壱
これはとある乾燥した夏のお話。
私が大切なものを失くして、取り戻すまでの夏の話だ。
◇◇◇◇◇
街は夕方、道脇の派出所の温度計によれば気温は36度。
純白のセーラー服、脇から二の腕にかけての汗染みが不快だ。
部活終わりに振りまいた清閑スプレーは既に効力を失っており、むしろべたつきとなって不快感を後押ししている。
スカートの中、内腿がかゆい。
多分蚊に刺されている。なんて破廉恥な蚊だ。
流石に往来の中、大股を開いて患部に爪でバッテンつけるわけにもいかないので、今は普段肩にかけているスクールバッグをお淑やかに脚前で持ちつつ、小指でスカートの上からさりげなく引っ掻くくらいしかできない。
「メグどした? 何かお嬢様じゃん?」
メグとは私こと、九田部高校二年、陸上部所属の鮫島メグを指す。
隣を歩くは私と同じくセーラー服に上半身を包み、私とは違い体育着のクォーターパンツを穿いて、ポニーテールを揺らす友人。
同じ高校、同じ二年、違うクラス、同じ陸上部、名を横下ハナという。
「内もも蚊に刺された。死ぬ」
「あー、死ぬねそれ」
同調する言葉とは裏腹に、視線は片手に持ったスマホに釘付けだ。
もう片手の指をしきりに画面に滑らせている。
人との会話中も、スマホから目を離さない。
別に腹は立たない。これはいつものことだから。
私も内腿さえ蚊にやられていなければ同じようにしている。
ハナと出会ったのは去年の入学直後、陸上部の自己紹介の時からの付き合いだ。
共に家は自転車通学の範囲内にはない。
よって帰り道は同じく駅の方角、徒歩10分くらい。
故に自然と一緒に帰ることが多くなった。
この夏休みの間も、我ら陸上部は連日グラウンドを貸し切りで練習に励んでいるため、ハナと一緒に帰ることになる。
そのため、おおよそ自己紹介やら抱える悩みやらの会話は済んでしまっており、特に話題がなければ肩を並べつつも意識はそれぞれのスマホに向け、時折中身のない軽口を交わしながら歩く。
そんな仲だ。
「もー……かゆい」
茜空を見上げて吐いた弱音。
「寄れば?」
と言って友人が顎でしゃくったのは、駅前の薬局。
全国チェーンのその店は、眩いネオンで店先のティッシュやトイレットペーパーと一緒に虫刺されケアグッズを照らしていた。
多分、駅前はおろかこの界隈で最も派手な店がこの薬局だ。
「寄らん」
家にかゆみ止めくらいある。
切り捨てて駅前の商店街を進む。
『九田部』駅前はこの地域では繁栄しているほうだが、それでも商店街及び駅ビルのテナントは、常に半分くらいが募集中で、バスターミナルは広いわりに数十分に一本しか発着しない。
九田部駅の入り口は、ターミナル奥、駐輪場の横にぽっかり口を開けている。
一階が券売機と改札。
時刻が並んだ電光掲示板の下、改札を通ると左右に階段。
「じゃ」
「うん、じゃね」
ハナは左の階段へ、私は右の階段へ。
私とハナが帰路を共にするのは改札までだ。
それぞれの階段の先の二階では、上りのプラットホームと下りのプラットホームが向かい合っている。
私の家はここから海抜を下げた『川辺野』にある。
ハナの家はここから山側の終点、『山深』という大田舎だ。
だから私たちは改札で別れた後も、向かい合ったホームで姿を見ることができる。
といっても線路越しに顔を見合わせるのも照れ臭いため、大抵いつもはそれぞれのSNS活動に意識を向け、意図的に視線を向けないようにしている。
今日もそうしようと、ホームに並んでスマホを出す。
春頃に親にねだった最新機種。
片手で持つには少し重くて、少し後悔している。
いつも通り両手持ちで操作すると、すかさず内腿のかゆみが主張してくる。
「あー、うざ」
