夢と日々
私は手に持つペンを置き、立ち上がった。窓に近づき外を見た。星の見える夜空の下で喧騒と絶え間なく行き交う人波の光景が眼下には広がっており、町を縦断する外套の光を中心としてそれは脈動する心臓のようでもあった。外から見ればレンガ造りの家々はただの無機物にしか過ぎないが我々に形を与える一つ一つの細胞のようなものであり、その連なり具合からある機能性と規則性にたどり着く、ここに住まう人間が本能からかそれとも神の見えざる手によるものかわからないが、自身の構造と機能以上のものを作り出し、それは個体の欠陥を補填していた。だが私にはこの国の王としてここで生まれ、時代の流れを生き延びてきた者としてすべてが空虚な現実でしかないとも思えていた。私は壁にかかった絵画に近づき手でなぞった。絵画には首飾りをかけた女が描かれている。
私がここに記すことは公人としての私ではなくこの世に生きた一人の人間としての記憶、記憶というよりも思い出と言ったほうが正しいだろう。
私がエウレカ人の王族としてマニ国の王となり二十年が経とうとしている。マニ人、それも巫女の血が強く流れている私は言わば死に体であり政治や軍事の上で都合のよい駒であった。そのため良く命を狙われ、王族ながら勝ち目のない戦地に赴くのが常であった。だが私は一度も死なずただの一度も傷をつくることはなかった。これを神の見えざる手という者がいるがあながち間違いでもない。
私は数々の戦で立てた武勲や泰平な世で行なった政策による名誉よりも大切でならないことが、私の機能と構成と私自身を支えることがある。もう今となってはこのことを知るのは一人と一匹だけである。
あの夢のような日々を……私は
私は振り返り、ペンと持った。首飾りをかけた女とそれに巻き付くように女と見つめあう目をもつ竜が彫られたペンを持った。私はそれを窓から射し込む光に照らした。ペンの腹では三つの深紅のルビーが輝いた。それは私の目に深紅の光を反射し私に流れる血を感じさせた。私は目を閉じ、ペンを胸に置き心臓の鼓動を感じた。
***
私は長い間、生まれた時の光景を知っていると信じて疑うことがなく、周りの大人たちにもそう言っていた。大人たちは私の言葉を子供の戯言のとしてあしらい、私が阿呆だと周りから思われないようにと私がこのことを喋ると決まって私を私の友人と一緒に会話の席から外した。私より四つ上の彼女は、
「貴方が大きくなったら分かること」
と言い私の発言の内容に関しては何も言わなかった。そんなことはわかっていた。彼女には生まれた時の記憶がないことなど当然のことだ。私もムキになっていた。私は片親で健在であった父からは疎まれて育った。私は何不自由なく育ったが自由があったわけでは無かった。そんなこともあり幼年の私の絶対に譲れないことといえばこれしかなかった。私の幼年期は生まれた時の光景とその言動に対する周りの苦虫を噛み潰したような顔が全てであった。
ありとあらゆるものが鮮明であった。そこには聞こえるはずのない音も見えるはずのない光も匂うことのない香りもあり私は母に包まれるよう抱きかかえられていたが、おぼろげにしか覚えていないものがあった。
母の顔が黒く霞んでいた。毎夜見る夢の中で私の意識がそのベールを剥ごうとするができなかった。私の母は笑顔であったのだろうか。私の母は私を産んですぐに死んでしまった。なぜか私は母が死んだ時のことを覚えていなかった。なぜ私の母が死んだのか。ただ振り返ると、幼ながらも分別のあった私は私がエウレカ人であり、母が生粋のマニ人の巫女であったために、それは誰の力も及ばぬ流れ、時勢の後押しした政治的策略として起きたことだと考えた。そして納得するとともに記憶の彼方に追いやったのだろう。それには母が私を生んだそれだけの事実しか無く、それ以上でもそれ以下でもないものであるが故の一種の自己防衛の逃避とも言えた。だとしたら私と母の記憶は濃いとも薄いとも言えない、一瞬の輝きとして脳裏に焼き付いた鋭い痛みと癒えない傷跡のようなものと言えそうであった。
