【コミカライズ】結婚式の夜「君を愛する事はない」と 言われたので、あなたを助けることはありません
「申し訳ないが、僕が君を愛することはない」
結婚式の夜、いわゆる初夜を迎えるという時に、私の部屋同士が繋がっている扉から現れた夫になったばかりの人は、少しも申し訳ないと思っていない顔でそう言った。
物語ではないけれど、本当にこんな事を言う人がいるのね……。
思わず口を開けそうになるが、さすがにこらえる。
貴族の務めとして政略結婚で結ばれた私たちだが、正直に言って、私は夫となる相手に全く期待はしていなかった。
なにせテイラー伯爵家の嫡男ロベルトには、真実の愛で結ばれた恋人がいるからである。
ならばなぜ私と結婚したのかというと、そこには複雑な事情がある。
ロベルトの真実の愛の相手は、従妹である元子爵令嬢のライラである。
元、とつくのは、彼女がもう貴族籍にはないからだ。
ライラには年の離れた姉がいて、婿を取って子爵家を継ぐ予定だった。
だが貴族学校で真実の愛に巡り合ってしまったのである。
それも複数。
お相手は当時の王太子殿下に宰相子息にと、我が国の次代を担う優秀な若者たちだった。
彼らはライラの姉に夢中になり、なんと卒業パーティーの時にそれぞれの婚約者に婚約破棄をつきつけてしまった。
婚約というのは両家による契約だ。もしそれを解消するのであれば、話し合って『婚約解消』をすればいい。
けれども彼らが行ったのは、一方的な契約の破棄。
その理由もお粗末なもので、嫉妬してライラの姉に危害を加えたというものだが、すぐに自作自演という事がバレた。
冤罪をかけられた婚約者たちは当然激怒し、望み通りに婚約破棄を受け入れた。
そして一方的に婚約破棄をした王太子は王太子の地位から降ろされ継承権のない王子になり、宰相子息なども後継者からはずされた。
その時の混乱はとてもひどかったらしい。
そして元凶となったライラの姉は北の厳しい修道院に送られ、王国を混乱に陥れた罪で子爵家は取り潰された。
その結果、ライラは貴族から平民になった。
それを不憫に思ったライラの伯母――つまりロベルトの母が、侍女としてライラを屋敷に引き取った。
侍女といってもライラは伯爵夫人の姪という事もあって、まるで娘のような扱いを受けた。
ライラの姉は政略で結ばれた婚約者がいる王太子たちを虜にしたほどの美貌の持ち主で、その妹のライラも、とても美しい少女だ。
だから学校の寄宿舎から帰省してきたロベルトが一目ぼれするのも、分からなくはない。
だが貴族と平民の結婚は許されていない。
ロベルトはライラとの結婚を望んだが、さすがにライラを可愛がっている伯爵夫人も首を縦に振らなかった。
平民を貴族の養女にするという奥の手もあるのだが、ライラの場合は姉のスキャンダルのせいで、その手は使えなかったと聞く。
今でも王妃様は、息子である元王太子を陥れたライラの姉を、深く恨んでいると聞くものね。
そんな家の娘を喜んで迎える貴族はいないだろう。
でもそれならば、ロベルト様は爵位を諦めて、ライラとの結婚を選べば良かったのに。
貴賤結婚を望む場合は、爵位を継げなくなる。
ロベルトも真実の愛で結ばれているというのなら、ライラと同じ平民になれば良かったのだ。
それができないままずるずると関係を続けた結果、私は結婚式の夜にこんな屈辱的な言葉をかけられている。
「ですが、跡継ぎはどうなさいますの?」
こんな風に宣言するくらいだ。ロベルトは私が想像した以上にライラ一筋なのだろう。
となると私とロベルトは白い結婚になるが、後継ぎはどうするのだろう。
たとえライラとの間に子供ができたとしても、正妻の生んだ子供か、貴族籍にある親族を養子にした場合にしか、爵位の継承権は認められていない。
愛人の子供には何の権利も与えられないのだ。
「白い結婚という事で二年後にお前と離縁すれば、父も諦めてライラとの結婚を許してくれるに違いない」
確かに二年間夫婦として過ごさなければ、白い結婚であったとしても離縁できる。
