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春と修羅、およびちんぽ - 2

 それにしても、と、わたしは何とか思考を再開する。


 ちんぽ──ちんぽ、か。

 そう言えば、何で先程から先生は頑なにちんぽのことをちんぽと呼ぶのだろう。

 何かこだわりのようなものがあるのか、あるいはゲーミングちんぽ華道部においては“ちんぽ”という呼称は重要視されていたりするのだろうか。

 ちんぽが重要視される部活動って何? 実在するの? いや、さっきからその前提で説明を受けてはいるけれども。

 ぼんやりとした頭でそう考えた後、先生の話を途中で遮るようにして、再びわたしは問いかけた。


「でも、本物のちんぽじゃなくって……あくまでも、ディルドなんですよね? その、七色に発光する機能を持っていて、生物みたいに動いたりする……」

「まあそうなんだけれど、むしろ本物よりもすごいって感じの……うーん。美柚さんは本物の、男性のちんぽを見たことはある?」

「み、見たことある訳ないじゃないですか!」


 ごくごく自然な感じでセクハラされた──けど、きっと先生からしてみれば全然そんな気はないんだろうな。

 瀬々先生は生物学の教師だし、ゲーミングちんぽ華道部の顧問という立場を除いたとしても、そもそもからしてそういうものに対する忌避感が薄いのかも知れない。

 ゲーミングちんぽ華道部の顧問って何だよ。いやゲーミングちんぽ華道部に所属する生徒の管理責任を持っている人という意味だとは思うけど。未だに状況が飲み込み切れていない。実在するのかどうかすらまだ怪しんでるんだぞこっちは。


「やっぱり。ゲーミングちんぽ華道、ってものに対して、美柚さんはちょっと卑猥な印象を抱いているよね?」

「そりゃそうですよ!? ちんぽですよ!!?? ……まあ、本物のちんぽじゃないにせよ──いや別にディルドであろうがなかろうがどっちにしろエッチなものっていうか……!」

 言葉にならない。より正確には、言語化こそ出来るもののそれを口に出したらさっきみたいにめちゃくちゃ長く話すことになってしまうという懸念があって口にすることが出来ないと表現するべきだろう──何はともあれ。

 何はともあれ、である。


 本物のちんぽであれディルドであれ張形であれその他のおもちゃか何かであれなんであれ、一般的にちんぽ、あるいはその象形を模した物品は、卑猥なものなのではないだろうか。

 あるいは、それはごくごく低俗なおちゃらけとして使用される物品であるかも知れない。駅前とかにありそうなごちゃごちゃとした店内のジョークグッズ売り場とかには、ちんぽをネタにしたりしているやつがごろごろと転がったりしているんじゃないかなと思うし。

 やはりちんぽ、そしてそれを扱うというゲーミングちんぽ華道というものについて、わたしはいまいちよくわからない。知識としていくら様々な情報を得ようとも、どうにも理解しがたい感じというか──


「まあ、よく知らない人にはそう思われちゃっても仕方ない辺りはあるかも知れないね。でも、せっかくの機会だから……美柚さんには今日、ちんぽについてちゃんと学んで帰って欲しいと思う。これは先生からのお願い。いいかな?」

 思考の渦に飲まれつつあったわたしに対し、先生はいつも通り可愛らしく、しかしいつもよりも真剣な雰囲気を感じさせる口調で、そう話しかけてきた。

 いいかな、って言われても。いやまあここで断るのもそれはそれで変かも知れないけれど──駄目だ、考え始めるとまた訳がわからなくなる。


 ここはひとまず、わたしが得た知識としての『ゲーミングちんぽ華道』というものに、事実との相違が無いかを確認するべきかも知れない。そう考えて、わたしは先生へと返答する。

「えっと、つまり……一旦、ここまでの情報についてわたしなりにまとめるので、確認して貰ってもいいですか?」

「いい心がけだね、部室に入る前に確認してみようか。美柚さんは、ゲーミングちんぽ華道、それにゲーミングちんぽ華道部ってどういうものだと思う?」


 軽く深呼吸をするようにして文字通りの意味で一呼吸置いた後、わたしはこういう形で総括をすることにした。

「ゲーミングちんぽ華道部というのはゲーミングちんぽ華道を行うための部活であり、ゲーミングちんぽ華道というのは、七色に光り輝くほか男性器に類似した機能を有するディルドを使用して行われる華道のようなもので……」

「いい感じ。続けてみて?」

「……ゲーミングちんぽ華道の世界においては、そのような七色に光り輝くディルドのことはちんぽと呼称する。ゲーミングちんぽ華道はパフォーマンスアートのような性質を持ち、新体操やボディビルディングに類似した競技性を含む芸術活動である──こんな感じで、問題なさそうですか?」


「すごいすごい。その何とかアートっていうのとボディビルの話については、美柚さんがゲーミングちんぽ華道に抱いた印象かな?」

 ぱちぱちぱち、と手を叩きながら、瀬々先生は嬉し気な口調で尋ねてくる。

「いやまあ、大体そんな感じのようなものなのかな、と何となく想像できたので……」

 別にその手の話に特別詳しい訳ではないけど、わたしには一時期本を読んだりネットサーフィンばっかりして過ごしていた時期があったりする──いや、自慢出来ることじゃない。うん。

