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ある家庭教師の話-8

 ……少年の母親の説明によると、少年の父親は、随分と仕事熱心な人間であるらしかった。それで、子育てには無関心、という典型的なタイプの父親であるようだ。だが、その代わり、暴力を振るうような事も滅多になく、少なくとも悪い父親ではないだろう、と少年の母親は語っていた。

 ただ、一時期だけは、荒れた事があったらしい。

 仕事がうまくいかず、クビになり、しばらく家に居た時期があったというのだ。

 その時期は、家族に八つ当たりをする事も珍しくなく、少年が殴られる事も度々だったと、少年の母親は(何故か)申し訳なさそうに語った。

 これらの話から、男性原理的な特性を顕著に示す父親である事が分かる。

 少年が、その時期をどれだけの不安に曝されて過ごしたのかは想像に難しくない。幼い子供にとって親は絶対権力者だ。その権力者が暴君ならば、閉塞感と絶望感を印象深く世界に対して感じ続けても不思議はないだろう。

 逃れられない苦しみの世界。

 そこからの脱出。

 憎悪。

 怒り。

 (ジキの物語のイメージ)

 ………、

 ただ、その時期以降は、父親が暴君に変貌する事は母親の記憶する限り、一度もなかったという。

 そしてその後は、少年も少年の父親も、お互いに関係を持とうとはしなくなった、と少年の母親は語った。

 少年からしてみれば、恐怖の対象である父親に、積極的に関わりたくないのは当たり前の事だろう。

 少年の母親の、父親に関する話は、大体そんなものだった。

 

 父親に関する話が終ると、少年の母親は、「こんなものでよろしかったでしょうか?」と私に尋ね、そして、私が、「充分です。ありがとうございました」と答えると、安心したような表情をみせた。

 そして、それからこんな事を言った。

 「息子の事は、先生に任せっきりで、本当に申し訳なく思っているのです。親の私が言うのは変なのですが、少しでもお役に立てて良かったですわ」

 どうやら、父親の事を私に話してくれたのは、責任感によるものだったらしい(もちろん、自分の息子の事を心配している、といった要素もあるのだろうが)。

 

 私は、少年の母親と別れ、家に帰るまでの間、ずっと考え事をした。以前にも記述したが、考え事に耽るのは私の癖で、歩く時にその傾向は更に強まるのだ。

 私は歩き、ゆっくりと流れる景色を見つめながら、今聞いたばかりの少年の父親の話に関する事を考えていた。

 少年の父親に関する話は、私の少年の物語に対する見解と一致した。

 少年は、自分の父親からその存在を否定され、苦しみ、煩悶し、そして憎悪と自己否定をこの世界に対して持ったのだ。

 と、だから、一見はそう思える。

 私の見解通り。

 しかし、それは違う。

 これで、私の見解が正しかったと証明された事にしてしまってはならないのだ。

 もちろん、何かしらの関係がある事は明白だろう。私の考えた事が、意味のある事である事は確かだ。

 しかし、それでも少年の心の中が覗けた訳ではない。帰納的思考によっての結論には限界があるのだ。

 だから、結論は決定付けられない。

 ………。

 自然科学の思考方法。演繹的思考と、帰納的思考の二つ。

 この内、演繹的思考を担っているのは、自然科学ではほとんど全て数学である(生物だとかになると、どうだか分からないモノもあるかもしれないが)。

 そして、帰納的思考は、私の高校時代の生物の教師が奇特な人で教えてくれたのだが、その教師の言葉を信じるのなら、人間は確からしい事実しか知る事ができない、というデカルトの考え方が受け入れられているらしい。

 帰納的思考に必要な事は、情報を集める事だ。情報を集めて、情報と情報の間から、その関係を考察し、新しい事実なり法則なりを発見していこう、という思考なのだから、それは当たり前だ。

