漆
――それから、日曜日と月曜日と火曜日と水曜日と木曜日と金曜日が過ぎた。
今日は土曜日、花火大会のある日だ。
私には関係のない日だ。
あれからも部活はほぼ毎日あるが、ハナとは会話しなくなった。
帰りの時間も、私が時間を潰してずらすようにした。
今日も独りの帰り道、茜空にうわ言を呟いたような、声になってなかったような。
――二人だけじゃ寂しいから他の子も誘って行こう。
最初にそう言えば、こんな気苦労しなくてよかったのだ。
怠惰で浅はか、そして思いやりを軽んじた自分を呪い続けた。
「友達って、こうやってなくなっちゃうんだなー……」
今度ははっきり呟いて、とぼとぼと茜色の駅前を歩く。
この一週間、帰り道をやけに長く感じる。
ハナとの軽口が丁度いい刺激になっていたことを思い知らされ、気分はまたも鬱屈とする。
バスロータリーを抜け、自転車置き場の横、ぽっかりと空いた駅の入り口を潜り、発券機を無視し、改札の読み取り機に定期券をかざす。
ピッと音がして、改札機通過の許可が下りる。
階段前のスペースには、電光掲示板の発着予告。
次の電車は川辺野行き、山深行き共に各駅停車だという。
エスカレーターに乗って、溜め息。
ゴウンゴウンとスライドしていくステップに身を任せ、茜色が少し暗くなってきた空を見上げる。
――件については、先輩の言う通りあまり気にしないことにした。
未だに毎日、あの不気味な急行はやってくる。
そして通過した後は向かいのホームの人間を一人残らず消してしまうのだ。
慣れたわけではないが、どういう妖怪かをわかっていれば、幾分か冷静になることができた。
件は不幸に見舞われる者の姿だけをホームに残す。
一人残らず消えているのであれば、それは誰にも不幸は訪れないということである。
きっと、最初の二日、立て続けに予兆があったことが稀であったのだ。
そうそう簡単に不幸は訪れない。
それさえわかればもはやただの急行電車と変わらない。恐れるに足らずである。
夕焼け空が開けてきて、私は茜のプラットホームに踏み出した。
川辺野のホームは花火大会に向かう浴衣姿の客に溢れており、いつにも増して暑苦しかった。
結局、私は花火大会には行かない。
家で一人、音だけ楽しめればいいや。
貴重な一夏の思い出を作る機会、逃すのは惜しいが、その原因は私にあるのだから不平不満は止めよう。
名残惜しむように、向かいのホームを眺めた。
――眺めてしまった。
そこには、ベンチに座るポニーテール。
横下ハナの姿があった。
「ヤバっ」
条件反射的に大柄な人影に紛れた。
客が多いことは幸いだった。
どうして。
いつも通り時間を潰してから来たのに。
立ち話でもしてたのか、土曜日で電車が来る本数が少ないからか、いずれにしろ、特に今日は見つかりたくなかった。
いつかと同じように、人影を伝ってホームを歩き、十分に距離を取る。
遠巻きに視線をやるが、ハナが私に気づいた様子はない。
「……また……ずっと隠れなきゃなのかな」
ホッと一息ついて、不安に駆られて、向かいのホームに視線を巡らせる。
夕日に燃えるホームには、中年女性と、サラリーマン風の男、お婆さん、父母息子。
お婆さんと三人家族が一週間前の光景とオーバーラップして、嫌な気持ちに拍車がかかった。
「……何なの、もう……もう!」
呟いて――心の奥で私はなんと、件を待ちわびた。
不機嫌なハナも、嫌なことを思い出させる乗客の姿も、また全て消し去ってほしかった。
自虐的に笑ってしまう。
そのつもりはなかったが、実は随分と妖怪慣れしてしまっていたようだ。
――タタンタタン。
私の考えに呼応するように、その妖怪はやってきた。
アナウンスもなく線路を走る音。
星空が透けて見え始めた夕焼けの方向から、燃えるような赤い車両。
――カタンタタン。
私の日常を脅かした非日常、私を日常から守ってくれる非日常。
それは速度を緩めることなく山深のホームに滑り込んだ。
――ガタンガタン。
向かいのホームを覆い隠すは、幻の急行電車。
幻故に風を押し出し熱風を浴びせかけることはない。
車両にまとった陽炎の揺らめきを残すだけ。
ただ予言を残していくだけの車両が、流れていく。
――タタンカタン。
車両がホームを駆け抜けて、残る陽炎の中。
「……え」
思考が止まった。
九田部駅の看板が、不気味に歪んだ気がした。
向かいのプラットホームからは――誰一人消えていなかった。
「……ん、と、あれ?」
思考が動かない。
だって、件が駆け抜けた後は、誰もホームには残らないはずだから。
だって、件が予言するのは凶兆だけしかないから。
だって、不幸に見舞われる人なんて、もう出てこないと思っていたから。
「……は、意味わかんない」
鼓動が加速していく。
陽炎の中。
中年女性が買い物袋を持ち替えた。
サラリーマンが腕時計を見た。
お婆さんが鞄の中身を漁った。
父母息子が、微笑みあった。
――横下ハナが、スマホをジャージに仕舞った。
だって、そういうことじゃないか。
件は凶兆を報せる妖怪じゃないか。
最初にホームに残されたお婆さんは事故に遭った。
次にホームに残された家族は、心中してしまった。
だって、じゃあ、そういうことじゃないか!
「この、全員に……?」
――不幸が訪れる。
そのように件は告げたのだ。
『まもなく、電車が参ります』
非情なアナウンス。オレンジ色の車両が見えた。山深方面。
「ちょ、え、待って、待って!」
身体が勝手に駆けだした。
迷惑そうに顔をしかめる浴衣の客たちを押しのけ、私はハナの対岸の位置まで駆ける。
「すみませ、すみません……!」
時に罵倒を受けつつ、ホームを戻って、最前列まで。
もうオレンジの各駅停車は向かいのホームに差し掛かっている。
ハナがベンチから立ち上がって、私に気づいた。
その顔は、不思議そうに首を傾げていた。
――ガッタン、ゴットン。
停車の為に速度を緩める車両が、ハナの姿を覆い隠してしまう前に。
「ハナ……ハナっ!」
私は喉が裂けるほどの大声で叫んでいた。
「乗っちゃダメぇ!」
オレンジ色の車両が、件と同じように向かいのホームを覆い隠して、件とは違って停車した。
「ハナってば!」
叫ぶ私の身体が、突如羽交い絞めにされた。
「こら危ないぞ君ぃ!」
駅員。
二人掛かりで私の腕を掴み、ホームの内側へと引きずっていく。
「ちょっと待って、待ってください違うんです! あの電車止めてください!」
「暴れるな落ち着きなさい」
「ちょっと薬とかやってないだろうね、とりあえず下で話聞くから!」
必死の叫びも虚しく、ズルズルと、向かいのホームが遠ざかる。
身を引いていた浴衣の客たちが、怪訝そうな顔でまた並びなおしていく。
人波の壁が再構築される直前、浴衣たちの隙間から、各駅停車の山河線が去った向かいのホームが垣間見えた。
藍色に明度を落としたホームには……今度こそ誰もいなかった。