ある家庭教師の話-5
まるで、子供のような事を書くかもしれない。
私は。
自分の色のままで、自分の存在を受け入れてくれる場所を求めていた。
だけども、そんな場所は、この世にはなかった。
どうすれば良いのか分からなかった。
自分の存在が否定されている、と感じていた。
そこから、世界に対する憎悪が生まれ、怒りが生まれ、反発が生まれた。が、だが、同時に、自分は存在していてはいけないのだ、という劣等感も、そこから発生した。
生まれて来るべきではなかった。自分は、直ぐに死ぬべきだ。
そう思った。
しかし、経験を積むと、やがてその思いは疑問符に変わっていった。
自分という存在が、必ずしも否定だけをされるという訳ではない事が、経験上で理解をされて来るからだ。
だが、その根底に渦巻いているモノが消える訳ではなかった。
“ごめんなさい”
そうしてその所為で、その過程をもって、その言葉に非常に近いニュアンスが、自分の中で生まれた。
それは、誰にでもない、自分が形成した自分の世界の中の、全ての“外”に向けて発せられる情動だった。
これは、少年の話ではない。
私の話だ。
これは、私の話だ。
少年の物語を読み終え、私は自分自身の事を振り返っていたのだ。
一体、どの程度の人々に、こういった感覚が存在するのかを私は知らない。しかし、私は少年が物語で示したような感覚を、自分の中で、リアルに感じる事ができる。
………。
自分は存在してはいけないのではないか、という圧倒的な劣等感がある。世界が、それを少しは癒してくれた。だが、だからといって“ごめんなさい”という言葉を使わなくても良いと思えるまでには安心ができない。
そう、安心ができない。
私が居ても、あなたたちの迷惑にはならないのでしょうか? ごめんなさい。私は、必要とされているでしょうか? ごめんなさい。私など、本当はいない方が良いのではないでしょうか? ごめんなさい。
私は劣等な存在で、だから、この世界にはいらないのではないのですか?
それなのに、あなたたちが優しくて、それ故に、私を受け入れてくれているだけなのではないですか?
私は、あなたたちを傷つけているのではないですか?
ごめんなさい。
………。
この言葉が“ありがとう”という言葉に変わる事ができたなら、或いはその方が良いのかもしれない。
しかし、それは私の中にある憎悪が許さなかった。
そう。
この“ごめんなさい”という言葉の中には、罪の意識がある。それはもちろんただの妄想だ。自分が周囲に対して憎悪を持っているからこそ、罪の意識が発生して、相手を傷つけている訳でもないのに、“ごめんなさい”という謝りの言葉になる。
否、もちろん、この考えが確実に正しいとは言い切れない。それに、人の心理は、様々な捉え方ができ、色々な要因が複雑に絡みあって形成されている。だから、この考えが正しいのだとしても、それは一つの因子に過ぎないし、可能性に過ぎない、とも言える。つまり、憎悪がある事によって芽生える罪の意識、というのは、私が実感してきた私の心情に対する私なりの見解の一つに過ぎず、多面的な心理作用の正体の一つでしかないのだ。
だから、この言葉が生まれるのには、もっと色々な背景があるのかもしれない。
例えば、ある要因では、どうしようもない劣等感を単に払拭し切れないだけ、という一面があるかもしれない。
憎悪がなくても、自分を余りに卑下していれば、相手にその事で迷惑をかけていると感じ、相手が自分を受け入れてくれる状況に対して、罪の意識を覚えるだろうからだ。
だから、もしかしたら、先の私の見解とは一見矛盾するが、“憎悪”が罪の意識の原因にはならないのかもしれない場合だって(そういった一面が存在する事だって)、考えられるのだ。
もし、そうならば、憎悪があっても“ごめんなさい”という言葉を“ありがとう”という言葉に変える事ができるかもしれない。
何故、私がこんな事を考えるのかというと、私には“憎悪”という感情が、必ずしも否定をしなくてはいけないモノなのかどうか分からないからだ。
“憎悪”が必要な場合だってあるように思える。だから、“憎悪”を持ち続けたまま、それでも囚われている状態を超える事のできる可能性を考えてみたかったのだ。
………。
少年の心に、私の心と同じ様な事が起こっているのかどうかは分からない。
もちろん前の物語“ジキ”の中に、強烈な憎悪が感じられ、そして今回の物語“妖マリ”の中で、疎外感と共に強烈な罪の意識が感じられる事は確かだ。
だが、だからといって、決め付ける事はできないのだ。
人は自分の心理に照らし合わせて他人の心を観ようとする。そして、それは、もちろんある程度は正しい場合もあるのだろうが、完全に正しいという事は、まずあり得ない。
そして、先入観を働かしてしまったなら、見当違いの結論を出してしまう可能性だってもちろんあるのだ。
実は、これは、心理学の世界ででもよく言われている事で、精神分析という手法の問題点の一つとしても取り上げられている。