私が生まれて二十年の歳月が経とうとしている。毎年のように私は、ただ時の流れに身をまかせるのではなく誕生した時の母の顔をつくろうとしていた。正確には描こうとしていた。私に自意識の成長が見られたころから私は人にあの日の光景を喋ることを止め、あの日の光景を描くことにした。決して喋ることで阿呆と思われたくないという自尊心みたいなものが出来上がったわけでなく、夢の中の母の顔を完成させたい、自分のためにただただ絵を完成させたかったのである。しかしその試みは失敗ばかりしている。自分のためといってもそれも疑い始めることもある。私は今年でこの儀式を止めようと考えている。決して傷が癒えた訳ではなく傷と痛みが一致しなくなったためであった。もし仮に完成したところで私は何かを得るのだろうかもうすでに失ったもの思い出と化したものではないのだろうかそう思えてならなかった。またもうそんなことを悠長にできるほど私の身は安らかではない。私は明日マニ国の王となる。
私の国では明日の生誕祭と結婚式と戴冠式のために辺りは喧噪としていた。私はエウレカ国の王位継承者として連合国であるマニ国の巫女と結婚する。部屋の窓の奥には普段では見られない色をしている町があった。老若男女問わず入り混じり祭りの準備に追われている。いつもなら暗く寝静まる時間であったが多くの松明が窓越しに煌めいている。
だが私はその喧噪と大きく離れた場所にいた。静まり切ったこの宮殿には沢山の従者がいるはずであったが今日は静寂を守り切っていた。私は窓越しに外の町を見ていた。この宮殿の廊下は固い石材でできており足を踏み出すごとに高い音がなり廊下の広さと相まって反響しこちらに向かってくる存在を意識させた。そして扉を叩くと鳴る聞きなれた音を聞いた。私は手に持つ鉛筆を置き立ち上がった。そして私は入るように促した。
部屋の扉がゆっくりと開いた。私の乳母である従者と私の婚約者だと思われる人が入ってきた。従者の一歩後ろを歩く女性はゆったりとした動きで、私に顔を向けた。従者は灯りもつけず大袈裟に芝居かかった口調で彼女のことを指す文言を発しその後に一つの首飾りを私の寝具の横にある棚に静かに置くと入った時と同じように厳かな動きで出ていった。私に近づいた時に乳母である従者の顔には涙がつたっていたことが分かった。木造の扉の閉まる音がした。
「お久しぶりですね」
あまりにも手際の良い従者の動きに圧倒されたのは否めないが、永久に続くかと思った沈黙のあとに私が辛うじて切り出した。私の目の前に立っている彼女は頭から胸にかけてフェイスベールをかけていたため顔が詳しく見えなかったが、そのフェイスベールは純白の薄い生地に金糸が編み込まれておりそれは外の喧噪が生み出す灯りを反射して彼女の紅い唇を浮き上がらせていた。続けて彼女は足先まで同じよう統一された国の伝統衣装によって魅惑的な曲線美を露わにしていた。私の父の国の伝統的な花嫁衣装の鈍重差に比べて、純白を活かし切った雲のような軽さにその中を飛び散る蓮の花を思わせる金と薄い桃色の刺繡が私をベールの奥へと誘ってきた。
彼女が私に一歩ずつゆっくりと近づいて来るうちに私は彼女の視線に気がついた、この部屋に入ってきた時から私を注視していたような目線であった。私はフェイスベールの奥にある彼女の金色の目が悪戯っぽく光り細まるのを見た。私は特別悪いことをしていないが悪戯を目撃された子供のように縮こまってしまった。
「フフッ」
彼女の唇がそれ自体一つの生き物のように動き、微笑み、そして手袋をした手によって隠された。その動きは指の一つ一つを私に認識させた。私は彼女のことはよく知っていた。というよりも私の幼年期からの友人であった。彼女はマニ国の巫女であり、私の婚約者であり、次期王女である。
