚のピアノ、もっと聴きたいな」
「いや、なんで幽霊にアンコールされなあかんのや……」
俺が呆れながらそう言うと、エリは頬を膨らませた。
「いいじゃない、減るもんじゃないし」
「いや、そういう問題やなくて――」
「ね、ね、お願い! せっかくなんだし、弾いてよ!」
「いやでも……」
エリは、悪戯に笑いかけてくる。
「だってさ、楽しそうだったよ? さっきの渚」
「……」
そんなこと、考えてもいなかった。
俺は楽しそうに弾いていたのか?
「諦めたって言ってたけど、本当はまだーー」
「わかった、少しだけな……」
その言葉を遮るように俺はエリを見つめる。そして、ふっと小さく息をついた。
俺はもう一度、ピアノの前に向き直った。
鍵盤に手を置くと、エリは満足そうに微笑んで呟く。
「ありがと、もう一回聴かせてよ。別れの曲」
その瞬間、俺は妙な既視感に襲われた。
この感覚を、何度も経験したことがあるような気がする。
けれど、それが何なのかはまだ思い出せなかった。