 ならば、当然、ここで問題になってくるのは、人間は完全に正確な情報を全て集める事が可能なのかどうか? という事だろう。

 答えは簡単だ。

 不可能である。

 まず、人間は完全に正確な情報を知る事などできない。極論でいく。人間が見ている現実は、光を電気信号に変えて脳で処理されたものであって、外界そのままではない。これは、もちろんその他の耳や触覚だとかいった感覚でも同じ事だ。だから、得られた情報が完全に正確な情報である事を証明する事は、理論上不可能だ。人間は、自分の脳の限界を越えて物事を把握する事などできないのだから。つまり、それは完全に正確な情報を得る事ができない、といった事を意味している。

 また、全ての情報を集める事もできない。何故なら、未知の情報がない事を証明する事も理論上不可能だからだ。まだ、違う情報が隠れている可能性は幾らでもある。

 実際、歴史上で、未知の情報の登場によって覆された理論が一体幾つあるだろうか?

 つまり人間は、常に限定合理性の上でしか、物事を考える事はできないのだ。

 これがデカルトの、人間は確からしい事実しか知る事ができない、という考え方だ。

 そしてこれが、自然科学での情報に対する正しい認識の仕方、でもある。よって、自然科学の領域では、あらゆる説は、極論をいえば全て仮説でしかない。それは、人間が、永久に真実を知る事はできない(できたとしても、それが真実である事を証明する術を持たない)という事実を示している。

 ただ、もちろん、その“確からしさ”は上がっていくが。つまり、完全に黒にも白にもなる事はなく、物事の認識は常に灰色なのだが、白により近い灰色もあれば黒により近い灰色もある、という事だ。

 この事実は、もしかしたら、人間の機能上の限界によって発生しているのではないのかもしれない。量子力学という分野で出された“不確定性原理”という結論がある。これは、完全なる客体においては物事は全て不確定、という事を示しているらしいのだが、この“不確定性原理”は帰納的思考の限界に対する考え方と見事に一致をする。

 ………。

 心を、自然科学的扱おうとするのであれば、情報の不確定さを、まずは念頭におかねばならない。

 何故なら、心は、未知の情報の可能性があまりに多く、そして情報が正確である、という証拠もあまりに得難い。そして更に、非常に複雑でもあり、かつ多面的にも捉える事ができ過ぎる、からだ。

 だから、結論が正しかった、と便宜的にしろ、決定付けるべきではない。

 要するに、情報が不確定ならば、不確定な結論として理論を構築する、という事を行わなければいけないのだ。

 そうでなくては、行動主義心理学の様に、内観法を切り捨ててしまわなくてはいけなくなるだろう。

 元から自然科学での結論は、極論では、全て仮説でしかないのだから、それでは論が展開できないという考え方はおかしい。

 もちろん、それだって情報を重要視するという事は忘れてはならないが。矛盾があるのなら、それは理論に何かしらの欠点があるか、足りない点があるからだ。理論を疑う準備は常にしていなくてはならない。

 精神分析学は、不確定な情報を確定した情報であると捉えて理論を構築し、そしてその所為で、その構築した理論を重要視し過ぎてしまい、情報を軽視してしまった。そして、それにより初期の自然科学性を失ってしまったと見なすのが、どうやら正しい見解なのだという。

 理論で、理論の説明を行う、という事を行い始めてしまったというのだ(有名なのが、タナトス、死の本能だろうか。これは、夢は願望充足である、という説を唱えたフロイトが、悪夢が存在するという矛盾を説明する為に提唱したものらしい。死の本能が実際にあるかないかは別問題としても、この態度は自然科学的であるとは言い難い。また、実際に死の本能が存在していても、悪夢の全てをそれで説明するのには無理があるだろう)。

 そして、それによって、精神分析学は、自然科学というよりも、人文科学的になってしまった。

 (だから、小説には、精神分析などがよく出てくるのかもしれない。ただ、その扱いは稚拙なものがほとんど、と言わざるを得ないが)