マニ国は私の国であるエウレカ国と表向き連合している連合国である。だが実情は私の国を宗主国とした植民地であり、今回のような婚約も含め私の母も含めすべては融和政策の一環であった。私の母も巫女であった。マニ国では所謂王としての代理人に巫女達がおり国の一機関として機能した。そして彼女や母は平生女性を信者とするある信仰の教祖を務める。狂乱的な動物信仰があり、その動物は竜だと言われ巫女は竜王と契約を結ぶことで一つ願いが叶うということである。私にはあまり信じられることではなかった。
私の父方の国は唯物論の僕であり、信仰はなくそれを意識することは難しい対極に位置している。そんなこととは関係なく彼女に関しては偽りなく好意をもっていたが、ある一点に関して自分の内で煩悶していた。彼女は私の母に似ている。そう思ってしまうのだった。彼女のいたずらっぽい声が聞こえた。
「また今年も絵を描いてくださるの?」
彼女はずっと私を見つめるだけであったが打って変わってなついた雌猫のようにスラリと私の隣によってきた。いつもなら何も感じないが今日の場合嫌でも色んなことが意識にあがってしまう。私は彼女が寄りかかるように私の肩に両腕をかけ顔を近づける瞬間にこう言った。
「知っている癖に君は本当に意地が悪い」
彼女から香る耽美な香水に理性が揺さぶられたが平静を装い私は言った。彼女は私が私の母の絵を毎年描いていることを知っている数少ない人の一人である。そして私が毎年のように彼女の顔をはめ込むように絵にして完成させていることをなじっているのである。だがこのことを私に親しい人間が私の猛烈な彼女に対する愛情と受け取り事が運んだのかもしれない。
「私は扇動者のような貴方のほうが好きだったわ」
私の描きかけの絵が飾ってあるキャンバスの端を手でなぞった後、私の隣に回り込み私に聞こえるように私の首下で呟いた。私は彼女の言ったことがすぐには分からなかったが彼女のとの思い出を絵に描きながら振り返ると察しがついた。彼女は私が幼年期と規定し、世間では私が大ほら吹きか阿保かの二択であった時のことを言っていると。
「扇動か」
私は彼女は彼女を振り払い、聞こえないように呟いた。私は彼女にも言ってないことに幼年期から私が絵の完成を念願とすると時期への移行の決定打があった。
私の声が小さくなった頃、私の乳母である従者が私のことを思ってか自身の趣味である絵を描くことを勧めてきた。最初は王子である自分がやるものでないと撥ね付けていたが、ある年の誕生日に母を描いてしまった。描いてしまったのである。その日から、将来のための帝王学の合間を縫って私は絵に熱中した。
ある日、彼女が私の絵を父に私に内緒で見せたのである。すでにその時にはある一点を除き彼女に軽率な行動をさせる出来であったし父としては将来国を背負っていく者が女々しいことに熱中すること自体善くないと考えていながらも息子の行動に怪訝な目を向けては最近の様子に感心してか容認していた。だが彼女の持って来た絵を見た途端に激昂し、その後私に罰を与えた。理由は絵描きのようなものに現を抜かしたからであった。
だが私はそれでも絵を描き続けてた。そこにはある確信と父に対する反抗と私の念願があった。私の父は私の絵を見た途端にそれが母を描いた絵であることが分かったのではないか?そしてその絵に顔がないことに驚き、そして自分自身の反応に困惑したのだろう。だからこそ彼は怒ったのであった。私はそう思い至った。だからこそ私の描く絵は私にとって母であり母でない存在といえた。
ただこの活動のためにも最後のパーツの顔は必要で、ある日の光射す中庭で微笑む彼女をキャンバスに描いたのである。そこに性的指向た恋愛感情なるものがあったと言われればそうであり、私の頭が今後の情勢からはじき出した最適解と言われればそうであった。私は罰にあたる時間の帝王学で扇動とは何かを知った。
私は椅子に座り、彼女はベットで寝ていた。私の描き進める鉛筆の乾いた音と彼女の背中越しの呼吸音が部屋に満ちていた。
