陸
この日はいつもと違う帰り道。
いつもと違う人と、いつもと違ってスマホも出さずに、いつもしない真面目な打ち合わせをしながら……いつもと変わってしまった駅へと赴く。
改札を通過すると先輩は「じゃあまあ試してみますか」と山深方面、向かいのプラットホームへと上がって行った。
跳ねた後ろ髪を見送って、私はごくりと息を呑んだ後、いつものホームへと向かう。
先輩の作戦は単純明快だ。
私がホームから向かいのホームに立つ先輩を監視する。
もし急行が通過して、先輩の姿が消えていたら連絡をする。
そうすることで消えるという現象に迫りたかった。
夕焼けの赤みを増していく向かいのプラットホーム。
壁面の九田部駅の看板が、どこか不気味に存在感を放っていた。
比例して不安が増して行った。
もし消えてしまったら。
もし、消えてしまわなかったら。
わかっていて先輩をその舞台に立たせることが、非常に後ろめたかった。
――タタン。
来た。
アナウンスのない電車の音。
陽炎の中、茜より紅い車両が来る。
特段牛の顔をしていない普通の車両は、軽快に線路を叩いてやってきた。
私はスマホにさっき登録したばかりの先輩の番号を呼び出し、通話ボタンをタップした。
向かいのホームから挙動を見ていたのだろう先輩は、1コールも成立しないまま応答した。
「来たかい?」
もう急行はホームに滑り込んでいる。
「来ました、先輩見えないんですか?」
「ん、見えザザッ……」
ノイズがかって。
ツーツーと耳に通話終了が届いた。
「そんな!?」
顔を上げると、ちょうどこちらを見た先輩と目が合い――ガタンガタンガタンガタン――赤い車体の奔流が覆い隠した。
ツーツー、ガタンガタン。
恐怖も不安も、今はお預けだ。
きっと、この急行が去った後、そこに答えがある。
ツーツー、ガタンガタン。
流れていく赤。
窓の中を覗く動体視力は持ち合わせていない。
陽炎を纏った赤い車両の尻が、向かいのホームから抜けて行き――カタンタタン――ホームに残った者は、いなかった。
タタンタタン。
「え……と」
いなくなったら、どうするか。
駅に来る前に散々話し合ったのに、思い出せない。
思考ができない。
「先輩、先輩……!」
必死にスマホを耳に押し当てるが、待機の電子音が大きくなるばかりで先輩は出ない。
いきなり目の前で音信不通。
どこに行ったのか。
家族の心中があった後では、例えば……あの世とかを連想してもおかしくないだろう。
どったんばったん不安に駆られる頭が、ようやく来る途中の会話を思い出した。
――急行が通り過ぎて、もし私が居なくなっていたら、こっちのホームに来てみてよ。
私は駆け出した。
転げ落ちそうになりながら下り階段を一段飛ばしに降りる。
改札を抜けてきた人を避けながら、向かいのホームの上りエスカレーター。
一段飛ばしで上がる。
見上げるホームは茜色に光っている。
登り切って、コンクリートのホームをダンっと踏み締める。
肩で息するままに見渡した光景には……電車を待つ客が数名いる。
数名、ちゃんといる。
ブーッブーッとスマホが震えた。
「うん繋がる。やあ、大層な慌てっぷりだったね」
視線を上げると、ホームに佇んでこちらにスマホ画面を向ける先輩の姿があった。
私がスマホの赤いボタンをタップすると、彼女の画面も沈黙した。
「先輩、良かった……」
「私は、消えてたかい?」
その質問に、息を呑んだ。
消えていた、消えていたけど、先輩はここにいるわけだ。
「うん、はい、先輩も、他のホームの人も、全員消えてました」
私は正直に、嘘としか思えない言葉で答えた。
「赤い急行が来て?」
「そうですまたあれが通り過ぎて……先輩見てないんですか!?」
肩を竦める仕草で肯定して、私は愕然とした。
「そんな……だって、私、今この目で……」
「多分、この場の誰もそんなものは見てないと答えるだろうね」
「あ、れ、先輩……?」
「私も当然、見てない」
どこか含みを持たせた言葉であった。
「だって、ホントに……」
泣きそうになった。この後の先輩の反応が怖かった。
激怒? この嘘つきめ!
落胆? 妖怪だっていうから来たのに。
軽蔑? 君、頭おかしいんじゃない?