「どなたかの養女になるご予定がありまして?」
「マイルズ子爵家が力になってくれると約束してくれた」
マイルズ子爵というのは廃嫡された嫡男がライラの姉に惑わされて、所有している商会が傾くほど貢いだと言われている家だ。
今では家を存続させるのもやっとだと言われており、ライラを養女にしてテイラー伯爵家の妻にすることで、評判を取り戻そうとしているのだろう。
でもこんな形でライラとロベルトと結婚させても、逆に評判が落ちるんじゃないのかしら。
「でもそれだと私に何のメリットもありませんわね」
私としては別に二年後に離婚するのは構わないのだが、さすがに世間の評判というものがある。
二年後に白い結婚であった事を公表するにせよ、その間はずっと「子供はまだか」と言われ続けなければいけない。
しかもいくら結婚が白紙になるといっても、結婚適齢期の二年間を棒に振るわけだ。
どう考えても、私にはデメリットしかない。
ロベルトは確かに見かけだけは良い。
だが令嬢たちの積極的なアプローチに「僕には真実の愛で結ばれた相手がいるから」と断り続けているのが有名過ぎて、最近ではどの家も縁談の申し込みをしていない。
ではなぜ私が政略結婚しなければいけなかったのかというと、うちの領地から王都までの間に、テイラー伯爵家を通ると近いからだ。
我が家は海に近く、新鮮な海産物が採れる。
今までは輸送コストの問題から地元で消費していたのだが、最近は冷蔵機能のある箱の開発などで、加工していない取れたての魚を運べるようになった。
だが王都までの道は大きく迂回する街道しかなく、冬はともかく夏の輸送ではどうしても魚が悪くなってしまう。
そこでテイラー伯爵家に我が家と共同で道を作ってもらい、輸送時間を短くする計画が持ち上がった。
この場合、手を組むには政略結婚が一番手っ取り早い。
しかも両家には適齢期の男女がいる。
幼い頃に何度か会っただけだが、全く知らない仲ではない。
こうして問答無用で私とロベルトの結婚が決まってしまったのだ。
「ではずっとここに居座るつもりか?」
「私が好きでここにいるとでもお思いですか」
思わず半目になりながら言うと、ロベルトは驚いたような顔をした。
いやそこ、驚くような場面じゃないから。
でも今の顔で確信した。
ロベルトは、私が彼の事が好きで結婚したんだと思いこんでるって事を。
冗談じゃないわ。
結婚を拒否するなら修道院へ送ると脅されて、仕方なく嫁いできたのにこの仕打ち。
絶対に泣き寝入りなんてしない。
私は固く決心をすると、まだ驚いたままのロベルトに提案をもちかける。
「条件があります。それを呑んで頂けたら、二年後には綺麗さっぱり離縁いたしましょう」
「条件とはなんだ」
「まず当家との共同事業である道の設置については、このまま進めさせて頂きます」
「もちろんだ」
「また、二年後の離縁をスムーズにするため、白い結婚を約束してください」
「最初からそのつもりだ」
「離縁の際には慰謝料を頂きますが、それまでの間、伯爵夫人用の予算は自由に使わせてください。ああ、もちろん、通常の範囲内ですのでご心配なく」
どれほど贅沢をするのだという目で見られたので、きちんと訂正しておく。
最低限の社交用のドレスは作らせて頂くけれど、私が欲しいのはもっと別のものなのよね。
これは、私にとってとても大きなチャンスよ。
私の夢が、叶うかもしれない。
私はにんまりと笑うと、目の前の書類上だけの夫を見つめた。
そんな訳で、私の二年間はテイラー伯爵夫人という肩書を活用して女性向けの商品開発に費やした。
薔薇を模した小瓶に香水を入れたり、肌に優しい石鹸を開発したり。
意外にも一番のヒットになったのは、子供向けに開発した、ドレスとお揃いのぬいぐるみだ。
ドレスは着せ替えができるようになっているので、子供の成長と共にドレスを買い替えると、必然的にぬいぐるみのドレスのオーダーも入る。
まさに一粒で二度おいしい商売となった。