 物事を不確定に捉える。

 重要なのはこれなのだろうと思う。

 ………。

 この帰納的思考に関する考え方は、自然科学の分野での世界の観方だが、実は、これは一般社会の人々の認識にも必要な事なのかもしれない。

 人々は、レッテルというものを何かしらの対象に対して貼りたがる(恐らく、安心をする為だろう)。

 つまり、できるだけ分かり易く物事を捉えようとしてしまう。そして、その捉え方を守ろうとする。自分自身を守る為に。

 変化を拒んでいるのだろう。

 しかし、これは危険な事でもある。

 これが偏見や先入観、固定概念の原因になるだろう事は言うまでもない。

 限定された不確定な情報から、全てを判断してしまう態度は傲慢さとも繋がってくる。主観的な事、自分に見えている事柄が、世界の全てだ、と思ってしまう思考でもあるのだから当たり前だ。

 女性原理、男性原理の少年への説明で、私は女性原理的な傾向を女性が持ち易く、男性原理的な傾向を男性が持ち易いと述べた。

 こういう事を言うと、直ぐに女性だから女性原理を強く、または男性だから男性原理を強く持っている、と考えてしまう人がいるが、だからそれは間違っている。

 この情報は、様々な要素がある中のわずか一要素の情報に過ぎないのだ。だから、それだけで判断をするのではなく、もっとその人の情報をできるだけ多く集めて整理し、結論はその上で出さなければいけない。女性でも男性原理を強く持っている人は存在するのだから。結論を出すにしても、それが便宜的な判断であると充分に自覚しておくべきなのだ。

 男女の差を述べる事を著しく嫌う人がいるが、これは平等に対する考え方が偏っているという理由の他にも、その人に不確定に物事を捉える、という認識が欠如しているからなのかもしれない。

 また、女性原理的な能力が、家庭以外の外の社会では、役に立たないと思ってしまう人がいるが、これも同じように…

 ………、

 …そういえば、少年にこの事は説明し忘れていたな。

 私は、そこまで考えを巡らせた時に、突然それに気がついた。

 「……話さなければいけないかな?」

 そして、少年の事を思い浮かべた。

 そして私は、それを切っ掛けにして、それ以上考える事を止めた。

 ふと気付くと、歩きながらの様々な思考にかなり疲れていたからだ。見ると、自宅はすぐそこである。私は、だから、そのまま自宅へと帰った。

 無理に思考を続ける必要などないのだ。

 焦る必要はない。

 今は。

 だが、私はそう思いながらも、自分が思考を中断した事について、何か違和感を感じていた。

 

 (何故、私は思考を中断してしまったのだろうか?)

 

 「女性原理、男性原理の説明で話し忘れていた事があったよ」

 私は、次の家庭教師の時間の雑談時に、少年にそう言った。

 少年は、その一言を聞くと、またか、というような顔をしたが、その表情は決して嫌そうなものではなかった。

 恐らく、薄々予想していたのだろう。

 塾講師をしていた頃から、私の雑談はかなり多かったし、最近は必ずといって良い程何かを喋っている。

 「どんな事?」

 少年は明るい表情でそう訊いて来た。

 「女性原理の必要性の話なのだけどね」

 「その話は、もう聞いたような気がするけど」

 「いや、もうちょっと具体的に話すんだよ。 女性原理の利点について、私は教育の事しか話していなかったような気がする」

 少年はそれを聞くとやや構えた表情になった。

 聴く気になったようだ。

 「カウンセラーって職業があるよね? この職業は年々注目を集めているんだよ。例えば、スクールカウンセラーってのもあるし、最近は大企業なんかで専用のカウンセラーを雇うケースが多くなってる。そうした方が、労働効率が上がったりだとか、色々利点があるかららしいね。でさ、これはもしかしたら、社会が、足らない女性原理を補おうとしてるのだ、と捉えられるとは思わないかな?」