「ねぇ、貴方」
一つを残し完成したと思い首を起こすと芝居がかった声が彼女の背中越しからした。
「ねぇ、旦那様」
隣の花嫁は私の部屋に入る前からずっと芝居をしているのではないかと思われる節がある。
「今年も私を描いてくだいませ」
今年こそとは言いにくいがもう最後だと思い腰を上げて彼女の下に向かい、彼女を抱き寄せた。
「私はね、生まれた時のことを覚えているのだよ。ただ、ただ一つを、大切な一つを除いて私は覚えている、その場の風景も母の姿顔の輪郭、香る香水に至るまで。母の顔を思い出すために多くを犠牲にしてきた。たった一つの僕の願いなんだ」
私の腕は彼女の肩を抱き、輪郭に沿うように手をゆっくり上に滑らせ、最後に彼女の顔を隠すベルを優しく外した。薄い灯りに照らされて彼女の顔が見えた。彼女の妖艶さを際立たせる雌猫のような目には驚きが映されていた。後悔はしない。
「だから君を描けない。だけど今宵君を愛す」
言い切った。
「ふふっ、ふふっ、ははははは」
目の前の女が笑い出し腹を抱えている。確かに私は酷いことを彼女に言ったがこの反応は長い付き合いだけに予想外だった。彼女はこんな風に笑うのか。
「大丈夫かい君」
私には彼女が狂ってしまったと思った。
「いいよ」
彼女の唇が小さくた動いた。
「え……」
彼女の様子が予想外だけにその返事に固まった。
「私、貴方に貴方の母親を描いて欲しいの」
彼女は目元の涙を拭いながら言った。
「いいのかい」
私は有罪の判決を受けた罪人が天使に許されるように彼女を見上げた。
「ただ今回だけですよ。本当に可笑しい、愛しい方」
私の手を握り、すぐに襟を正し言った。
「ああ……ありがとう」
女は不思議であった。彼女が微笑んだ。私はこの微笑みを描いていた。
彼女は最初からこのつもりのようだった。
「私にお任せください、お助け致しますわ」
そう言いながら棚の上に置かれた首飾りを手に取り彼女は肩まで下ろした琥珀色の髪を両手で縛りかきあげ頸を露わにした。薄暗い空間に琥珀の川を創り出す彼女の髪は花弁であり私は花に惑わされる蜜蜂であった。彼女は物欲しそうな上目遣いで私を見つめてきた。最初は何のことか分からなかったが私は彼女の希望を察した。私は首飾りを手に取り彼女の首にかけた。
彼女がマニ国の巫女として私を助けてくれるという、なんでも世間で言われているのは竜王の夢といって巫女を媒介とする儀式であり集団で陶酔し自然に身をゆだねる。彼女はその中に隠されたマニ国の巫女に伝わる密儀を私とするらしい、私はただ強く願うばかりでよいと言う。そしてこの密儀に欠かせないのが棚に置かれていた竜の宝玉をあしらった首飾りである。私にはこの首飾りに覚えがあり、それを付けた彼女はまさしく母の面影でしかなかった。今更ながら今から私が行うことのことを考えると彼女に申し訳ない思いもあり、狂気的な振る舞いでもあった。
私は寝具に横になり目を閉じている。
「いくね」
そう言い彼女は私の傍により私を抱いた。彼女の存在を感じられる。時間が経つほどにその数や強さや大きさが段々と増している。腕に触れたと思えば次の瞬間には足の先に、どこかの部位からあちらの部位へ認識できないぐらいの速さと数で私を圧倒する。
刹那私は彼女を感じた。
「貴方は貴方の願うままに」
彼女は隣にずっといたのだった。彼女の目は宝玉のように赤々としておりスッと伸びた目尻の先に私は涙を認めた。
ありとあらゆるものが鮮明であった。そこには聞こえるはずのない音も見えるはずのない光も匂うことのない香りもあり私は彼女に包まれるように抱かれている。…………毎夜……夢に見てやまない光景が母のぬくもりとあまりにも儚い一瞬に、自分の安らぎを求め歩き出した。何もない奥深くに落ちている。深淵のその先には何があるのか気になっている自分がいることに気がついた。