歯噛みしながら動画視聴を諦め、イヤホンを繋ぎお気に入りの曲リストをランダム再生にしてカバンに押し戻した。
そして再びのお嬢様持ち。
苛立たしく小指でかゆみを慰めた。
耳に聞き飽きたドラマ主題歌を鳴らしながら、普段スマホ画面に落としている視線は、何となくホームに巡らせた。
ホームの壁には九田部の看板と時刻表、それとクリニックやら習い事やらの広告。
コンクリートの床には古ぼけたプラスチックのベンチ。ICカードも使えない自販機。
白線と点字線。
その上を送り迎えの母子やら男子高校生、くたびれた様子のサラリーマンがそれぞれの目指す車両の位置へと歩いていく。
彼らの頭上には「通過」と「各停17:45」を灯す電光掲示板。
「暑ぅ……」
ぼやいて、わざわざ隣に並んできたサラリーマンから若干の距離を取る。
サラリーマンはこの暑い中もきっちりスーツを着込んでおり、脱げばいいのに汗だくの頭から湯気を立ち上らせていた。
また、距離を取った先には両手に買い物袋を下げた恰幅のいいおばさんがおり、ブラ透けを微塵も気にしてない汗だくTシャツからこれまた熱気を放っている。
中途半端に混み合ってきたホームの人口密度が、夏の暑さを後押した。
ちなみに朝も夕も、比較的混むのは川辺野側のホームである。
川辺野はこの九田部より閑静な住宅街で、ラッシュ時間の通勤通学客が多い。
うってかわって向かいのホームは関山としたものだ。
五両編成の電車が滑り込むはずのホームにはたったの10人ほどしかいない。
ハナなんて独占したベンチから足を投げ出し、大あくびなんてしている。
彼女のように山奥になど住みたくもないが、事このホームにおける快適さだけは羨ましい。
『まもなく、電車が参ります』
アナウンスの音声は向かいのホームのものであった。
ハナが腰を上げる。
こういう時は人数の多いホームに先に電車を寄こしてほしい。不公平だ。
やがて向かいの線路がカタンカタンと鳴って『YR山河線』が到着し、関山としたホームの人々の姿を、そのオレンジ色の車両で覆い隠す。
『九田部~、九田部~』
間延びした車掌の声が駅名を告げ、乗り降りに数秒、プシュウと音をさせて再び車両が動き出す。
私の視界を妨げていたオレンジの車両が駅を抜けると、向かいのホームには誰一人として残されていなかった。
当然、ハナも電車に乗り込んだのだろう。
彼女がふてぶてしく座っていたベンチには何一つ残ってはいなかった。
「……ふーん?」
覆い隠して、連れ去る。
その後の無人になったプラットホーム。
今まで注視してこなかったお向かいの光景が、どことなく手品めいていると感じた。
なんて、折角詩的なことを考えていたのに、内腿のかゆみが再び私を現実に戻す。
『まもなく』
アナウンスが私たちのホームにも電車を呼び込む。
さっさと帰ってポリポリ掻きたい。
『電車が通過します』
それは、数本に一本訪れる急行を見送ってからになりそうだ。
各停のオレンジ色の車両と区別された赤い車両が、無遠慮に、スピードを落とすことなく私の前を横切っていく。
かき分けられた生温い風圧を顔に浴びせかける。
かねがね、私はこの急行電車というシステムを失礼な奴だと思っている。
ガタゴトと騒々しく人前を駆け抜けおって。
人の前を通るのにすみませんの一言もないのか。
というか、まずこの九田部駅を飛ばすことが気に食わない。
夕方のこのそこそこな混み具合を考慮しろ。
そして私を乗せて有象無象の駅を飛ばし最寄りに止まれ。
などと暑さのせいで腹を立てながら無粋な赤い車両を見送った。
それから十数秒後くらい。
急行の非礼を詫びるように、各駅停車の車両が申し訳なさそうに停まった。
「……暑ぅ」
私は本日何度目かの「暑ぅ」を唱えてオレンジの車両へと乗り込んだ。
これが、私たちの日常だ。