いずれも孤独を通達する宣言だ。
「これで決まりだね」
件なんかいなかった。そう言われたら終わりだ。
また私は一人で戦わなくてはならなくなる。
「先輩待ってくだ……」
「件はこのホームの人間を消していたわけじゃない。見えなくしていただけなんだ」
「え」
またも、彼女は意外な答えを持ってくる。
「ん? どした?」
「いや、あの、先輩、電車見てないんですよね? その、信じて、くれるんですか?」
「そりゃそうでしょ。このうろたえ方を見て嘘とは思わないよ」
言いながら見せてくれたのは、ホームでスマホを耳に当て、何やら叫んでいる私の姿。
「あ、え……これ私?」
その少女は周囲の冷ややかな視線に気づく様子もなく、しきりにこちらのホームと手元のスマホに視線を行き来させている。
「通話切れてから撮ってたんだ。演技だとしたら演劇部もびっくりの怪演だね」
耳まで熱くなった。
そりゃ信じてもらえる材料にはなろうが、自分の慌てふためく姿はどうしようもなく無様で、見るに耐えなかった。
録画された少女はその後、慌てふためき階段を降りていって、録画の再生は終わった。
「霊感なんて言葉があるくらいだからね。怪異が特定の人にしか見えない、なんてのはあり得ることだろ。それに、間接的ながら私も怪異の一端を体験できてるし」
「怪異の、一端?」
先輩は目の前でスマホを振る。
「通話が切れたことさ。君をずっと見てたけど、切るような様子はなかった。こりゃ不思議だ」
そんなところまで見ているのかと、別の意味で背がぞくりと冷え込んだ。
「何にせよ、件は実在してるらしいね。じゃあ次は対策に、と行きたいところだけど。度々繰り返しになるが私は姫巫女や退魔忍じゃない。ただクールでビューティーなだけの女子高生だ」
今は軽口に応じる時間も惜しい。
「う、じゃあ私はどうすれば」
「……まあただの女子高生であってもだ、第三者的な視点からの助言くらいはできるよ」
「本当ですか?」
「ああ本当だ。じゃあよく聞いていてくれ。君は件をこれから……」
母が子に言い聞かせるように、先輩の人差し指がすっと立てられ、私の顔に近づく。
「これから……?」
その指先を見つめて、私は言葉を待った。
画期的な、このオカルティックな毎日からの抜けだし方を、望んだ。
十分に溜めを作って、先輩の唇が動いた。
「気にしなくていいんじゃないかな」
それだけ。
「は?」
間抜けな声が出てしまった。
気にしなくていいわけがなくて、もう一度先輩の言い分の意味を考える。
「……えと……は?」
やっぱりわからない。
「そんな間抜けな声をあげることないだろう? よく考えてみればそんなにおかしなことは言ってないよ」
一見おかしなことを言っている自覚はあるらしい。
「だってあんなの気にするなって方が……!」
「君が件について恐れていたことは何だい?」
取り乱す私の声を遮って、ぴしゃりと端的な声が飛んだ。
「恐れていた、こと……」
「それは目の前で消された人たちの行方がわからなかったことと、毎回件が人を選んで不幸を下すかもってことだろ?」
「あ……」
「言い伝え上の件と、今の出来事を重ねれば、おのずと現代の件の仕様がわかってくる」
口元に指を立て、眼鏡で夕日を跳ね返しながら先輩は笑った。
「結論から言おう。件は気にさえしなければ害にならないと思うよ。
多分、奴は現代でも『伝える』という行為しかできない」
件は、凶兆を伝える妖怪。
「人を消すのは、一時的に君から見えなくしているだけだ。その証拠に消されたはずの私たちはここにいる。
そして消えなかった者に災いが降りかかるのも、件が自身で選んでるわけじゃない。
たまたまそういう運命にある人を教えているだけじゃないかな?