私は歩いた。いくら時が経ったのかは分からなかったが目の前の大きな扉にぶつかった。私は最初それを扉と認識できなかったが祖父の建てた豪勢な宮殿に行くと必ず目に入る扉のことを思い出した。無機物的な重さをもって私を威圧する。ただ一つの点においてこの扉は違っている。その大きさは扉にしては大き過ぎる。平原に何十万もの兵士に陣を張らせた時よりも高さと幅があった。
私はこのような扉を必要とする生物に思い当たった。マニ国と縁の深い竜のものだろう。父たちがこの扉を見たらさぞ驚くだろうと思いながら扉に手をかけた。その重厚な見た目に反して私の思うように扉が動いた。そして私の入ることのできる隙間ができるとその扉は重さを失い完全に消えてしまった。まだ奥がある。私はさらに奥深くに歩を進めた。
目を凝らせば一筋の赤い光が見える。近づくにつれてそれは一つの球体であることを私に認識させた。そして球体の周りはとぐろを巻いた闇がある。さらに近づいてみるとそれが規則をもって音を立てていることが分かる。時間や距離といったありとあらゆるものが遅く重く歪められた空間で、私はこの世のものとは思われず強い不快感と骨の髄までに染みわたる恐怖を感じた。だが私は歩みを止めず奥に向かって進んでいった。もう手に触れる距離まで近づくと私の予想が当たったことをしった。それは片目を開けた竜であり、私をずっと注視している目線の奥である。禍々しい灼熱地獄がそこで渦巻いてあった。
「オィ、女」
竜の咆哮が私の頭を叩いた。まるで虎に威嚇された臆病な兎のように金縛りにあい、その場に釘付けとなった。そして私はあまりの迫力に眩暈がし私は目を瞑り静かに呼吸をした。
「我の目の前で狸寝入りとはいい度胸だ。そのままあの世に送ってやろうか」
お淑やかにセリフは吐かれたが、その後に続いた咆哮は本気であった。本当に威嚇する竜の姿は一周回って神々しく感じられた。それから私は目を開け竜と対峙した。
「そうか、そうか。で……何が願いか?」
竜は私の考えていることすべてがわかっているようだった。全て頭の中を探られても冷静に礼儀を保ちながら私は記憶にある自分の生まれた時のことを話しそして私の願いを言った。
「……それは難しいかもしれん」
私はこの言葉に大きく動揺した。
「落ち着け猿。猿よ、お前は大事なことを忘れておる。我は確かに一つの願いを叶えることのできる存在だがそれだけでしかない」
私はこの偉そうな竜の言っていることの理解ができなかった。竜は久々に来るであろう人間それも男の猿が慌てふためく様子を見てニヤニヤと笑いながら煙草らしきものを吸い出した。私は考えた。思えばそうだ私が生まれた時の記憶をもっていること自体おかしいのだと気付き、それが竜に伝わったのか深い息をついた後に頷いたように見えた。ならば私の願いは叶えられないのかと思えば竜はまんざらでもない様子で口角を上げた。私はゴクリと生唾を吞み込み竜の顔を横眼で見た。頭に響き渡る竜の声に私は希望を打ち砕かれた。
「まだ引き返すだけの余地はある。お前はいわば他人もしくは自分の夢のうえを歩きさらにその上で夢を見てみようとしているのだ。分かるか猿。夢は過去と未来の集合体の流れみたいなものでなぁ、流れる地面は川を形づくる現在でありやはり確固たる現在いうものがあとには必要になってくる。お前にはその保険というか、我がいえば触媒がないのだ。…………まぁ、覚悟の上でと言えば保証はせんが試してみる価値もある。……クククそんな顔で私を見るな忘れ形見は我が面倒を見てやる。どうだ……オス……男同士の契約だ」
私はこいつの願うようになっていることを自覚しながらも私の願いの強さを信じた。そして私の生誕の前後に私の状態の謎を解くカギがあることを考えた。竜はまたニヤリと口角を上げた。
「いくぞ」
竜は私を絞め殺さんばかりに長い首で囲み渦の終点で私の顔を覗き込み私を地獄の門に取り込まんとするようすであった。そしてお互いの眼玉が眼玉に重なり写りあった時、私は竜を感じた。
