春日狂想、ちんぽに関する - 1
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数日後、夕暮れ時の教室にて。
「……駄目だ。これ、本当にどうしよう……」
情けなく嘆息交じりに呟いてみても、残念ながら何も事態は好転しない。もちろんそう分かってはいるものの、わたしはそうせずにはいられなかった。
今朝のことを思い出すと共に未だ体に残っている疲労感に苛まれつつ、わたしは目の前の用紙──部活説明会を行う旨が書かれた紙判を、いつも通りTODOリスト代わりに使うべく、『吹奏楽部』という表記の上に赤い線を引いた。
転校するのが遅れなければ、この説明会に参加することも出来たのかも知れないけど……まあ、もしもの話をしても仕方のないことだ。
今まさに直面しているこの厳しい現実に対して、わたしは何とかやっていかなければならない。
新たな生活、新たな人生。もしもまた、ここで躓いたら──
「あれ、美柚さん。どうしたの? 何か悩んでいるように見えるけれど……」
「あ、先生……すみません、戸締りするなら帰ります!」
「大丈夫、通りかかっただけだよ。それで、何か心配事でもあるのかな?」
心配そうにわたしの様子を伺う彼女は、わたしのクラスの担任──瀬々・愛子先生だ。
30代中盤で、担当教科は生物学。亜麻色のふわふわした髪が特徴的で、その髪につけている髪留めがポップなデザインだったり彼女の所作全般が何となく可愛らしい感じなのもあり結構若く見えるので、見る人によっては彼女のことを20代の新任教師だと誤認するかも知れないけれど、彼女はこの学校で教職についてからある程度の年月を過ごしているらしい。以前彼女自身から聞いた話では、彼女には10歳の女の子と8歳の男の子という二人の子供がいるそうだ。噂によれば、彼女は歴史あるこの中高一貫の大学附属校、およびその大学に通っていたとのこと。
彼女のことを他の人に説明するなら、大体そんな感じといったところだろうか。
あと、すごく親切。転校してからわからないことだらけのわたしを、先生は懇切丁寧に手伝ってくれて──まあ、少し過保護ぎみではあったから、もしかすると今現在のわたしに未だ友達の類が一人も存在していないのは彼女のせいによる辺りがある程度あるかも知れない。
もちろん親身になってくれる彼女の存在はわたしにとってありがたくはあるし、友達がいない件については自分自身に少なからぬ責任があるとは分かってはいるので、わたしは彼女のことを迷惑に思ったりしたことはない。
今のところ、この学校に関連する人物の中でわたしと一番親しくしているのは、彼女こと瀬々先生ということになるだろうか。
「……美柚さん? 本当に大丈夫?」
思考の海に沈みつつあったわたしはそう先生から呼びかけられ、危ういところで遭難を逃れた。
「あ、えっと……はい、部活動について悩んでいて。確か、何かしらの部活には絶対に所属しないといけないんでしたよね?」
「うん、そうだよ。実際の所、何かの部活に所属するだけして幽霊部員になってる生徒も結構いるみたいだけど……まあ、決まりは決まりだから。美柚さんは、これまでにどんな部活を見学しに行ったの?」
わたしが通うクラスの担任教師であるという立場もある程度関係してはいるのだろうけれど、一般的には少し珍しいとも言えるであろう二年生での転校を行ったわたしのことを、彼女は何かと気にかけてくれているようだ。
だから、わたしがここ数日部活の見学をして回って過ごしていたことについても彼女は知っているに違いない。細かいところは省略しても大丈夫そうかな、と思いつつ、部活の名前を列挙してみることにする。
ちなみに、文武両道を校是に掲げるこの学校には、いわゆる文系の部活が存在しない。
文の方は勉学である程度補えるとして、武の方については自発的にやろうとしない限り不足しがちになるだろうし、何となく理解はできるけど……やっぱり、歴史ある学校は厳しいものなのだろうか。
まあ、それはともかくとして。
「最初にバレーボール部を見学して、その次にバスケ部、陸上競技部、水泳部……あと、今朝は吹奏楽部の朝練にお試しで参加しました」
「いろいろ見て回ってるみたいだね。見学したなかで、美柚さんがいいなと思ったものは何かある?」
わたしが座っているところの一つ前の席に座り、彼女はしっかりと話を聞く体勢を整える。
「今のところ、ないですね……あっ、もちろん部活が悪いって言いたいわけじゃないですよ! 例えば……」
入学後の日々を思い返して、失礼のないように気を付けつつ、私は言葉を紡ぐ。
「例えば、バレー部は……ちょっと恥ずかしいんですけど、バンッて大きな音が鳴るのにびっくりしちゃって。あと、バスケ部もそうなんですけど、団体でやるスポーツって苦手なんですよね」
「そっか。他の部活はどうだった?」
「陸上部とか水泳部は個人戦もあると思いますし、最初は良さそうだな、と思いはしたんですけど……この学校、結構陸上と水泳に力を入れていますよね? だから、頻繁に活動するとなると大変かなって。ユニフォームの洗濯とか、頻繁にしないといけないでしょうし」
わたしの家庭的な事情についても知っている瀬々先生が、なるほどね、と理解を示している様子でしきりに頷く姿を眺めつつ、わたしは今朝のことを思い返した。
「一応気になったので、吹奏楽部を見に行ってはみたんですけど……その、正直に言うと舐めてたんですよ、わたし。あんなに走らされるとは思いませんでした……」
「あはは、吹奏楽にも結構力入れてるからねえ。割と新設の部にしては大会とかにも出たりして頑張ってるみたいだから、美柚さんにはちょっと厳しいかもね。まごうことなき団体戦だしさ」
