第18話 ツバメの子 (後編)
週末を越した月曜日はまた雨だった。雨の月曜日って憂鬱の代名詞だよ、だけど… 吹き飛ばせ!ネコちゃん。アイリは傘をクルクル回しながら歩く。大通りでは、通りがかる車のはね水を咄嗟に傘でブロックしたり、水溜りをジャンプして越えたり、それなりに活躍して住宅街に入った。ヒナちゃん、雨で寒くないかな。
住宅販売会社の駐車場を覗き込むと、いつもの軽自動車のほかに、白黒模様の警備会社の車が停まっている。その向こうにはユニフォーム姿の警備会社の人と、静たちが何やら喋っている。ヒナ、大丈夫かな。アイリはそうっと近づいた。静はハンカチを握りしめている。
「あの、 おはようございます」
「あ」
「どうかしたんですか?泥棒?」
「ううん」
静の目は赤かった。
「ツバメのヒナがいなくなっちゃったの」
「え? もしかして巣立ち?」
店長らしき男の人と警備会社の人がアイリの方をちょっと振り向いた。アイリは傘を畳んで小さく頭を下げる。静が続けた。
「初めはそうかなって思って、良かったなって思って傘を片付けようとしたら、羽がね、落ちてたの」
「はい?」
「あちこちに何本も」
「はい…」
「だからちょっと不安になって、監視カメラの映像を見てもらったの。ほら、あそこにカメラあるでしょ」
なるほど、丁度軒下の入口付近を撮影するために設けられた監視カメラは、ヒナが落ちた場所も撮影できるロケーションにあった。アイリもカメラを見上げた。
「そしたら警備会社の人が、ショットを何枚か持ってきてくれたの」
「ほら、これだよ」
店長らしき人がアイリに写真を数枚渡してくれた。警備会社の人も険しい顔で言った。
「動画から瞬間をスクリーンショットにしたんです」
アイリは写真を捲った。拡大したのか少しぼやけた白黒写真だった。
そこに写っていたのはネコ。口のあたりに黒いのが見える。
え? アイリは写真を持つ手が震えた。次の写真を見る。更に拡大されている。ぼやけてはいるがネコが黒いものをくわえている。警備会社の人が言った。
「多分、ネコが攫って行ったんだと思います」
静がハンカチで目を押さえた。
「ネコまで考えなかったからな」
店長も言った。
アイリは写真をそのまま店長に返した。どう言っていいのか解らない、何も出てこない。ピィピィ鳴いて、羽をフワフワさせていたツバメの子。ネコが育てているとは思えなかった。
「あ、ありがとうございます」
ようやく一言吐き出してアイリは傘が置かれたままの場所を見た。きっと昨日までここにいたんだ。もうすぐ飛べるって楽しみにして、毎日羽を動かす練習をしていたんだ。その子を、ネコちゃんが… 食べちゃった…。
静がハンカチを持ったままアイリの肩を撫でた。
「ごめんね、朝からショックなもの見せて。学校行ってね。残りの子たちはちゃんと巣立つと思うから」
頭上では巣に残ったヒナたちが相変わらず口を開けてピィピィ鳴いている。見上げたアイリの目の前で、親ツバメがつぃーとやって来て、一羽のヒナにエサを与え、また飛び去って行った。
バクはシューズバックの中で大きくパクパクしている。何回も何回も。
アイリは傘をさして駐車場を出た。歩道をトボトボ歩く。悔しい…。みんなで一所懸命守ってあげようとしてたのに。静さんも可哀想だ。蛇の事まで心配して『落としどころ』とやらを作ったのに。アイリは傘を見上げた。尻尾を立てたネコちゃんが目に入る。もう傘をくるくる回す気にもなれなかった。
ネコちゃん… ひどいよ!