例えば、フロイトといえばエディプス・コンプレックス(象徴としての“偉大な父親”に対する憎悪と服従という、二つの心理によって生じる葛藤。この問題を解決し、人は成長していくのだと言われている)が有名だが、フロイト自身も色濃いエディプス・コンプレックスを抱えていたのだという。そして、相手を診断すると、フロイトは、直ぐに原因をエディプス・コンプレックスに結び付けたがったらしい。
また、フロイトの弟子のアドラーは、劣等感の克服が向上心に結び付く事を唱えたが、彼の子供はくる病を患っていて、それを乗り越えた経験があったのだという。
つまり、この二人ともが、自分の経験によって得られた心理過程を観察し、他者の心理を見ているのだ。
もちろん、この二人の考えが完全に間違っているという訳ではない。だが、この事実は、私達が他人の心理に相対する時に、踏まえておかねばならない重要な事柄であるように思う。人が他人の心理を観る時、自分の心理を観ているという事の重要な証拠の一つになるだろう。
精神分析の話に付け加えておくと、実は、精神分析という理論には、その他にも問題点や疑問にするべき点が多々ある。だから、安易にこれに傾倒して、盲信するべきではない。が、しかし、だからといって、完全に無視をすれば良いのかというと、それ程稚拙なモノでもないという事も確かなので、それも違うだろうと思える。
臨床心理によって得られた膨大なデータに基づく、見解や理論は重要だ。
だから、私は精神分析という方法は実用的に用いる事はできるが、それは非常に慎重に行わなければいけない、と考えている。ある程度、正しいと判断できる部分は積極的に活用し、疑問点が残る部分についてはそれを参考程度のモノとして留めておくのだ。そして導き出された結果も、飽くまで推論と見なし、確定はしない。
これが正しい姿勢であるのではないだろうか?
少なくとも、私自身はこういった態度で臨むつもりだ。
………。
さて、今回の少年の物語から感じられる事は、先にも述べたが、強烈な疎外感と罪の意識と、そして、恐らく、それらが現われる背景にもなっているのだろう劣等感である。
これらは先の物語“ジキ”の中ででも感じられる事ではあった。しかし、今回の物語“妖マリ”の中では、それらはより鮮明に感じられる。
そして、注目すべき点は、登場してくる存在に親がいる事だ。否、むしろ、親が中心になって物語は語られている。更に、その親は母親ではなく、父親である。
物語の中で語られる父親は、けして悪い存在としては描かれてはいない。むしろ良い父親として描かれている。だが、最後に父親は妖マリの事を殺そうとする。その行為は悪意によるものではないが、妖マリにとってその行為は、父親が自分を見放したのと同義であった。
また、直接には妖マリの父親としては描かれてはいないが、先祖の忌み人、この存在も父親的な存在ではある。そして、この忌み人の場合は、確実に悪く描かれている。
忌み人は、家族を顧みず、研究に没頭する非道な人間…、半ば狂人として描かれているのだ。そして、忌み人の家族の描写はほとんどないが、家族は苦労を強いられていたという事になっている。
もしかしたら、この部分には、少年の父親的な存在に対する嫌悪が現われているのかもしれない。
何故なら、忌み人に家族がいたという設定は、ストーリー上、必ずしも必要ではないからだ。忌み人の研究成果を、なんらかの形で受け継いだ人間を登場させさえすれば問題はなかったはずである。にも拘らず、少年が敢えてそれを描いたのは、恐らく、疎まれている感覚を吐き出したかったからなのだろうし、そして、その事によって自分の父親を間接的に攻撃したかったからなのかもしれない。
(……ジキの物語からも、確実性はないが、父親的存在に対する憎悪は感じ取れていた)
また、忌み人が父親的存在の象徴なのだとすると、穿った見方をするのなら、妖マリの父親は、その性質からいって、象徴としては父親的存在ではないという可能性も考えられる。もしかしたら、母親的存在なのかもしれない。
妖マリの母親に対する描写は全くなく、そして、妖マリの事を本当に心配して面倒をみる、優しい存在としても妖マリの父親は描かれているからだ。これはむしろ母親の意味合いに近い。
更に、それだけではなく、物語の中で、妖マリの父親は、妖マリの事を誤まって作り出してしまい、そして、妖マリの為を思いながらも逆に妖マリを苦しめてしまっている。そして、最後には、妖マリの事を見放しもする。
現実世界で、少年の母親は、少年の事を心配しながらも少年の心中を理解せず、もしかしたら、少年が登校拒否をしている今の状態を作り出してしまった張本人なのかもしれないのだ。そして、少年の母親は家庭教師に頼ろうとした。この行為は、少年にとっては、自分の事を見放したという意味で捉えられる一面がある。
そして“ごめんなさい”という謝罪の言葉。
少年の登校拒否を嫌がっている少年の母親。
“ごめんなさい”という言葉の一つの意味が、母親に対する謝罪なのだとすれば、これらは重ねて考える事ができる。
もちろん、ただの偶然なのかもしれないが。