数年前に就任した校長先生が元吹奏楽部だったらしい、という噂話を瀬々先生から余談として聞きつつ、改めてわたしは部名が並ぶリストに視線を向けようとして──
「そうだ、テニス部はどうだった?」
顔をあげると、そこには少し期待しているような表情を浮かべる瀬々先生の可愛らしい御尊顔があった。そう言えば、瀬々先生はテニス部の副顧問でもあったっけ。
「えーっと、わたし、動体視力があんまり良い方ではなくて──というより、ちょっと意識がこうなりやすいというか」
わたしは自分の顔の両側、眼の横辺りに手のひらを立てて前に倣えをするようなジェスチャーをし、彼女に言わんとしている意図を伝えようとする。
「テニスボールが飛んできた時に怪我とかしちゃいそうなので、先生にとっては残念かも知れませんけど、避けておいた方がいいかな、と」
「お父さんも心配するだろうし、やめておいた方が良さそうか。うーん……どうしても、って言うなら、テニス部に所属するだけして貰って活動には参加しない、って感じにする手も無くはないとは思うけれど……」
学校運営に携わる教師である彼女としては、色々と思い悩む辺りも多そうだ。仮にそういう対応が可能であるにせよ、あまり健全な手段ではないのだろうし。
改めて紙面を見やり、わたしは物思いに耽る。
今説明会に参加する部活、発表順。
陸上競技部。
水泳部。
バレーボール部。
テニス部。
薙刀部。
バスケットボール部。
ゲーミングちんぽ華道部。
バドミントン部。
ソフトボール部。
弓道部。
吹奏楽部。
以上。
わたしは改めて、その異様な名前を眺めた。
ゲーミングちんぽ華道部。
なんだこれ。
何度見ても意味がわからない──というか、これは運動部なのか?
いや、厳密に言えば吹奏楽部も文化系に分類される部活のようには思うけど、あれは肺活量を鍛えるやら重い楽器を持つやら何やらで日々トレーニングに励んでいる様子だし。
こっちは華道だぞ? いや、華道である前にまずゲーミングって何だ。あとちんぽって何? 男性器の呼称以外の何でもないと思うけど、何?
数日前にこの文字列を見た時は見間違いだと思ったものの、あれから何日か経過して、その間わたしはこのリストを幾度となく読み返したけれど、何度読んでもこの紙にはその奇妙な文字列が印字されていた。
もしかすると、誰かのいたずらかも知れない──というか、多分そうなんだろう。
わたしは昇降口付近にあったフリーペーパーのようなものの配布場所に半ば放置されるようにして置かれていたこのレジュメを手に取った訳だけれど、部活説明会そのものには参加していない。だから、このゲーミングちんぽ華道部という謎の部活がこの学校に実在するのかどうかも知らないという状態にある。
いやあってたまるか。女子高だぞここ。
気づけば、いつの間にか先生はわたしの机の上にある用紙を覗き込むようにしていた。
「あっすごい、たくさん見学しに行ってるみたいだね。この学校にあるほとんどの部活が美柚さんに合わなかったみたいなのは残念だけれど……まあ、美柚さんの事情からすると仕方のない辺りもあると思うし、あまり落ち込まないようにね」
「はい、ありがとうございます……でも、さすがにそろそろ決めないとまずいですよね。どうしよう──」
どうしよう、訊いてみようか?
いや、絶対にこんなもんある訳ないと思うけど、何も知らない新入生をその目標にした悪質な冗談めいたものが昇降口という開かれた場所に存在していたとしたらそれはそれで先生に報告するべき内容だと思うし、それにちんぽがどうのこうのというのは女子校というこの場所を考慮するとあまりにも不自然すぎる文言だし、それならもしかして不審者が校内に侵入して性的な意図をもって悪戯をしたのかも知れないし、もしそうだったとしたらこの用紙を手に取ったいたいけな少女の様子を撮影するための盗撮用カメラとかが何処かに仕掛けられている可能性も──
「美柚さん?」
駄目だ、疑問の種として大きすぎる。一体何なんだゲーミングちんぽ華道部って。冗談にしたって意味不明すぎるぞ。
一応、念のため、会話のきっかけとして自然な切り出し方となるように心がけた上で、わたしは清水の舞台から飛び降りるかのような覚悟をもって、先生へと質問してみることにした。
「あ、あの、これって……本当に、あるんですか?」
「うん? これ、っていうのは?」
可愛らしく小首を傾げる先生に対し、わたしはおずおず、と、件のレジュメの問題の文面が印刷されている辺りの場所を指し示した。
「ほら、これ、そこの…………その、ゲーミング……ちんぽ、華道部っていう部活です……」
「あるよ?」
「……えっ?」
『春日狂騒』編は二部構成です。お楽しみに。
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『春日狂想』は、中原中也の詩篇集「在りし日の歌」に含まれる三篇の詩からなる作品群です。
“愛するものが死んだ時には、/自殺しなけあなりません。”という書き出しから始まるこの詩群は、自身と親しい関係にある相手が亡くなってしまった時の心のうつろいや、何とか空元気を出してでもやっていかなくちゃならない、といったような、人間の心の変化が豊かな文語表現により表現されている素晴らしい作品です。
なので、まず謝るべきだと思う。中原先生ごめんなさい。あと関係者各所も。
テムポ正しく握手をし、和解をしませう。よろしくおねがいします。怒られたら消します。
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在りし日の歌 亡き児文也の霊に捧ぐ - 中原中也
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