これも証拠として、今日は全員姿が見えなくなったわけだろ? 少なくとも毎回不幸になる人が選出されるわけじゃない」
「な、なる、ほど?」
「だから気にしなければいいのさ。
それこそ顔でも背けておけば、何の問題もない。件の予言を見ようと見まいと、このホームの人は消えたりしてないし、不運に見舞われる人は見舞われる。それ自体は普通のことだよ」
「なるほど」
私はしきりに納得しようとした。
その説明に納得することが、私の心を休ませる方法になりえるとおもったから。
「ま、それとは別に色々と方策は調べてみるからさ、今日のところはそれで納得しておきなよ」
軽々しい言い方であったが、先輩の話には一定の説得力があった。
それを飲み下すように、私は声に出して反芻した。
「……実際に人を消してるわけでもない、んですね」
誰でもなく、自分に言い聞かせる。
「人を不幸に陥れてるわけじゃない……ただただ、元から不幸が降りかかる運命の人を教えてるだけ……確かに、気にしなければ、見ないようにすれば、大丈夫かもしれません」
微笑んで、少しだけ気分が軽くなった――その時だった。
「メグじゃん。何してんの」
振り返ると、丁度ホームに上がってきたポニーテールの少女が目を丸めていた。
しまった。
部活終わりに遊びに出た彼女と鉢合わせる可能性を考えていなかった。
やがてハナの目は、無気力に視線を外し、不機嫌オーラを纏いだす。
「メグさ、今日、先帰るって言ってなかった?」
私には彼女の言葉尻に、はっきりと「また嘘ついたの?」と聞こえた。
そういえば、更衣室を後にする時にそんなことを言ったかも知れない。
今日は嘘つくまいと思っていてこれだ。
もしかして、私にはちょっとした虚言癖があるのかもしれない。
「いやその、その用事で、先輩に、相談に、乗ってもらってたの」
本当の言葉を探して、言い訳を呟く。
「相談って?」
だがそれはすぐに限界を迎える。
「それはその、色々」
先輩とは他言無用の約束をしている。
そうでなくともまさか妖怪が見えたのでその正体を調べてたなどと、普通の友人に言えるはずもなかった。
それが更に何かを隠していることになり、不審そうな視線は更に険しくなった。
「ふーん、週末の花火大会の相談とか?」
「なっ、違うって!」
「まあ何でもいいや。私その日、山深で花火することになったから」
「え、山深で?」
「事故に遭った婆さんが毎年川辺野の花火楽しみにしてたんだと。
今年は腰のせいで行けないから、町内でしょっぱい花火大会やるんだと。私も手伝いで駆り出される」
「あ、お婆さん……」
知れず、呟いていた。
最初にホームに立っていたあのお婆さん、その人が事故に遭っていたとしたら、ハナの口振り的に亡くなってはいなさそうだ。
ひとまずその事実に安心をした。
この先、また件が誰かの姿をプラットホームに残したとしても、それは死と直結しない。
少しぼーっとしていた私にはっきり聞こえるように、ハナの口調は刺々しくなった。
「超めんどいけど、まあ予定もないから? 仕方ないよね」
予定もないのところを強調したあたり、嘘はずっとしこりとして残ってしまっているようだ。
「だ、だから、あの……」
ごめん、と言いたくて、言えなくて、アナウンスが鳴る。
『まもなく、電車が参ります』
視線を泳がすと、ホームに滑り込んでくるオレンジ色の車両。
各駅だ。
『九田部~、九田部~』
押しのけられた熱風が頬を撫でた。
冷や汗に髪の毛が張り付いて不快だ。
停止した車両はガーっと口を開け、わずかにエアコンの冷気を吐き出す。
「何、山深方面いるのに、乗んないの?」
ハナは当たり前のように踏み出して、私と先輩の間を抜けると電車に乗り込み、振り返った。
訝しげな視線をまっすぐに向けられ、私はふるふると首を振った。
「あ、いや、私、ホーム間違えて……」
混乱してまたよくわからない嘘を吐いた。
それを聞いたハナは身じろぎもせずスマホを取り出し、俯いて操作を始めた。
そして、電車の扉が閉まる間際。
「……うざ」
視線もくれぬままそれだけ残して、オレンジ色の扉はしまった。
電車が重苦しい空気をかき混ぜながら動き出し、徐々に速度を上げていく。
取り残された私と先輩は、去っていく車両を見送って、しばらく無言で立ち尽くした。
車両が緩やかなカーブに消えていった後、ようやく先輩が声を発した。
「今のが例の気まずくなった友達かい? いやあれは結構根に持ってたね」
言葉を失った私は、視線を合わせることもできない。
「今や件よりこっちの悩みのが大変そうだね。私も川辺野方面なんだ。少しくらい話聞いてけるよ。一駅くらい」
「……ありがとうございます」
力なく礼を言って、私たちは山深方面のホームをすごすごと降りるのであった。