「さて、離婚の書類も書いたし、後はロベルトのサインをもらうだけね」
私は商会でも仕事を頼んでいる弁護士と一緒に、ロベルトの執務室を訪れた。
教会から白い結婚の証明書ももらったし、書類の不備はないわよね。
私は執務室のドアをノックして中に入った。
久しぶりに会うロベルトは……あら、何だかお疲れみたい。
商会の仕事が軌道に乗り始めてからは、ずいぶん顔を合わせてないわ。
そうね。半年ぶりくらいかしら。
「ロベルト様、こちらにサインをお願いします」
「これは……?」
「お約束通り、離縁するための書類です。慰謝料は以前の契約書の通りにお願いいたしますわね」
ロベルトが書類を確認している間に、久しぶりに訪れた執務室を見回す。
以前は整理整頓されていたように思うけど、なんだか少し乱雑になっているみたい。
書類は分類されずに机の上に置きっぱなしだし、壁際の机の上にも報告書らしき書類が積み重なっている。
私が伯爵夫人のための予算を使って私的な商会を作ると、対抗したのかロベルトもライラを養女にする予定のマイルズ子爵家と一緒に商会を立ち上げた。
でも何のビジョンもないままに商会を立ち上げても、上手くいくはずがない。
ロベルトは私の作るぬいぐるみを参考に、着せ替えができる人形を作って売り出した。
私のようにうさぎやクマのぬいぐるみにして布の柔らかさを堪能できるようにすれば良かったのだけど、布でできた人形は、可愛らしいとはいえない出来だった。
その人形に立派なドレスを着せても見栄えはしない。
当然、大量の在庫を抱えることになってしまった。
それでもテイラー伯爵家の財力であれば、それほどの痛手にはならなかっただろう。
……負債に耐えられなかったマイルズ子爵が、爵位を売って平民にならなければ。
マイルズ子爵の分も借金を抱えたテイラー伯爵家は、たちまち窮乏した。
私も商会が軌道に乗ってきたからとはいえ、ここ半年は伯爵夫人の予算を使わずにいたほどだ。
でも離縁するのだから慰謝料はしっかり頂きます。
私の貴重な二年間をこの伯爵家に縛られてきたのだから。
「一つ、提案があるのだが」
書類から目を上げたロベルトは、言いよどむように下唇をなめた。
「なんでしょう」
私は彼が何を言い出すか、ある程度予想しながら次の言葉を待つ。
案の定、思っていたとおりの言葉が形の良い唇からこぼれた。
「我々の婚姻だが、少し考え直しても良いのではないだろうか」
「考える余地などないと思いますけれど」
私はロベルトの提案とやらを聞きもしないうちにばっさりと切り捨てた。
だって、今さらだ。
私がテイラー伯爵家に嫁いでから二年、本当に色んな事があった。
まず伯爵家における私の立場は想像していた以上に悪かった。
なぜなら屋敷の者にとって、私はロベルトとライラの仲を引き裂く悪者になっていたからだ。
私たちの結婚はあくまでも政略によるものなのに、いつの間にかロベルトに恋をした私が、権力を笠に着て無理やり妻になった事にされていた。
冗談ではない。
政略でなければ、もっといい条件の男性は他にもたくさんいた。
私は仕方がなくこの家に嫁いできたのだ。
それなのに屋敷で働く者たちすら、私ではなくライラを奥様扱いする始末だった。
その原因となったのはロベルトの母が、ライラを可愛がり過ぎていたからなのだけれど……。
侍女すらろくに働いてくれなくて困った私は、もちろん生家を頼った。
父は憤慨することもなく、この事態をどう収拾したら我が家に有利になるかを計算しているようだった。
娘の私が幸せになれるかどうかより、家にとって有利になるかどうかが判断の基準になるのは仕方がないにせよ、もう少し家族の情とやらを見せてくれても良いのではないだろうか。
だが父のおかげで有能な弁護士を雇えたのは確かだ。それだけは父に感謝している。
弁護士に相談しながら、私は二年後の離婚に向けて調整した。
侍女は実家から連れてくることにしたし、シェフも頼んだ。
なにせ、嫌がらせのように冷め切った料理を用意されるのだ。