「アートがなんとかっていうのは知らないけれど、私もゲーミングちんぽ華道とボディビルには結構近い所があると思ってるよ。大体そんな感じでオッケー、先生としては問題なく合格点!」

「はい、ありがとうございます……」


 こうやって、改めて纏めてみると。

 何? この競技。

 いや、まあ、ある程度しっかりとした体系があるっぽい代物だとは思えなくはないけども。


「ゲーミングちんぽ華道についての知識を正しく得られたということでー……それじゃあ、美柚さんをゲーミングちんぽ華道部の世界にご招待! ぱちぱちぱちぱちー!」

 そう可愛らしく口で言った先生はわたしが靴をまだ脱いでいないことに気づくと、はやくはやく、と小声で囃し立ててきた。

 そして彼女は、靴を脱いでいるわたしを尻目に見ながらからからから、と音を立てて部室の入口である引戸を開いて、先んじて部室へと入っていく。




 まあ、ここまで来ておいて逃げたりする訳にもいかないだろう。

 袖振り合うも多生の縁、ある意味では折角の機会とも言える。それに、先生からお願いもされた訳だし。


 字義通りに一呼吸おいてから、よし、と、わたしは小さく呟く。


 わたしの知らないちんぽの世界に、触れに行くとしよう。何事も、やっていかなくちゃ。

 実際に音としては発さずに、わたしは心の中でそう呟いて意を決すると、その広く開け放たれた扉の奥へと歩を進めた。

次回、『やまなし』編です。

概ね3000文字前後で話を小分けにしようとはしてはいるのですが、キリのいいところで話を切るようにしている関係上、各話の長さがまちまちになってしまっている様子です。

もしお気になさられている方がいらっしゃいましたら、申し訳ありません。



そんなことより、宮沢賢治先生の『春と修羅』の話をしましょう。

いや、前回は何かいろいろ書きすぎて作品に関する話を一切していなかったので……。


“修羅”という名を題名(タイトル)に冠していることからも分かる通り、『春と修羅』は仏教の観点に基づいた内容の詩集です。

ここでいう“仏教”というのは、より具体的に言うと大乗仏教(一切衆生の済度を目指す流派)のことであり、さらに突き詰めていくと仏教経典のひとつである法華経を指す言葉です(諸説あるとは思いますが)。

宮沢賢治氏は青年期に法華経と出逢って以来、件の経典の熱心な信者であったとされています。要するに、件の詩集にはそんな彼の人生観が強く反映されている、という訳ですね。


まあそんな感じなので、文学研究の観点から見た場合、法華経を副読本にしないと宮沢賢治氏の作品の読解は正しく行えない、みたいな話もあったりするみたいなんですけれども……実は私、法華経をちゃんと読んだことが無いんですよね。

なので件の詩集のことを語れるかって言うと実際のところ全然語れないというか。ごめんなさい賢治先生。


ただ、宮沢賢治氏は熱心な仏教徒であったが故に、どうやら『死んだ人間の魂は輪廻転生する』といった考えを持っていたらしい、ということは知っています。

(※ 浄土真宗では“往生即成仏”という教えがありますが、多分アレは仏教の中でも特殊な方のやつだと思われるので、ここでは言及しません)

つまり、一発勝負(ノーセーブ)ではあれど一回限り(ノーコンティニュー)では無く、次の生がある、という考え。無神論者のわたしとは分かり合え無さそうではありますがそれはさておいて、そのことを考慮して詩を読んでみると、あの小難しい感じの文面から受ける印象は少し異なってきます。特に、後半部分について。


詩の中で何度も言及されている、とし子、という人物。

この御方、宮沢賢治氏の妹であり、そして彼が20代中頃の頃に結核で死去した、宮沢トシさんのことなんですよ。


二歳違いの妹を若くして亡くし、輪廻を信じてはいるものの、しかしそれでも心は揺れ動く。

自身のよき理解者であった彼女と死に別れ、来世で再び逢えるかどうかはわからない。仏教を信じてはいるけれど、悟りを開いて天道に足を踏み入れることは到底出来そうもないくらいに、心は重く沈んでいる。

故に、“おれはひとりの修羅なのだ”──自分は、六道に於いて苦しみと怒りが絶えない世界であるとされる修羅道に棲む、阿修羅のような存在なのだ、と。

そういったものとして、己の心象(mental)描写(sketch)している詩。それがあの作品である、と、ある程度は理解を深められるようになる。


文芸作品というのは、やはりその人が歩んできた人生だとか、育ってきた環境とか、そういった要因に大きく影響される辺りがあります。

完全に個を殺して書かれた名作、というのも存在するとは思いますが、こと古典文学に関しては作者たち個々人の人生観のようなものが滲み出ているものが多いように思えます。まあ、個人の感想ではありますが。

なので、言うなれば古典文学(それら)を読む行為は、小説を通じて他人の人生を追体験する、といった感じのものとして捉えることも出来るかも知れません。これも個人の意見ですけど。

人生は一度きりのゲーム。なればこそ、他の人の先行体験記(プレイレポート)を読んだりしてみても面白いと思いますよ。


まあ輪廻転生を信じていた宮沢賢治先生にはド叱られそうな物言いではありますけどね!

けんじさん、すまなかった。ゆるしてください。

わたしの今回の後書きはこれでおしまいであります。



宮沢賢治 - 春と修羅

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html

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