 少年はそれを聞くと「うーん」と、唸り、

 「なんか、そんなような気もするけど、先生の言った女性原理とは、微妙に違う気もする」

 と、そう答えて来た。

 私はそれを聞くとにっこりと頷いて見せた。

 「うん。私もそう思う。女性原理と完全にはイコールじゃないだろうね、カウンセリングというモノは。ただ、少なくとも重なる部分はあると思うんだ」

 すると、少年はすんなりとそれに同意した。

 「うん。それなら、僕もそう思う」

 私は説明を続ける。

 「女性原理的の欠損を補う為に、男性原理的な面から誕生させたシステムが、もしかしたらカウンセリングなのかもしれない、と私は考えてるんだ。カウンセリングにはロジックがあるし、これはもちろん心理学がベースなのだけど、職業というのは一種のルールでもあるのだから、気持ち的に捉えるのが女性原理だとするのなら、噛み合わない部分が多くあるからね」

 「でも、」

 そして、私がそう説明をすると、少年はこう言って来た。

 「カウンセリングで、女性原理の欠損の全てを補える訳じゃないんだね?」

 ある程度は、少年はもう私の説明してきた事を自分のモノにしているのかもしれない。だから、こんな指摘をする事ができるのだ。

 「もちろんそうだと思うよ」

 私は答える。

 「でも、同じ様に女性原理でだって、カウンセリングの持ってる効果の全てを引き出せる訳じゃないと思う。ロジック化されているものと、そうでないものとではやっぱり違いがあるし、職業というか、肩書きは人間に影響を与えるからね」

 少年はふんふんと頷きながら私の説明を聴き、そして私が言い終わるとこう訊いて来た。

 「それで、女性原理の社会での必要性って?」

 元々の話題である。

 「うん。この事実はさ、女性原理が社会にとって必要だって事を物語っているとは思わないかな? 個人が抱えるストレスの問題、集団の仲間関係を良くする事で、スムーズに仕事が行えるようになる、そんな事だとかの為にね」

 私がそれに対してそう答えると、少年は生意気にもこんな事を言って来た。

 「なんだぁ そんな事くらいなら、もう分かってたよ、先生。僕だって、今まで、先生の話をただ聴いてたって訳じゃないんだから」

 と。

 私は、それを聞いて少しの悔しさを感じはしたが、やっぱり嬉しかった。ただし、お返しにこんな問い掛けをしてやった。

 「ふーん、そうか。それなら、これは分かるかい? 女性原理的な役割を担う役職は、必要なのかどうか」

 少年は、それを聞くと不意を突かれたような顔を一瞬し、それから困ったような悔しいような表情を浮かべた。そして、それからしばらくの間必死になって考え込み、やがて答えが出なかったのか、

 「いきなり言われたって分からないよ」

 と、半ば抗議でもするかのように私にそう訴えて来た。

 私は、少年のその様子を見て、少し大人げがなかったかな?とやや反省をしつつ、

 「あははは そうだろうねぇ。いきなりじゃ無理か。悪かったよ。 正解を言っちゃうとね“そんなモノは存在しない”という事になるんだ」

 と答えを言ってやった。

 「存在しない?」

 それを聞くと、少年は素っ頓狂な声を上げて、

 「その答え、問題の意味に合ってないじゃない!」

 とそれに対して、今度は本当に抗議をして来た。私は、それに対して謝りながら、説明を加えた。

 「ごめんごめん、確かに意地悪な問題だったよ。でも、気持ち的に捉えるのが、女性原理だとするのなら、役職だとかいった見方で物事を捉えるのとは根本的に違うという事になる。それが分かっていれば、指摘は簡単にできたはずだ。必要だとか以前の問題だからね。だから、君が本当に分かっているかどうかを試すには打って付けの問題だったんだよ」