どうにかして欲しいとロベルトに言っても前伯爵夫人に言っても無駄だった。
前伯爵ならば少しはこの境遇を改善してもらえたのだろうが、あいにく病に臥せってしまって療養中なので、心労をかけられない。
私はさっさと屋敷の離れを改修してそちらに移り住んだ。
離れでの生活は、とてもとても快適だった。
商会も立ち上げて忙しくしている間に、私が後にした女主人の部屋はライラが使うようになっていたらしい。
まあ、つまり、テイラー伯爵家の実質上の女主人はライラだった。
でもまだマイルズ子爵家の養女にはなっていないし、そもそも私との離縁も済んでいないのに、と呆れはしたけれど、何かがあって私との仲を再構築しようと考えられるよりマシだと思って傍観していた。
が、それがいけなかったのだろうか。
いつの間にかロベルトの頭の中では、私が彼を愛するあまり、辛い仕打ちにもけなげに耐え忍んでいるのだという考えになってしまったらしい。
本当に、全くもって冗談ではない。
確かに顔はいいかもしれないが、それだけだ。
男としては最低であると断言する。
当然、ロベルトの提案とやらをすぐにお断りしようと口を開けた。
そこへ勢いよくドアが開く音がした。
びっくりして振り向くと、髪を振り乱したライラがいた。
「離婚できないってどういう事!」
「ライラ、ここには来るなと言ったはずだ」
「私だけのけ者にして、何を話すつもり? 私はロベルトの妻でしょう!」
「何を言う。この屋敷の女主人は――」
「ライラさんですわね」
私の方に顔を向けるロベルトを無視して断言する。
ライラはパアッと顔を輝かせた。
「申し訳ないが、僕が君を愛することはない。……ロベルト様は結婚式の夜、確かにそうおっしゃいました。ですのでこの屋敷の女主人は私ではありません」
「確かにそうだが、それは……」
「その言葉通り、この屋敷の誰もが……そう、料理人に至るまでライラさんを女主人と認識しており、私は早く出ていけとばかりに、ないがしろにされました」
ロベルトは気まずそうに下を向く。
二年間の間、歩み寄る機会が一度もなかったわけではない。
だがそれを全部無視したのはロベルトだ。
「ロベルト様も私に早く出ていって欲しかったのでしょう?」
「いや、そんな事は……」
「メリディアン鉄道」
ロベルトの顔色がサッと変わる。
すぐにサインすればいいのに引き延ばすから、こうして最後通牒を突き付けられるのだ。
本当に……愚かな人。
「マイルズ子爵は商会の失敗だけではなく、メリディアン鉄道の架空投資にも騙されてしまったそうですわね」
半年前に国中を騒がせた架空投資詐欺事件がある。
亡くなった前国王の落胤という男が、王国から北に延びるメリディアン鉄道という鉄道への投資を募った。
その男は王家の誰とも似ておらず一目見て偽者だと分かる風貌だったが、弁が立ち不思議な魅力があった事から、多くの貴族が騙されてしまった。
更に前国王が晩年に、一人の女性をずっと身近に置いていたという噂があることも信ぴょう性を深めたのだろう。
鉄道を敷く予定地に領地があったマイルズ子爵もそのうちの一人で、今までのマイナスを取り戻そうとしたのか、全財産をこの投資話につぎ込んでしまった。
だが杜撰な計画はすぐに明らかになる。
落胤と名乗った男は詐欺で逮捕され、集めた資金は全て賭博で使ってしまったと供述する。
さらに男は獄中で何者かに殺され、事件の真相は闇に葬られてしまった。
謎の多い事件であったが、詐欺事件の被害者が救済される事はなく、いくつかの貴族家がひっそりと表舞台から姿を消した。
マイルズ子爵家もその一つだ。
「テイラー伯爵家もかなりの投資をなさっていたとか」
そしてマイルズ子爵と懇意にしていたテイラー伯爵家もまた、かなりの被害を受けていた。
さらにロベルトには私との離縁で発生する持参金の返還と、慰謝料の支払いがのしかかる。
今の伯爵家には到底払える金額ではない。