アイリは傘を閉じた。雨に濡れながらアイリは歩く。アイリの目もいつの間にか濡れていた。
バクがまたパクパクしたのをアイリは感じた。
「バク、食べないでよ!」
アイリは濡れた目のままシューズバックに当たった。
「命令だからな。仕方ないだろ」
その冷静な口ぶりがアイリの癇に障った。
「そんなのおかしいよ!人の悲しみを集めるなんて、そんなの人じゃない!」
シューズバックを叩きながらアイリは叫んだ。
「アイリの言うことにも一理はある。しかし生きとし生けるもの無常というのも真理だ」
また低い冷静な声が返って来た。
「バクなんて嫌いよ!」
バクはシューズバックの中で溜息をついた。なかなか判るのは難しい。言葉ではな、翻訳チップの限界か…。
教室に入ったアイリは無造作にスポーツバックを机に投げ出した。途中で時間を食ってしまったのですぐに1時間目の予鈴が鳴る。アイリは部活用のタオルを首に巻いて座った。1時間目は古典だ。
「えーっと、54頁、和歌が並んでるところ、行こか、最初の句を、えーっと、島倉、読んでくれ」
「はい。『置くとみし 露もありけり はかなくて 消えにし人を 何にたとへむ』」
奈々は透き通る声で、カルタの読み手のようにきれいに読んだ。
「うん、有難う、島倉が読んでくれると何か情景が一層切なくなるな。意味わかるか? これは和泉式部という平安時代の女流歌人の歌だが、恋の遍歴多き人と言われている。しかーし、歌は上手でな、三十六歌仙に入ってるんだ。この人の娘さんに、小式部内侍という人がいてな、知ってる者もいるかも知れんが、この小式部内侍がまた歌の天才だったんだな…」
「先生のイメージでは、ずばり宇多田ヒカルちゃんだ。お母さんも凄かったからな。で、有名なエピソードに、小式部内侍が、歌会に出た時、まだ小娘のくせに母親の七光りだなって思った四条中納言ってオッサンが、歌はお母さんに頼んでるの?みたいな質問したんだってな。それに対して小式部内侍が返した歌が、有名な『大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず 天橋立』って歌だ。お母さんは丹後の国に居たからな、そんな遠い所へは行ったことないし手紙だって見てないよって歌なんだが、『ふみもみず』の『ふみ』は行くという事を表す『踏む』と手紙の『文』と掛けてるしな、『いく野』は地名だけど野原を越えて行くとも取れる。他にもあるんだが、華麗なテクニックを散りばめて、オッサンを見返したって歌だ」
「痛快だよな。でもこの小式部内侍は、実は20代で亡くなっているんだ。それを哀しんで歌ったのが読んでくれた和歌だ。露もありけりとは、小式部内侍が残した着物の柄、儚いものの象徴である露が着物の柄に残っているのに可愛い娘はもういない。娘を露以上の何に例えたらいいんだろうって切ない歌だ。命の儚さ、哀しみを実に見事に表現している。先生も好きな歌なんだ」
命の儚さ。アイリはずっとツバメの子を想っていた。広い空を飛びたかっただろう。お父さんやお母さんについて海を渡ってゆきたかっただろう。それが実現する直前に望みは絶たれてしまった。
「はい、じゃ、次の歌を読んでもらおうか、小松!」
奈々の後の生徒が指名された。
「はい。えー、 『浅茅原 はかなく消えし 草の上の 露を形見と 思ひかけきや』」
「うん、有難う。これは周防内侍ってやはり平安時代の女流歌人の歌だ。官職についていた今で言うとキャリアみたいな人だったらしい。判り易いよな。儚く消えたのは恐らく知っている人だろう。亡くなったんだろうな。それと露の儚さを掛けている。このように、露と言うのは古来、儚いもの、つまり無常観の象徴として取り上げられている訳だ」
露… 朝のうちに消えてしまう露。なるほど儚い。アイリがふっと考え込んだ時、教科書の上にポトリと露が、いや雫が落ちた。あ、きっとツバメちゃんの形見だ…。
実際はアイリの髪から流れ落ちた雨粒だったのだが、アイリには何かの巡り合わせとしか思えなかった。
アイリはそーっと教科書の上の雫を定規に乗せ換えた。教科書の上ではすぐに沁み込んでしまう。古典の授業時間中、ツバメの形見はずっと消えることがなかった。きっとこのひとしずくの中に、空を飛び回るツバメの子の夢が入っているんだ。こんな小さな水粒だけど、中に入ると大空なんだ。ツバメちゃん、思いっきり飛ぶんだよ…
気がつくと教科書の上には更に幾つかの雫が落ちていた。ツバメの子が本物の形見として、アイリの目から溢れさせた雫だった。
バクはシューズバックのファスナーの隙間から、そんなアイリをじっと見ていた。アイリに言われた言葉がバクの胸に刺さったままになっている。
『そんなの人じゃない!』
命令なんだアイリ。人になるための命令なんだ。解ってはもらえまいが。心から血を流しながらバクは目を閉じた。
アイリ、君のその悲しみ、今日は食べるのやめておく。食べだら悲しみを忘れられるかもしれないが、今のアイリにとっては、その悲しみを感じる時間の方が大切な気がするから。




