弐
日常とは、些細なことで歪むものだ。
ほんのちょっと、たった一言、たった一秒間違えると、大変なことになる。
「……ねえ、メグって来週の土曜、空いてる?」
今日も一緒の帰り道、交番前。
その崩壊に繋がる質問が投げかけられた。
「あー……多分?」
多分と答えたことすら少し迂闊だったと感じ、返答を後悔する。
即座に白々しく予定を思い出すフリをする。
「どうだったっけな……」
空いてることは空いてるものの、貴重な夏休みの一日だ。
できれば有意義に過ごしたい。
この点、ハナには去年痛い目を合わせられている。
もっと警戒すべきだった。
だから尋ね返す。
「どうして?」
結局、何のための質問か、それを見極めてから予定の空きを決めることにした。
別段悪いことではないだろう。
「……ほらそろそろ、そっちの、川辺野で花火大会があるっしょ? 今年も一緒に行かん?」
薬局の前、私の眉がピクリと跳ねた。
――川辺野では、毎年この時期に河川敷で花火大会を開催する。
地元テレビで紹介される程度には有名なイベントだ。
私も今まで毎年、誰かしらと一緒に出向いては出店を練り歩き、友人との合法的な夜間のたむろを楽しんでいた。
「あー……」
思い出されるのは去年の記憶。
去年も、同じ誘い方だったような気がする。
当時高校一年……親友という響きに憧れていた私はハナの誘いに快く応じた。
そこに綺麗な星空と綺麗な花火、綺麗な友情が用意されていることを信じて。
結果は、散々であった。
中学までの友人たちは、皆浴衣で着飾って、時に私をいじり、時に私にいじられ、クラスの誰それの愚痴を言い、先生のものまねを披露し、ノリのいい馬鹿話で私に退屈などさせなかった。
それがハナとの二人の時間はどうだ。
おどけるでもなく、愚痴をこぼすわけでもなく、ひたすら出店のこれが美味しいだの雰囲気が好きだのと、毎年来ている私にとって当たり前のことを呟いては、話題も続けずに沈黙する。
彼女がつまらない人間というのではない。
ただ、一対一のコミュニケーションには制限時間がある。
その時間は共通の趣味や思い出の数で決定される。
ハナとの制限時間は長くて20分、つまりこの下校時間くらいが丁度いいのだ。
それ以上は一緒にいても退屈な沈黙が続くだけである。
「どう? メグ確か土曜は……」
「来週はね」
強めの語気で言葉を遮った。
まさかこの女、去年、社交辞令で言った「楽しかった」を信じているのではあるまいな。
こちとらその日から、ハナを高校の親友候補から外してるというのに。
一緒に帰っているから一番仲がいい、そういうわけではないのだ。
「ユリたちと花火行く予定入れちゃってるんだわ」
これからそういうことにすればいいや。
ユリは教室で私と同じグループに属している友人だ。
交友関係が広く、クラスの中心的存在、面白い取り巻きも多い。
隣のクラスのハナは、顔こそわかるだろうが疎遠な関係だ。
だから、ちょっとした嘘を吐いた。
だからといって、適当を言い過ぎた。
「え、百合橋さんって夏休み中海外から帰ってこないんじゃなかった? 散々自慢されたってメグ言ってたじゃん」
しまった。
そういえばそんな愚痴を休みの始めに言ったかもしれない。
バスロータリー、珍しく2台も停まっている。
「……あー、そうだった、っけ?」
「や、私の勘違いなら、いいけど、さ」
やってしまった。
視線を、合わせられない。
「でも……」
これではまるで……
「……嫌だったら、そう言えばいいんじゃない?」
お前とは行きたくない、そう言ったも同然だ。
ハナは納得してない無表情で頬を掻くと、心なしか歩く速度を上げた。
私は今更焦り出して、無理矢理歩調を合わせた。
「や、嫌っていうか、まあ、私、その日、色々……」
言い訳が形にならず、言い訳がましい呟きだけが消え行って……改札を抜ける。