だから負債を帳消しにする為に、私との離縁を渋るかもしれないという予測はしていた。
しっかり当たってしまったわけだけれど。
「ライラさん、お喜びになって。私と離縁した後に、ロベルト様は爵位を売って平民になりますの。ですからもう何の気兼ねもなく結婚できますわよ」
「え?」
ライラは意味が分からないのか私とロベルトの顔を交互に見ている。
既にテイラー家はそこまで追い詰められている。
私なら助けることはできるだろうが、正直に言って、そこまでする義理はない。
なにせ、白い結婚の妻なので。
それにしてもライラが内情を知らなかった事には驚いた。
女主人の部屋を使っているくらいだから、伯爵の妻がしなければいけない実務を少しは与えているのかと思っていたのに、全くやらせていなかったとは。
これでは妻にするつもりが最初からなかったのだと言われてもおかしくないわね。
呆れたようにロベルトを見ると、整った顔が苦虫を噛みつぶしたかのように歪んでいた。
「サインを頂けないのでしたら裁判になりますけど……。正直、お勧めはいたしません」
今の伯爵家の内情だと、腕の良い弁護士は雇えないだろう。
もちろん私と一緒に来ている弁護士は、国一番の最高の腕利きである。
私の出番ですねとばかりに、一歩踏み出した。
「お初にお目にかかります。私はレイチェル様の顧問弁護士を務めさせて頂いております、ラファエル・シュバルツと申します」
「あなたが、あの……」
ロベルトが驚いたようにラファエルを見る。
シュバルツ公爵家の次男であるラファエルの名前は貴族の間では有名だ。
社交界嫌いで知られ表に出ることはめったにないが、彼が担当した裁判はすべて勝つと言われている超一流の弁護士だ。
「私の事をご存じでしたか。では話が早い。こちらにサインをして頂けますね」
ロベルトはすがるように私を見たが、最初に白い結婚を提案してきたのはそちらのほうだ。
なのになぜ、この期に及んでも私が助け船を出すなんて甘い考えを持てるのか、本当に理解できない。
私が無言のまま見つめ返すと、ロベルトは諦めたようにペンを手に取った。
「あの、待ってください」
それを止めたのはライラだ。流れるような金髪も夢見るような青い瞳も、相変わらず美しい。
それにその儚げな様子は、常に男たちの保護欲をそそる。
ライラも自分の容姿をよく理解しているのか、胸の前で手を組んで、潤んだ瞳でラファエルを見上げて切なげに訴える。
「レイチェル様が始められた商会は、元々は伯爵家の資金によるもの。でしたら商会の権利は伯爵家にあるのではないでしょうか」
「つまり離縁に際して、権利をテイラー伯爵に譲渡しろと?」
「ええ。だってそうすればロベルトも爵位を売らずに済みますわ。ずっと貴族として生きてきたのに、今さら平民になれと言われても生活などできませんもの。レイチェル様はロベルトを破滅させたいのですか?」
振り返ったライラが強い目で私を見る。
けれども、私が考えを変える事はない。
「そもそもこの結婚自体が最初から成り立っていないのですけど……。それに結婚後すぐに私が興した事業の権利は私個人に属するという契約を交わしています」
あの衝撃的な初夜の後、父に相談するとすぐ弁護士としてラファエルを紹介された。
二年後にまさかここまで伯爵家が困窮するとは思わなかったけれど、慰謝料等は取れるだけ取ってやろうと、完璧な契約書を作ってくれた。
ロベルトが何をどうがんばっても、この契約の履行を逃れることはできない。
だからこそ、焦ったロベルトが卑怯な手を使ったりできないように、半年前から伯爵家を出てホテルで生活していたのだ。
その少し前から伯爵家の資金繰りが上手くいかなくなっていて、追い詰められたロベルトは私と名実ともに夫婦になろうとしていた。
それによって私の財産を自分のものにしようと企んでいたのだ。
本当に、私の事を何だと思っているのだろう。
そこまで踏みつけにしてもいい相手だと思っていたのだろうか。
その計画を察知したのはラファエルだ。