「貴殿は貴殿の願うままに」
さっきまでの私を猿としか考えていない見下したようすとは変わり、その声音は幾万年もの生涯が生んだ高尚そのものであった。
要領は彼女のときと同じで、違いを挙げるなら体を突き抜けるような力が私を粉砕するかと思うほどの苦痛に満ちたものであった。私はその全てを受け止め、感じ、その先にある深淵を目指した。
死者の叫びが聞こえた。闇が見え、明確に認識できた。遥か遠くの一つの恒星の死を全身で感じた。………光が見えた。私は竜と一体となり遥か彼方のそこを目指した。それは人間の感じられぬ程の時間を私に否応なしに感じさせた。一筋の光が見えた。私はそこに向かった。それに近づくと私は光に包まれた。
「オィ、 猿起きろ、なんだ死んだのか……」
私はその声で起き上がり答えた。
「死んでも死にきれないな」
もう、自分の中では幾ら時が経ったのか、竜と共に深淵を渡った。
「ハッ、言うようになったな」
竜は私の内から答えた。周りの状況がまだ分からず目を慣れさせる。だが目よりも先に鼻の奥に懐かしさを感じ目に涙を溜めた。
「……ここか」
目が徐々に慣れ周りを見ればやはり私の記憶にある光景と同じであった。私はここで産まれた。
「母に会えるのか?」
もう慣れ親しんだように声をかけた。
「相手には認識できまい、お前は猿だな」
相変わらずの調子であった。
「黙って」
しばらくしてから足音が聞こえてきた。廊下の反響から私の後ろからだと分かり、私は振り返った。言葉は出なかった。私の体をゆっくりとすり抜けていった。目の前は涙で満たされ顔がよく見えなかった。
「クックックッ、大丈夫か」
からかうような声音である。
「うるさい」
私はしゃくりあげながら流れる涙を拭き、振り返り、そして光の下で祈る母を見つめた。彼女の目は金色で煌めいており優しく、目尻は母性的に丸みを帯びていた。髪は天の川のような銀色で輝き肩まで流れている。鼻は私に似ており乳母が私の鼻の形を綺麗だと褒める理由がよく分かった。口は小さいが唇は熟した林檎のように赤く潤っていた。彼女の首元には首飾りがあり、太陽光が反射して光り輝いている。母がそこにいた。お腹はもう大きく祈るためのに光の指す中庭に来るのにも一苦労しているようだった。
「母は毎日ここで祈りを捧げていたんだって乳母がいっていたよ。神様がどうとかじゃなくてただ周りの幸せを願って、いまでは乳母がやっているよって噂をすれば」
『巫女様、あれほど言ってもお分かりにならないのですか』
乳母が慌てた様子でやってきた。私の横をまだ若く、闊達な乳母が通った。
『この子が外に行きたい行きたいってせがむんじゃ、ほらほら元気に遊びよるよ』
と母は陽気にこたえる。母が触るように促し乳母は恐る恐る母の大きくなったお腹に手を当てた。そうすればその手の上に母が優しく自分の手を置いて誘導した。
『本当に動いていますね。これはこれは、元気な子ですね』
母と乳母は冗談を言い合いながら笑っていた。私はその様子を遠くから見ていた。
「近くで見なくていいのか?」
「私は近くにいるし、なんか邪魔するみたいでね」
「嫉妬か、ここまで来て見苦しい」
「決して嫉妬ではない」
私は無性に元気ですと伝えたくなった。母の祈りは届いているよと伝えたくなった。
『うぅ、きたかも』
母が突然呻いた。そろそろだと思っていたが産気づいたのだろう。
『巫女様、ひっひっふーひっひっふーですよ。さんはい』
乳母が不安そうに体をさする。
『そこの貴女、ちょっと応援を呼んでください。お願いします』
丁度好くそこを通過しようとしていたマニ国の少女によって沢山の応援が産婆室から駆けつけてきた。丁度そこに一筋の光が入り込み産気づいた母体を照らしている。それはまさに絵画のようであった。だが私は母体よりもその上で光を反射して輝く首飾りにどうしても暗い影を想像してしまう。
「取り乱すな、まだ何も起きてはおらん」