最悪のペースでお別れの時間が来てしまった。
ハナは釈明する猶予を与えてくれないまま、不機嫌そうに向かいのホームへと続く階段に向かっていった。
「じゃ」
「あ……ごめん……」
なよなよした謝罪は逆効果だったかもしれない。
無言で階段を上っていく後ろ姿から「何に対してのごめん?」と言われた気がした。
「……何よ、謝ってんじゃん」
謝れてないことは百も承知だ。
しかしここで私も不機嫌になっておかないと、自分が居たたまれなかった。
ああすれば良かった、こうすれば良かったと考えながら登り切った階段。
今日もスマホを取り出す気にはなれない。
チラリと向かいのホームに目をやれば、ベンチに腰掛け、俯いてスマホにご執心のハナの姿がある。
その一心不乱な様子は、頑なにこちらに視線を向けないことを決めているようだ。
「……私だって」
私だって色々大変なんだから。
何が大変かは知らない。
でもまあ、何かが大変なはずだから、そこら辺を慮ってもう少しデリケートに扱ってほしい。
そうすぐに不機嫌にならないでほしい。
自己弁護のリフレインは、視界の隅にハナを映している限り止まりそうになかった。
「はぁ……電車遅っ……」
苛立たし気に溜め息を吐いて、電光掲示板を睨み上げる。
「各停17:58」が来るまでまだ5分もあって、もう一度怒りの溜め息を吐いた。
この際向こう側のホームでいい。
とりあえず電車来い。
私の視界を遮って、向かいのホームを覆い隠して、不機嫌ハナを連れ去ってくれ。
程なく、カタンカタン――と音が近づいてきて、向かいの線路に急行電車が訪れる。
ーーガタンガタン。
無遠慮に横切る赤い車両は、私の望み通り向かいのホームを覆い隠してくれた。
ーーガタンガタンガタン。
そして車両が駆け抜けた後……向かいのホームは、乗り遅れたのか降り立ったのか、腰の曲がったお婆さんが佇むのみとなっていた。
カタンタタン――音が遠のいていく。
どこか清々しつつ、もやもやしつつ、違和感を覚えつつ、私はバッグからスマホを取り出した。
もう向かいのホームに不機嫌ハナはいない。
殊勝な振る舞いをする必要もなかろう。
彼女の怒りが収まった頃にSNSで謝っておけば大丈夫だろう。
早くも時間が心の傷を癒し始めた頃、私のホームにも電車がやってくる。
『まもなく、電車が参ります』
オレンジ色の車両が、夕日に影を落としてプシュウと停車した。
『九田部~、九田部~』
間延びした車掌の声と同時にガーっと自動扉が開く。
私はスマホを持ったまま、画面から視線を逸らし、形だけ足元を注意すると車内に乗り込んだ。
乗り込んで……違和感の正体に気づいた。
「……ん?」
踏み込んだ車両の中から、向かいのホームを見る。
そこには、夕日の陽炎に揺れるお婆さんが一人。
「……んん?」
乗り遅れたか、九田部駅に降り立ったか、そんなもんだと思っていた。
「あ、れ……?」
そんなもんなはずがない。
だって、九田部駅に、急行は止まらない。
私を乗せた山河線が、動き出した。
景色が滑り出して、ガタンゴトンと揺れる。
ずっと意識を向かいのホームに向けていたのだから、間違いない。
向かいのホームには、まだ急行電車しか訪れていない。
急行が走り抜けただけだ。
なのに、何故プラットホームからハナの姿が消えた?
ハナだけではない、あのお婆さんを残して、他の客の姿も消えていた。
走行中の車両に飛び乗った?
一斉に一階の改札に駆け下りた?
いずれも考えにくい。
私の頭は、ひたすらにハテナを浮かべながら、スマホのSNSを起動した。
そしてハナのアカウントを呼び出し、たった二言。
「さっきごめん。今どこ?」
既読がついて、返信はなかった。
それから私は、翌日部活で無事な姿のハナと出会うまで、悶々と過ごすことになったのだ。