第19話 バクの危篤
授業中も部活の間も、アイリは一言もバクに口を利かなかった。
一旦上がった雨は下校時にまた降り始め、アイリの心の雨もやみそうにない。アイリはわざと遠回りをした。住宅販売会社の前を通りたくなかったからだ。部活中は忘れていた朝の出来事が、また心に蘇る。
小さなオフィスビルやマンションが立ち並ぶ狭い道を、傘を深くさしてアイリは足早に歩いた。傘に描かれたネコちゃんを見上げる気にもなれない。唇を噛み締め、足元の水溜りに跳ね返る雨粒を睨みながらアイリはツバメの子を思った。
その道路脇のマンションでは外壁修理工事の最中だった。庭も何もない敷地一杯に立った四角いマンションを足場が囲い、その周囲には遮音カバーが張り巡らされている。降りしきる雨の中で作業員たちは外壁補修に追われていた。
アイリが差しかかった時、丁度屋上に設置されたクレーンが、道路に停められたトラックから交換用の窓枠を吊り下げ、6階の足場に降ろそうとしていた。トラックの手前には交通誘導員がいる。
「ちょっと待ってくださいねー」
時間も押している。トラックも早く立ち退かせないといけない。初老の交通誘導員は通行人と頭上を見較べながら赤旗を振り回した。
しかし足元を見て速足で歩くアイリの耳に、その声は届いていなかった。傘で前や頭上は見えていない。
「あー、ちょっと、止まってー、そこの子!」
6階の足場では、クレーンで降りて来る窓枠を無事に受け取ることに集中している。雨で濡れた足場。作業員が吊り下げていたロープを外し、『はーい、オッケー』と叫ぼうとしたその時、足が滑って窓枠を蹴飛ばした。
「あっ!」
窓枠は足場に倒れ、そして一部の鋼材が外れて足場から落下した。作業員は咄嗟に『あぶなーい!!』と大声で叫んだ。
アイリにもその声は届いた。が、何の事か判らない。誘導員も声に驚き頭上を見上げた。鋼材はスローモーションのようにアイリの上に降って来る。足場の作業員と誘導員の背筋が凍り付いたその瞬間、その女子高生が持っていたシューズバックが猛スピードで跳ね上がり、傘を弾き飛ばして鋼材を迎え撃った。まるで迎撃ミサイルのように。
うわっ!!
アイリは衝撃で道路の端っこに飛ばされ尻もちをついた。シューズバックはトラックの脇に転がり、跳ね飛ばされた鋼材はトラックに当たって荷台に転がり落ちた。全ては一瞬の出来事だった。
アイリは何が何だか判らなかった。誘導員が駈け寄って来る。
「だ、大丈夫か?!」
「は、はい、すみません、え?なに?」
「ごめんごめん、上から落ちてきたんだ、フレームみたいなのが。でもそのカバンに当たってあんたには直接ぶつからなかったよな、良かったー、ホントに良かった。いや、でもごめん、ケガないか?」
誘導員が手を差し伸べて、アイリを助け起こす。すぐに工事監督らしき作業員も飛び出てきた。
「大丈夫でしたか?すみません、咄嗟にカバンで避けてもらって、いや、びっくりした」
誘導員は息子くらいの年齢の工事監督に向かって怒鳴った。
「びっくりじゃねえよ。おまえがしっかり監督せんからだろうが! ヒヤリハットどころじゃないだろ! 事故じゃねえか! この子がうまくカバン投げてくれて助かったんだぜ」
アイリにはようやく事情が呑み込めてきた。マンションの工事現場から何かが落ちて来て、それにシューズバックが当たってアイリは難を逃れたらしい。
シューズバック? え? バク?
