ため息と流し目
「俺、もしかして、エミリーに舐められてる?」
「え……?」
大和くんは、ふーっと長いため息を吐いた。
◆◆◆
近所に住んでる大和くんは、可愛い弟みたいな存在。
出会ったのは、私が十一歳、大和くんが九歳の春。お父さんの仕事の都合で初めて日本にやってきて、私はすごく緊張していた。
この国の人達は、黒い髪に黒い目で黄色い肌をしている。金の髪に青い目で白い肌の私は違う世界の人間だ。
「わたしは、エミリー・マクレガー、です」
慣れない日本語をがんばって話す。私の名前、聞き取りやすいように、発音できたかしら。日本に住み始めた当初、自己紹介で苦労したのは、日本語そのものよりも相手に伝わるように自分の名前を発音することだった。
どきどきしていると、目の前にいる眼鏡を掛けた可愛い男の子は、にこにこ笑って返事をしてくれた。
「エミリーって、素敵な名前だね!」
私が生まれた年に、イギリスで二番目に多くつけられた、女の子の名前。ありふれているから、素敵なんて言われたことはなかった。
「僕は、北村大和、です。や・ま・と」
「ヤマテュ……?」
「うん。日本の古い呼び名なんだって」
「ヨビナ……?」
「あ、名前のこと」
意味がわかりやすいし、発音もしやすくて助かるなあと思った。日本人のお名前は発音が難しいものが多くて、既に何度も失敗していたから。
「僕は、四月から、小学四年生です。エミリーは、何年生ですか?」
「わたしは、ろくねんせい、です」
「そっか、二つ年上なんだね。これからよろしくね!」
私は一人っ子だから、なんだか弟ができたみたいで、とても嬉しくなった。
◆◆◆
大和くんは実験と自然観察が大好き。たくさんの実験結果を見せてくれたし、私と一緒に実験や観察をすることもあって、とても楽しかった。
一緒に育てたツタンカーメンのえんどう豆は、大和くんのお姉さんに豆ごはんにしてもらった。薄い赤紫が綺麗なごはん、とってもおいしかったな。お母さんも絶賛して、レシピを教えてもらったお礼に、クリスマスプティングの作り方を教え返していたっけ。
大和くんが一人で行った実験の成果を、私にプレゼントしてくれることもあった。柊の葉で作った葉脈のしおり、ピンホールカメラで撮った写真、墨流しというマーブリングと似た技法で模様を写し取った綺麗な紙。どれも大切に宝箱にしまっている。
中でもとりわけ印象に残っているものは、硫酸銅の結晶だ。
今ではずいぶんよくなったけれど、私は喘息持ち。日本に来た年は、慣れていなかったのもあったのだろう。喘鳴のある中発作がなかなか治まらなくて、一週間ほど入院した。幸い夏休みに入ってすぐだったから、退院後もしばらく家でのんびり過ごすことになった。
その日は少し調子が悪くて、私は朝からベッドに横たわっていた。熱もあったのだろうと思う。頭がすごくぼんやりして、考えても仕方ないことがぐるぐる頭を廻っていた。
「こんにちは」
大和くんの声で思考が一旦停止する。お見舞いに来てくれたんだ。部屋に入ってきた時は強張った表情をしていたけれど、私と目が合うと優しく微笑んでくれて、なんだかほっとする。だから、大和くんが来るまで考えていたことを、思わず口にしてしまった。
「ヤマトくんは、こわくない?」
「何が?」
「わたしは、かみのいろも、めのいろもちがう」
病気の時はどうしても、不安に思っていることが頭をもたげる。結局、夏休みに入るまで、お友達はできなかった。
大和くんは一瞬悲しそうな表情を浮かべたけれど、すぐににっこり笑って言った。
「怖くないよ。エミリーの髪はナトリウムの炎色反応みたいだし、目は硫酸銅の結晶みたいだ!」
「リー・サンデュー……?」
「うん! エミリーは見たことない? すごく綺麗だよ!」
大和くんは一旦家に帰り、しばらくしてもう一度訪ねてきてくれた。走ってきたんだろう、息を切らせて、頬が赤くなってる。
「これ!」
差し出してくれたのは、プラスティックのケースに入った5センチくらいの半透明の青い結晶。鉱物のような華やかな輝きではない。だけど、擦り硝子のような落ち着いた質感はなんだか優しく感じられたし、鮮やかな青がとても美しい。