私の不安を感じとり竜が言ってきた。
「だがお前もそう思うだろ、何かが起こる。何かが起こった」
私の鼓動が早鐘を打つそれは不安を煽るように加速していく、母の呻き声が徐々に大きくなる。
『巫女様、巫女様!産まれましたよ。元気な、男の子ですよね?えっ⁉』
私はそのほうを見れなかった。項垂れ今にも膝から崩れ落ちそうだった。乳母の掲げた産声のあげぬ赤ん坊は母の手に渡ることなく産婆の手に渡り努力むなしく赤ん坊は死んだ。さっきまでの神々しさ漂う絵画の世界が打って変わって地獄絵図となり中庭は騒然とした。その中心に位置する女は半狂乱になり赤ん坊の名前を泣き叫び、それもそのうち声と涙が枯れ尽きてしまった。無情にも最後弔いの意味をこめて母の手に赤ん坊が渡った。母は私である赤ん坊に手を伸ばし抱きかかえた。私は母の方にかけていった。私は酷い頭痛がしたがそれでも足を止めず母に近づき母の傍にまで寄ると私の意識は母の腕に持ち上げられていた。母はぐしゃぐしゃな顔で私に何度も接吻をしてその後に光の指す胸に煌めく首飾りと母が体で包み込むように優しく私の体を抱きかかえた。そして母は息を吸った。次の瞬間母の目と私の目そして首飾りの宝玉の深淵と目が合ったのである。母の目には涙と苦痛そしてその先にある確固たる決意を私は感じた。
私の願いは終わった。そして私は母の首飾りによって生き返ったことを知った。薄々気がついていたことではあるが、そのことで母の産後の体に負担をかけて死に追いやったとも言える。それは密儀である竜の夢を儀式なく、それも死んだ赤子に対して行ったことも大きいだろう。そして何より赤子の私自身も生まれ、生き返り、その時には母の意識も混濁した状態であの光景の記憶をしようとした。その光景に生きようと願った。母の顔が見えなかったのも母の苦痛を考えれば分かることだ。精一杯私が祝福されて産まれてきたということを私に伝えたかったのだろう。そしてそれが嘘でも真実でももう私には関係ないことだ。関係ないことだと思いたい。ただただ母の願いを叶えてやりたかった。
「ありがとう……本当に感謝しているよ」
私は竜の前で胡坐をかいた。私は私の体が空っぽに感じた。
「こちらこそありがとう。本当に感謝されているのを感じる」
竜の目には何もかも見えていたのだろう。それでも私がこうなっていったことに敬うような目つきと声音、少しだけの嘲りがある。私はこれからどうなってしまうのか彼女はうまくやっていけるだろうか不安が募り、でももうどうしようもないことだと思った。
「オイ、猿よ。まだ諦めるには早い、早すぎる。お前にはまだ叶えるべき願いがあるだろう」
この期に及んで私をからかうのかと思いこのままコイツと一生暮らすことになるのかと考えていると
「猿、今回の旅は本当に楽しかった。でもこんな結末があるのかと疑いたくなる」
「好きなだけ笑うといい」
「なら好きなだけ笑わせてもらおうか。クックックックッ」
「はー、もう一つや二つ叶えてくれよ」
竜はニヤリと笑った。
「はじめに言っただろう我は一つの願いしか叶えられない存在だと、そしてこうも言ったお前の忘れ形見の面倒は看ると、オス……男同士の約束だと。クックックッ」
私の足元が軽くなり空に浮かんでいく。
「オイ、どういうことだ」
私の体は上に上に、浮かんでいく。
「彼女の願いを叶えてあげんか。人の子よ」
竜の視線の先には見覚えのある懐かしい感覚と一筋の光があった。その先に向かう、光が広がる、そして私は彼女の手を握った。
「ねぇ、お久しぶり」
あまりにも長く続いた旅だった。彼女はうつむいていて表情が分からない。私が呆然としていると、
「フフッ」
と笑い彼女は顔を上げた。そこには僕を見つめてくれた優しい目があった。
「私を描いてくださる?」
彼女の紅い唇が微笑んだ。答えは決まっていた。
私は絵を描いた。その顔は美しく、優しく、そして笑顔であった。