そしてラファエルのアドバイスで、シュバルツ公爵家が所有するホテルへの避難を決めた。
私を金づる兼妻として、そしてライラを愛人として囲おうと思っていたなんて、ロベルトはクズの中のクズだろうと思う。
正直、平民になればもう顔を合わせる事もないと思うと、せいせいする。
そして今の発言でライラもロベルトと同じくらいクズである事が証明された。
「あら、貴族から平民になってもライラさんのように変わらない生活を送れる方もいるのだから大丈夫じゃないかしら? 力になってくださる親戚がいらっしゃるといいわね」
正直なところ、ライラに出会わなければ、ロベルトはここまでクズに成り下がってはいなかったのではないだろうかと思う。
ライラの自分の事は棚に上げて、周りを振り回す性格に感化されてしまったのでは。
隣の領地という事で、幼い頃に出会ったロベルトは小さな女の子にも優しくて、本当に王子様のように見えた。
だから私だったらロベルトを変えられるんじゃないかと思ってしまった。
それがどんなに傲慢な考えだったか、この二年で十分に思い知らされた。
だからもうこれで終わりにしましょう。
「そんな、ひどいわ。だって商会がなくなったら私たちはどう生活すればいいの」
「この屋敷と宝石やドレスを売れば一生食べるのには困らないはずよ」
爵位を売るというのは、所有している領地を売るという事だ。
そこからの収入は途絶えるから新たな収入源を確保しないといけなくなるだろうけれど、このタウンハウスを売ればかなりの高値になるはずだ。
維持していくのすら大変だろうし、思い切って売ってしまったほうがいい。
「それじゃあ平民みたいな暮らしをしろっていう事?」
「商才があれば贅沢できるわよ」
ロベルトにその商才があるかどうかは疑問だけれど。
「さあ、ここでサインなさるか、それとも裁判で決着をつけるか、はっきりしてくださいませ」
うなだれたロベルトが書類にサインするのを見届けて、私はラファエルと共にテイラー伯爵家を出た。
後ろでライラがヒステリーを起こしている金切り声が聞こえてきたが、私はもう二度と振り返らなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「いいのかい?」
ぼんやりと馬車の外を眺めているとラファエルが声をかけてきた。
ロベルトよりも端正な顔は貴婦人方に大人気だ。
しかもやり手の弁護士で独身とあって、令嬢たちには引っ張りだこだ。
「終わってすっきりしたわ」
「……好きだったのだろう?」
「なにをふざけた事を」
冗談でもそんな話はしたくないと、正面に座るラファエルを睨みつける。
「そんな目をしていた」
「気のせいよ」
初恋の王子様の面影は、二年の間に無残に砕けて壊れた。
平気な振りをしていても、心は軋みため息が増えた。
好きというほどの気持ちはなかったけれど、それでも思い出は美しいままでいて欲しかった。
私たちの結婚は最初からなかったことになり、元の生活に戻るだけだ。
だから別に悲しくなどない。
「君のがんばりは、俺が知っている」
ラファエルの美しい顔が歪んで見える。
遠ざかっていく風景が、取り戻せない過去の残像に重なる。
膝の上に重ねた手に、熱いしずくがぽとりと落ちた。
じわりとにじむしずくが不快で、白いレースの手袋を脱ぐ。
肌に触れた空気に、どこか開放感を感じた。
その手を、骨ばったラファエルの手が包む。
ああ、こんなに綺麗な顔をしていても、手は男の人の物なんだ。
ぼんやりとそんな事を思う。
初めて手袋を取った手に触れた人は、夫となった人ではなくラファエルだった。
ラファエルが私を見る目に熱が込められているのを知らない訳ではない。
でも今は、何もかもに疲れてしまった。
いつかこの手を握り返すことがあるのだろうかと思いながら、私は初恋と決別し、前を向くことを決意した。
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