「きれい」
「エミリーにあげるよ」
「いいの?」
「いいよ。また作ればいいし」
「ヤマトくんがつくったの?」
「うん。今度はもっと透明になるように作る。上手くできたらそれもエミリーにあげるね。あと、これ、毒だから、舐めちゃ駄目だからね」
「どく!」
こんな綺麗なもの、舐めたりしたらもったいないよ。思わずくすりと笑ってしまった。
その後も大和くんは私が寝込むたびにお見舞いに来てくれた。ペットボトルと懐中電灯で作る虹、鏡の反射を利用した万華鏡、天井に星を映し出すプラネタリウム。大和くんはいつも、素敵な楽しみを提供してくれて、憂鬱な気分なんて吹き飛んでしまうの。
大和くんは約束を守る子だから、半年ほどして本当にもう一度硫酸銅の結晶をくれた。今度のものは透明度が高くて、形も整っていて、宝石みたい。
硫酸銅の結晶は作り始めの仕掛けがとても大変で、できあがるまでに数か月かかる。そのことを、私は知らなかった。大和くんはそんな努力の成果を、いつも何も言わずに、惜しげもなく差し出してくれる。
最初にもらった半透明の青い結晶は、大和くんが初めて綺麗に成功させたもので、とても大切にしていたとお姉さんに聞いた。後からもらったものと比べると少しいびつな形かもしれない。けれども、なんだか、懸命に試行錯誤しながら作った大和くんの姿と重なる気がして、とても愛おしく感じられた。
◆◆◆
日本語が上達するにしたがって、少しずつ人間関係を構築できるようになった。私から気負いなく話し掛けることができるようになったし、相手も怯えたり気持ち悪がっているのではなく、話しあぐねていただけだったことがわかって、とてもほっとした。
心配事がなくなって、余裕ができたからだろう。私は恋をした。
相手は大和くんのお兄さん。五つ年上で、背が高くがっしりした体躯、精悍な顔立ちなのに表情は優しくて、鷹揚な人柄がずいぶん大人に見えた。あまり接点がなかったから、ミステリアスなイメージが却って興味をそそったのかもしれない。
私の十六歳の誕生日、大和くんは北村家を代表してプレゼントを持ってきてくれた。
お兄さんからは、かえるが親友にお手紙を書いてかたつむりに届けてもらうという内容の絵本。お姉さんからは、ほんのりスパイスの利いたシフォンケーキ。大和くんからは、繊細なレースが美しいアンティークのリボン。
「綺麗……」
「エミリーの髪に似合うと思って。姉さんに相談して、一緒に選んでもらったんだ」
今までは誕生日にも実験の成果を贈られてきたから、珍しいと思った。思わず見入ってしまう。角度によって色が変わって見えて、とても素敵。
「エミリーは、兄さんのことが好きなの?」
「ええっ?」
唐突に切り出されたから、思わず大きい声で訊ね返してしまった。
「兄さんの話題が出た時や直接会った時、いつもすごくもじもじしてるし、顔も赤いから」
大和くんは観察が得意。私の気持ちなんかお見通しだった。なんだか恥ずかしい。
「僕はエミリーが大好きだよ。兄さんと上手くいかなかったとしても、エミリーには僕がいるから大丈夫だよ!」
大和くんは私を元気づけようと、笑顔でそう言ってくれる。大和くんは本当に優しい。もし振られても、私には慰めてくれる大和くんがいる。そう思うと、少し気が楽になった。とはいえ、告白する勇気なんか持てなかったけれど。
◆◆◆
瞬く間に数年が過ぎ、私は大学に入学した。新しい生活、新しい友達。授業に、サークル。
しばらくして、一つ年上のサークルの先輩に告白された。嬉しいとか、嫌だとかよりも、とにかくびっくりして。あんまり急だから、少し返事を待ってください、先輩にはそう伝えた。
大和くんのお兄さんに対する思いは、恋愛感情というよりも、憧れの気持ちが強かった気がする。
先輩は、次期部長は確実だと言われているくらい人望があって、穏やかで、背が高くてハンサムな人だ。今は恋愛感情を持っていないけれど、こういう人とお付き合いするのが現実的なのかもしれない。
どうすればいいのかわからない。誰かに相談したい。信頼できる相談相手。私の頭に思い浮かんだのは、一人だけだった。