 少年は私のその説明を聞くと、渋々納得をしたようだった。

 「女性原理的な捉え方を活かすには役職は絶対条件じゃないんだ。しかも何人だって可能なのだから、その集団全員が女性原理的な役割を担う事だってできる。それに、ポストだって何でも構わない。女性原理的な役割を担うのはリーダーの場合もあるだろうし、それ以外の場合だってある。時にはいじめられっ子の場合だって考えられる。スケープゴート理論はその一種かもしれないね。或いは、チャーリー・ブラウンとかもそうかな? スヌーピーの」

 「いじめらっれ子だけど、なくてはならない存在、みたいな? みんなの気持ちを調整する役割として」

 「そうそう」

 少年は、私の説明をそこまで聴くと、真剣な表情になった。

 私はそれを見ながら、補足説明をした。

 「それとね、心の問題だけでもないんだよ、女性原理の必要性は。社会制度を考える上でも必要になってくる。例えば、経済だとかでもそうだね。今の経済の発想は、ほとんど労働者側からしか見てはいない。“如何に儲けるか”しか考えられていないんだ。これは男性原理的な発想だからだろうね。言い換えれば、如何に奪うか、という事でもあるのだから。でも、実際は奪うだけで経済が成り立つはずはないんだ。消費者がいなくちゃ経済は成り立たないだろう?つまり、経済社会を成立させる為には、“如何に消費者を創造するか”も考えないといけない。これは当たり前の事なんだけど、気付いてる人は少ないね。多分、それは、女性原理的な発想が欠如しているからなんじゃないかと思う」

 この事実に気付き、理論化し、そして社会に活かす為には、恐らく、女性原理的な発想だけでなく、女性原理では足らない部分を男性原理で補う、だとかいった事も必要になってくるだろう。そして、それには、女性原理も男性原理も高度に発達させる必要がある。

 これは一例に過ぎないが、過渡期にある、と見なされてる現代社会が成長をする為には、女性原理が重要な役割を果たすだろう事は目に見えているのだ。

 (のに…)

 「先生」

 少年が、突然明るい声で私に語りかけて来た。

 「教育の、内発的動機付け、だとかもさ、女性原理と関係があると考えて良いのだよね?」

 私はその突然の質問に思わず呆然となってしまった、が、直ぐに頭を整理すると、それが何の事であるのか理解し、それに対して返答をした。

 「もちろんそうだね、代表的な例だと思うよ」

 ただ、その事をどうして少年が知っているのかには少々困惑した。

 “内発的動機付け”とは、本質的な学習意欲の事だ。この内発的動機付けがきちんと成っている人間は、自分から進んで学習を行う。

 今、日本では、内発的動機付けを高める教育方法が求められているが、これももちろん、女性原理的発想がなくては不可能だろう。

 少年は、私の返答を聞くと上機嫌になった。

 にこにことしている。

 そして、こう言って来た。

 「これね、先生の一番始めの女性原理の説明の時に気付いたんだよ」

 そういえば、少年は、訳もなく一度晴れやかな表情を見せた。あの時に思い至ったのだろうか?

 私はそれを聞くと何故か緊張をした。

 何故だ?

 それから、少年は私に向かってこう言って来た。

 「話変わるけどさ、また、物語を書いたんだ」

 ………。

 「先生、読んでよ」

 そして、少年は机の引出しからノートを取り出して私に手渡した。

 私は、緊張をしたままで、ぎこちなくそれを受け取った。

 少年は、私のそんな様子を不思議そうに見つめていた。

 ………。

 

 私は、家に帰り、少年のノートを目の前にしながら、何故かそれを拒否していた。ノートを開く事を、少年の物語を読む事を、何故か拒否していた。

 嫌がっていたのだ。

 理由は、何故だかは分からない。

 しかし、同時に拒否したいと思っているからこそ私はノートを開かなくてはいけないのだ、という思いも私の中で何故か確かだった。

 ここで、少年のノートから逃げる事はあらゆる意味で、少年の事を考えた外の意味でも、私の中の内的な意味でも、してはいけない行為だった。

 逃げてはいけない。

 何故だか、それが分かっていた。

 だから私は、ノートを開け、少年の物語を読み始めた。

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