「バク!!!」
アイリは転がっているシューズバックに飛びついた。
「バク! 大丈夫?」
アイリは雨の中で慌ててファスナーを開ける。後から工事監督がアイリの傘をそっと差し掛ける。
「バック、傷ついちゃいましたか? それは責任もって弁償させて頂きます。あと、ケガなければ…」
「バク! バク!」
シューズバックの中でバクは目を閉じていた。
誘導員も覗き込む。
「中のもの大丈夫でしたかねえ。そっちも弁償だよ。あれ?空っぽ?」
アイリはシューズバックを胸に抱き寄せ、口早に叫んだ。
「あの、あたしは大丈夫なので帰ります。大丈夫です。すみません」
工事監督がそっと傘をアイリに渡す。
「何かあったら明日でも来てください。あの、私、ここの工事監督やってる、原って言いますから…」
「はいっ、すみません」
アイリは最後まで聞かずに駈け出した。
バク! 家に帰らないと、ここでは何もできない…。バク、もしかして、あたしを助けてくれた? あたしの手を振りほどいて、凄い勢いでシューズバックが飛んで行ったのは覚えている。あたしの代わりに落ちてきたものにぶつかってくれた…。
帰宅するなりアイリは二階に駈け上がった。部屋のドアをピシャッと閉めると、少し震えが来た手でシューズバックのファスナーを全開する。バクは相変わらず目を閉じたままだ。バク…。
アイリはそーっとバクに触れてみた。ん?ちょっと冷んやりしているけど、これで正常なのかな。そっと鼻の上を撫でてみる。
微かに鼻が動いた。大丈夫だ、取り敢えずは生きている。良かった…。
アイリはバスタオルを取りに行き、そっとその上にバクを寝かせた。そして、良く解らないながら、冷却シートを半分に切って、バクのおでこに載せ、身体にスポーツタオルを掛けた。これでちょっと様子を見よう。エネルギー出して疲れて眠っているのかも知れない。アイリはバクのおでこにそっとキスをした。バク、ごめん。ありがと。早く良くなりますように…。
「あいりー、帰ったの?」
階下から母の声が聞こえた。
「はあーい、帰ってるー」
「あんた、靴、ちゃんと揃えなさいって言ってるでしょ!」
「ごめーん、すぐ行くー」
+++
しかしその頃、チネリ星全軍法務執行監視センターでは騒ぎになっていた。
「25番受刑者、緊急アラート受信、コンタクトミッシング!」
「バックアップコントロール回路オープンせよ」
軍服のオペレータが次々にコンソールを叩く。
「報告!生体プログラムアボート!」
「再起動せよ」
「ラジャ、再起動失敗!モジュール破壊の可能性あります!」
監視センターの先任士官であるカコントウ大尉は考え込んだ。現地での状況や可視具合が皆目判らん。機密を守るためには本体ごと破壊するしかないか…。
が、それは俺だけの判断ではできん。カコントウは監視センター長呼び出しアイコンに触れた。
「はい、法務執行監視センター ガスター大佐だ」
「センター当直、カコントウ大尉であります。25番受刑者の生体プログラムがアボート、再起動できません。モジュールが破壊されている可能性があります。機密保持オペレーションBの実行を進言します」
「ふうむ。ま、焦るなカコントウ。形態的にはしばらくは誤魔化せる筈だ。解剖でもされん限りはな。爆破は最後の手段だし、確実に可視される。モジュールは防衛的にメモリーリークを起こして見えなくなってる可能性もある。縮退解除指令とROMからの強制立ち上げスクリプトのワンショット送信準備をしておけ」
「はっ」
「やたらこちらから動的アクションや通信制御はやるもんじゃないからな、一応他に縮退解除方法がないか、マインドプロセッサーへの刺激も聞いてみるわ」
「はっ。ご指示を待ちます」
ガスターはセッションを切って溜息をついた。
「ふーっ。25番か。目こぼしできる奴だわな。大体、オーディットのノーシンが厳格過ぎるんだよ」
ガスターはボヤきながら同期生の宇宙空軍戦闘機隊長パブロン大佐への通話セッションを開いた。
「パブロン、ガスターだ。その後はどうかね」
「何がどうかねだよ。ったく安全なところで居眠り漕いでる奴には前線の苦労が判らんだろうよ。ヘルペス星の奴ら、益々ずる賢く成長してるぜ」
「ほう。こっちの装備を完コピするそうだな」
「やってらんねえよ。俺が俺を撃つ日も近いぜ」
「はは、世の中平和になって良いと思うがの」
「うるせーな、何の用だよ、監視センター長殿」
「ほれ、テイパーいるだろ、お前んところのγ隊の」
「ああ、聞くも哀れな話だな。そもそもノーシンの奴がよ」
「あーそれは判ってる。俺も同意だ。けど執行されちまってるからな。今言っても仕方ない。っていうかミッシングなんだよ、奴」
「えー? 誘拐でもされたのか。テラだっけ?執行地」
「いや、縮退されてるだけだと思うんだ。そんな物騒な場所じゃない筈だ、テラは」
「ふうん」
「それで、こっちから長々と通信制御なんてやりたくないからよ、マインドから縮退解除したいんだけど、あいつの好物とか喜ぶものってなんだ?」
「へーえ、随分お優しいこと言うんだな」
「当たり前だろ。俺は優しいから安全な屋根の下に匿われてるんだよ。おまえと違ってな」
「はいはい、今は聞き逃してやるよ。あのな、テイパーが好きなのはな、ズバリ、ライムだ」