この数年で大和くんはぐんと背が伸びて、お兄さんと同じくらいになった。声も低くなって、もう出会った頃の小さな男の子じゃない。でも、にこにこ笑っている顔は、ずっと変わらない。
「大和くんは、進路、どうするの?」
「うん。俺、医者になろうと思って。医学部を目指す特進クラスに入った」
科学者を目指しているのだと思っていたから、正直、意外だった。
「エミリー、なんかびっくりした顔してる」
「科学者になりたいんだとばかり思っていたから。大和くんはどうしてお医者さんになりたいの?」
「俺が実験好きなのは、答がどうなのか自分で確かめたいのと、結果を他の人にも楽しんだり喜んでもらえたら嬉しいからなんだけど。昨年、感染症が流行して、苦しんでいる人に手を差し延べられる技術を身につけられたらいいなと思った。今のところは臨床医を目指しているけど、細菌やウィルスの研究医もいいかもしれない」
そんな風に説明されると、これまでの大和くんのイメージときっちり重なった。
一般論としてもわかる。昨年、感染症が流行った時、結局はただの風邪だったけど、私も医療職の方々にたくさんお世話になって、とても感謝したもの。
「俺のクラス、課題がたくさん出るから、毎日めちゃくちゃ大変だよ」
大和くんは少し大げさに泣きまねをする。日本に来たばかりの頃、なかなか言葉が通じなかったから、私と話す時に大和くんはジェスチャーを入れてくれるようになった。今ではもちろん意思の疎通に何の問題もない。けれども、これはもう大和くんの習慣になってしまったようで、私と話す時は今でも身振り手振りが多いと思う。
「忙しい中、呼び出してごめんね」
「いいけど。珍しいなと思って。何かあった?」
大和くんは少し首を傾げるようにして私を見る。やわらかな笑みを浮かべているから、安心して相談できる。お医者さん、向いているかもしれない。
「サークルの先輩に告白されて……。自分の気持ちを少し考えてしまったの。お兄さんに対する気持ちは憧れだったかもしれない。私のことを好きだって言ってくれる人と付き合って、少しずつ恋に変わっていくのもいいかもしれない。そんな風に」
「エミリー」
私が話している最中に、大和くんがさえぎるなんて、初めてのこと。びっくりして大和くんを見ると、いつもの笑顔が消えている。
「大和くん?」
「この会話の趣旨は、何?」
なんだか平坦な口調。いつもの大和くんじゃない。予想外の雰囲気に、少し焦ってしまう。
「先輩と付き合うか、お断りするか、どちらがいいのかと思って……」
「どうしてそれを、俺に、相談するの?」
大和くんの目も声も、明確に冷たい。いつもよりもゆっくりな口調が、なんだか怖い。おろおろして何も言えない私に、大和くんは続ける。
「エミリーが、兄さんと上手くいっても、他の誰かと付き合うことになったとしても、本当に好きな相手を選ぶなら祝福しようと思ってたよ。でも、兄さんのことはただの憧れで、別に好きじゃない相手だけど告白されたから付き合おうか迷ってる? どうすればいい? エミリーを好きだって言ってる俺に、どうしてそんなことを訊ねられるの? 俺、もしかして、舐められてる?」
「え……?」
大和くんは、ふーっと長いため息を吐いた。
「エミリーの気持ちが変わるのを、俺がどれだけ待ってたと思ってるの」
「待ってた? それってどういう」
「エミリーにとって俺は、いつまでもその程度の存在なんだよな。もういいや」
私にいつもまっすぐ向けられてきた瞳が、すっとそらされ、大和くんはそのまま帰ってしまった。最後の動きが、そんなはずないのに、なんだか流し目に見えて。
大和くんの流し目は、鮮やかで鋭くて、気持ちが透けて見えない。その毒は少しずつ私をとらえていって、どうしても忘れることができない。
近所に住んでる大和くんは、可愛い弟みたいな存在。
そうだったはずなのに。大和くんのお兄さんのことも、サークルの先輩のことも、一気にどうでもよくなってしまって。どうして、私は今、こんなにどきどきしているんだろう。
大和くんに対する気持ちは、一瞬でがらりと変わってしまった。いくつか色が混じり合ったマーブル模様で、ぐるぐる廻る万華鏡。
この時の私はまだ、自分の気持ちの名前を知らない。