少年にとっての父親的存在の象徴が、妖マリの父親ではなく、忌み人なのだとすれば、少年にとって現実の父親は、距離の離れた存在であるのかもしれない。
忌み人は、先祖として描かれているからだ。
つまり、離れた存在として、描かれているのだ。
少年と少年の父親が、お互いに関わり合いを持とうとはしない、という母親の言葉ともそれは一致する。
そして、これを基に考えるなら、物語の中で、母親的存在の象徴かもしれない妖マリの父親が、父親的存在の象徴かもしれない忌み人の影響を受けて、妖マリを作り出してしまう、という事柄には、少年の現実世界で、父親の影響を受けた母親が、少年に干渉をしている、という意味があるのかもしれない。
少々、強引な考え方だが。
こられの見解が正しいのだとすれば、どうして少年は、母親的存在を歪曲し、父親として表現したのかが疑問になってくる。
これは、それこそストーリー上の都合で、父親とする方が物語の雰囲気に合っているからなのかもしれないが、もしかしたら、妖マリの父親は、完全に母親的存在という訳ではなく、父親的存在と母親的存在を同時に現しているという事なのかもしれない。
また、物語の中では“ごめんなさい”という言葉が頻繁に登場するが、先の解釈が正しいのなら、母親的存在に対しての言葉としてそれは取れる。しかし、少年の心には、強烈な憎悪がある。その憎悪によって、その言葉が素直に母親に向けたモノとしては表されず、父親に対して現われたのだ、という事も考えられる(父親の存在が少年にとって離れた存在ならば、言葉を使うのにリアリティがなくなり、父親と表記するのに抵抗感はなくなるだろう)。
ただ、これらは単純に考えた上での結論だが。実は、話は、もっと複雑であるのかもしれない。
何故なら、現実の母親や父親が、そのまま母親的存在や父親的存在であるとは限らないからだ。心の中で象徴化された物が、幾つもの意味を持つ事があるように、現実の対象だって、幾つもの印象を持つ場合があるのだ。
例えば、父親にだって、女性的な印象を感じる事もある。
否、極論をいえば、一つの対象に一つの印象、というのはあり得ないのかもしれない。
つまり、だから物語の中で語られる親的な存在達は、もっと未分化なモノであると捉えるべきなのかもしれないのだ。そこには、現実の人間関係での、父親や母親、教師や、もしかしたら私や、年上の人間や、その全ての対象の親的な印象の部分、が同時に存在していて、そしてそれらが、男性原理的な部分と女性原理的な部分に分かれ、物語の中に登場しているかもしれないのだ。
ただ、ある一面や場面、要素を抜き取って考えるのなら、はっきりと結論を示せる場合もあるだろうが。
……人の心理ははっきりとは観察をする事ができない。つまり、正確なデータが取り難い。その上、心理には様々な要因が複雑に絡まりあっている。だから、正確に物事を把握しようとするのなら、こういったような曖昧な結論の出し方しかできないのだ。これは、心を自然科学的に扱おうとする場合の課題の一つでもある(余談だが、この点に対する疑問から登場したのが、アメリカで盛んな行動心理学だ。はっきりと観察できる事を元に、つまり“行動”を元にして理論を作りだそう、という発想である)。
ただ、はっきりと観察できなくても、分かる事はある。ある程度なら、少年の状態を推察する事は可能だ。
少年には、親的存在に対する憎悪が、取り分け父親的存在に対しての強い憎悪があり、そして同時に少年は劣等感と罪の意識を強く持っている。そして、理解をされない、という事で疎外感を感じている。
こういった事は、ほぼ確実だろう。
さて、
治療に精神分析を用いるような、プロの精神分析家ならば、まだ更に妖マリという存在が女性として描かれている点や、妖マリが指によって相手を刺し殺すなどといった点などに着目をし、そこから倒錯した性的願望などを読み取ろうとするのかもしれないが、素人の私にとってそれは難しい作業であるし、私は精神分析という手法を治療に用いるつもりはなく、飽くまで少年の状態を知りたかっただけなので、それは止めておこうと思う。
……もっとも、今は精神分析という方法を治療に用いるケースは、本当に僅かになっているらしいが(ただし、それは精神分析という考え方が間違っている事を示すデータにはならない。飽くまで“治療効果”が少ないだけなのだ。その原因の一つに、精神分析によって起こるとされているカタルシスが、実は短期的な効果しかないからではないか、という点を挙げている学者がいる。つまり、根本的な心の問題を解決するまでには至らないケースがほとんどだというのだ)。
………。
後、私が気になるのは、この物語が私との対話の後に書かれたものなのかどうか、という点である。
或いは、私とのあの対話があったからこそ、少年の中に“ごめんなさい”という感情が急速に膨れ上がったのかもしれない。
だとするのなら、私は少年に対して不安を与えてしまった事になる。ただ、それが悪い結果を齎すか、良い結果を齎すかはまだ分からないが。
(私は、少年に対して、自分の思うような影響を与える事ができるのだろうか?)




