蜂を殺した時の話
キイロスズメバチらしき大きな蜂を見掛ける。時季や挙動的に、結婚飛行というやつだろうか。
去年気付かず巣を作られて刺された事を思い出し、それで殺す気で攻撃する。危機を察知しても彼女に反撃能力は無い。きっと危機を予見もしないだろう。無邪気に生きていて殺される。人間はいつも、「防衛の為」と言い訳する。
草刈り鎌で強く押さえつけると、生殖機構があるだろう腹側と、脳髄があるだろう胸から上を図らずも分断してしまった。腹部だけをおいて、蜂は飛んで逃げた。
スズメバチもまた、多くの蜂や蟻と同様に、「真社会性」を持つ動物である。「真社会性」とは即ち、生殖でさえ分業する社会の事を言う。人間の未踏の徹底した分業を持つ社会性だから、「真」社会性である。人間は、自身を「考える葦」と自称する事もある程に、強い自我、自意識を持つ。生殖行動は未だ代替し難い悦びをもたらす行動であり、それ程までに苛烈な社会性は、最もラジカルな社会主義者ですら躊躇する事だろう。人間は孤独を恐れる半面で、理解不能な社会を恐れて自分だけの価値観に引き籠もる、激烈な矛盾を根底に孕んだ動物である事は、周知の通りだ。
その大きなスズメバチ…彼女が女王蜂なのであれば、既存の生物学的には存在意義そのものである。生殖の力をこの場に置いて。酷く苦しんで死ぬ事は、避けようがない。
残酷な事をした人間は、その場で何事か理屈を考え続けている。幼い甥っ子が来るから、スズメバチに巣を作らせる訳にはいかない。彼等に近場で増えられると、リスクが増大する。仮に、仏教の仮説に従って生き物一個体一個体に魂を認めるとするなら、沢山に増えた後で薬剤を持って殺せば、より大きい殺生という結果にもなる。
しかし魂とは何か?例えば植物は二つの別種の傷口を近づける事で接ぎ木という現象が起こる。二つの別々の木が一つになるのだ。ここでの魂は、一つなのか、二つなのか。また、それと似た事だが、「相生」というドラマティックな現象もある。一つの根から、雌株と雄株の二つが生えていたりする樹木を、そう呼ぶ。ここでの魂は、一つなのか、二つなのか。あるいは、魂という考え方が、間違っているのか。
胸から上だけになって飛んでいった蜂が残していった、まだうごめく力の残っている腹部を見下ろす。罪悪を小さく止める為には、今殺すのが合理的な判断だった筈だ。相手に反撃する力が無い内に。そうだろう?自分の中の博愛の規定に照合する。
一方で、ディックの小説にあった『みんながルールを理解してくれる様にと望みながら。なすすべを知らない生き物は殺さないのだというルールを』という文言が思い出され、批判の様に頭に響く。エミリー・ファッセルマンのウサギ。
人間が何かを殺す時の心理は、多様だろうか?歴史の局面を俯瞰する時、人は、人を殺す時も、それ以外の生き物を殺す時も、抽象物にしろ具象物にしろ「何かを得たいから殺す」か、或いは「そこに存在されると邪魔だから殺す」かのどちらかに過ぎないのではないか、と思われてくる。
その、女王蜂であったろう蜂の潰れた腹部を横目に作業を続けていると、もう一匹、形の似た先より小型の蜂が来た。もしかすると、先の蜂の種の雄側なのかもしれない。では、自分が殺した蜂の匂いに誘われて来た、という事だろうか。
合理化した罪悪感の回避は、ある種の無視の側面が否めない。一個の生物としては、もはや決して居はしない相手を探し続ける雄蜂を見て、そしてそれに性的に孤立している自分の心象風景を見る様な気がして、その様な事ばかりを繰り返し考える。
雄蜂はその場を離れようとしない。雌の残り香から幻想を追い掛け続けているのか。
そしてそこに、奇妙な事に、腹を失って胸から上だけの蜂も、再び戻って来た。加害者であり、そして人間である自分は酷く狼狽える。
彼女は、自分の失った体の一部を求めて来たのだろうか?それとも、半身だけの姿でもなお、雄蜂との出会いを求めて来たのだろうか?
全く見識浅く、狭量な自分には分からない。ただ、明らかなのは、彼女の痛みを反映する様に不安定になった、飛行の軌跡だけ。自分は、そんなに苦しむ必要はない、と言う様に、雌蜂の頭を潰した。或いはそれは、罪悪感に訴える映像を視界から消したかっただけなのか。
雄蜂は尚もその場を離れなかった。