「おっと、食い物か。まあいいや、クリームとエンジの丸い奴だな」
「そうそう。故郷の特産物らしい」
「解った。これでやってみるよ」
「うん、ガスター大佐殿、可愛い部下の事なんだからよ、よろしくお願いしまっせ」
「任せとけ」
ガスターは、パブロンとの通話セッションを切った。
ふむ、ライムか…。そして再び監視センターをコールする。
「はい、カコントウ大尉であります」
「ガスターだ。25番にはライムを口に含ませる生体ショック療法を試せ」
「は? 25番には消化器官はない筈ですが」
「味覚はあるだろ。吐き出させればいいんだよ」
「吐き出させる…でありますか」
「うむ、毒物摂取回避ルーチンが働く筈だ、何か口に入ったらな」
「あ、なるほど。しかし、ライムをどうやって送るんでありますか?」
「ばかもん、送れるはずないだろ。現地調達だ。いいかカコントウ、コネクターを使え。25番との間にマインドパスがあるだろ。これを使ってコネクターの夢の中にライムのイメージを送るんだ。それならワンショットで送れるから、テラに傍受される危険性も小さいし、傍受されても何の事か解らんだろ」
「はーあ、大佐殿ワル賢いですねー。解りました。25番経由でコネクターにライムのイメージ、送信します」
「ワルは余計だよ。じゃ頼んだぞ、パブロンの秘蔵っ子なんだからな」
+++
アイリはバクの傍らでうたた寝していた。お腹空いてないと夕食を断わり、チラチラ様子を見ながらスマホをいじっていたら、いつの間にか眠っていたのだ。アイリは夢を見ていた。
#Cue
「あれー?バク、何食べてんの?」
「さあ、名前は知らん」
「あー、この匂い、たこ焼きじゃん!」
「たこ焼きって言うのか。旨いんだよなあ、これ」
「もう大丈夫だねえ、食べられるってことは」
「おう、粉モンはファイトいっぱーつ!だぜ」
#Cut
アイリはガバッと跳ね起きた。もう夜中だ。バクはまだ目を閉じて横たわっている。
なんだ、夢か…。
それにしてもリアルな夢だった。バクがたこ焼き好きだなんて、思いもしなかった。 え? これってもしや天の啓示? バク、ファイトいっぱーつ!とか言ってたし。そっか、試してみる価値はある。駄目でもあたしが食べればいいんだし。
アイリは部屋を出るとキッチンへ向かった。確か、冷凍たこ焼きがあった筈だ。アイリは冷蔵庫を開ける。
おお、これこれ、関西人のお父さんが大好きで常備している冷凍たこ焼き。ちょっと貰っちゃうね。アイリは袋からたこ焼きを出すと、電子レンジに入れた。
ぶ~~ん…ぴーっ。
うんうん、うわ、ちょっと熱過ぎたかな。ま、いいや。匂いでばれちゃうな。お父さんごめん、また買っとくからね。アイリはたこ焼きの皿を部屋に持ち込んだ。バクは相変わらず眠っている。バク~、大好物だよー。小声で言いながらアイリは慎重にバクの口を開けた。片手で口を開けたままにして、もう片手で爪楊枝に刺したたこ焼きをバクの口に運ぶ。おお、いい匂いだー、青のりついちゃうなー。よっこら、よいしょ。
「あっぢー!! あっちー!」
その途端、バクが跳ね起き、たこ焼きはバスタオルの上に転がった。
「バク!」
「うぉ? アイリか、何だ今の?」
それには構わず、アイリはバクを抱き上げると、ぎゅっと抱きしめた。
「よかったー、バク、死んじゃったかと思ったよー、有難う、ごめんね助けてくれてー、よかったあ」
アイリの目から突如涙が溢れた。バクの顔に水滴がポタポタかかる。
「うーっ、アイリ、離してくれー。ぐるしぃー、冷たい―」
アイリは腕を解いてそっとバクをバスタオルに載せた。バクはきょとんとしている。
「なんだかよく覚えておらんが、なんだったっけ?」
「もういいのよ。元気になったらそれでいい」
「ううむ、あれ、これはなんだ?」
バスタオルの上に転がったたこ焼きを、バクが見つけた。
「バクの好物でしょ。まだあるからたくさん食べて」
「いやいやいや、ボクは食べれないって」
「そーぉ?」
「うむ。チョコだって食べれんかったろ?」
「そっか。宇宙へ飛んでったっけ」
「そもそもモノを食べるようには出来ておらんのだ」
「ふうん。じゃ、あたしが食べちゃおう」
夕食をパスしたアイリは、実はお腹がすいている事にやっと気が付いた。
+++
一方、こちらはチネリ星全軍法務執行監視センター。オペレータが叫んだ。
「お! 縮退解除、再起動完了しました! 25番activeです」
オペレータの後でコンソールを覗いていたカコントウ大尉はホッとして、監視センター長への通話アイコンを触った。
「ガスターだ」
「大佐殿、25番、成功しました。メイン回路回復、生体プログラム稼働中です。有難うございました」
「そうか、それは良かった」
「ただ、小さなグリーンの破片らしきが口内に侵入しています」
「敵性は?」
「ありません!」
「放っておけ。そのうちくしゃみで飛んでいくだろ」
「はい。あ、それから、マインドカラーが淡いピンクになっています」
「はは。放っておいてやれ。たまにはそう言うのも必要だ」
「イエッサー!」
25番、何だか判らんが活躍したんだろ。マインドカラーがずっとダークグレーじゃな、満願までもたないよ。
淡いピンクか…。
ガスターは微笑みながら、パブロン大佐への通話アイコンにタッチした。




