誇り高き女騎士が怪物になるまで
王都を見守る巨大な霊山、その麓に広がる深い森の中。
そこで、普段の静謐を破る激しい戦闘音が鳴り響いていた。
鎧や盾が奏でる金属音。
何かが地面を叩き、木を薙ぎ倒す衝撃音。
そして、人々の怒号と悲鳴。
それらの音の発生源は、1体の巨大な怪物とそれを囲む騎士甲冑を着た者達だ。
「バロット! ノイザー! 右を押さえろ!」
騎士達の先頭に立ち、他の騎士に指示を出しているのは、この騎士隊唯一の女性でありながら隊長でもある女騎士、フィリミナ・ブランゼット。
この国一番の武の名家であるブランゼット侯爵家の長女にして、若干17歳という若さで10名からなる騎士隊の指揮を任される才媛だ。
しかし、現在この国で5本の指に入る剣の腕の持ち主と称される彼女をして、今は激しい苦悶と焦燥にその美貌を歪めていた。
(なんだ! なんなんだこの怪物は!?)
王都近郊の大森林に異常あり。
その一報が王宮に届いたのが今朝のこと。
なんでも、最近大森林近くの街道に動物が下りて来ることが増え、熊やら猪やらが道行く人を襲う事例が増えたという。
そのことを不審に思った王都の衛兵が20人体制で森に調査に行くも、誰1人として戻って来ず。
改めて今度は50人体制で森に調査に行くと、見付かったのは夥しい血痕と、何かに食い散らかされた衛兵達の残骸だった。
その凶報を受け、王命によって派遣されたのがフィリミナ率いる騎士隊だった。
彼女達は森の各所に残された血痕を追い、遂にこの異変の元凶と遭遇した。
それこそが、今彼女達が対峙している怪物だった。
怪物……としか言えない外見だ。
一番近いのは長虫だろうか?
しかし、虫とは違ってその表皮はまるで動物の内臓のような質感をしており、なによりその先端には鋭い牙が幾重にも並ぶ円形の口が存在している。
それだけならまだいいが、それは飽くまでこの怪物の一部に過ぎない。
この怪物には、象のような巨大な四足獣の背中から、この人間の胴体ほどの太さを持つ長虫状の捕食器官が複数本生えているのだ。
しかし、当然象のはずがない。
灰色の肌を持つ象とは違って、その胴体は病的な白色をしているし、そもそも本来頭部があるべき場所からも複数の捕食器官が生えているのだ。
しかも、胴体の動きが緩慢な反面、長虫状の捕食器官の動きは俊敏にして凶暴だった。
その捕食器官が鞭のように振るわれる度に、周囲の大木が冗談のように薙ぎ倒される。
最初にこの怪物を捕捉した際には、その一撃で前衛の大盾持ちの騎士が2名、正面から吹き飛ばされ、宙を舞っている間に別の口に丸呑みにされた。
それからは滅茶苦茶だ。
その圧倒的暴力を前には隊列など意味をなさず、全員が散開して周囲から一斉攻撃を加えた。
しかし、この怪物には目も鼻もない癖に、隙などどこにもなかった。
肉体の強度自体は大したことがなく、捕食器官も剣で切り落とすことが出来るのだが、この怪物は悍ましいことに、血肉を喰らう度にその胴体から新たな捕食器官を生やすのだ。
王都の最精鋭の騎士達の奮戦の結果、元は数十本あったその捕食器官も、今は残り8本にまで減った。
しかし、その代償に今や騎士隊で残っているのは、隊長であるフィリミナ含めて4人だけだった。
バギンッ!!
鈍い金属音に慌ててフィリミナがそちらを向くと、残る騎士の1人が持つ剣が、度重なる酷使に耐えかねて半ばからへし折れたところだった。
「バロット!!」
フィリミナが咄嗟にその騎士の名を呼ぶが時既に遅く、剣を失った騎士は一瞬にして怪物の牙に捕われ、血飛沫を撒き散らしながらただの肉片と成り果てた。
「くそっ!」
更なる部下の死に悪態を吐くも、状況は変わらない。いや、むしろ悪化した。
こちらの戦力は1人減り、翻って向こうはバロットを食ったことにより、また新たな捕食器官を生やそうとしている。
しかも、仲間の装備はフィリミナ自身のものも含め、どれも限界にきている。
「隊長、こいつはあきませんな。このままじゃジリ貧です」
「分かっている! だがここでこいつを逃せば、こいつは森に棲む動物を食らってまた再生する! 仲間の死に報いるためにも、なんとしてもここで仕留めなければ!」
「分かってます。なので、俺達がなんとしても奴の胴体まで血路を開きます。なに、あれくらいの数なら何とか食い止めてみせます。なので隊長、止めはお願いします」
「お前達……っ!?」
残った2人の部下の言葉に、フィリミナは愕然と眼を見開く。
そのフィリミナに、2人の壮年の騎士は力強く笑ってみせた。
「来月にはゼレック様との結婚式が控えているんでしょう? なら、ここはなんとしても生き残らにゃ」
「心配せんでも、俺らは寂しい独り身ですからね。悲しむ人間も少ないです。でも、隊長は違うでしょう?」
「だが、だが……っ!!」
この期に及んで部下を捨て駒にする決断が出来ずにいるフィリミナに、2人の騎士は父親が娘に向けるような表情を見せた。
「こういうのは年上から死ぬべきなんですよ。貴女が気に病むことはありません」
「そうですよ。隊長まだ17でしょう? まだまだこれからじゃないですか」
「お前達……」
「問答はここまで! 行きますよ!!」
「おう!!」
「っ……すまない! 頼む!!」
苦渋に満ちた表情でそう叫んだフィリミナに、2人の騎士は行動で答えた。
盾と剣を構えて突貫し、襲い掛かる捕食器官を盾で受け流し、剣で切り伏せ、最後には自身の体を盾にして引き付けた。
「う、おおおああぁぁぁぁーーー!!!」
血飛沫を上げて倒れ伏す部下達の間を、フィリミナは全力で駆け抜けた。
「すまない」「許せ」そう心の中で呟きながら。
そして、その怪物の胴体の下に滑り込むと、胸と思われる場所に力任せに剣を突き立てた。
「おおおっ!!」
体を捻り、傷口を横に切り開く。
すると、剣が根元から折れると同時に傷口から大量の血が噴出し、怪物がその全身を激しく痙攣させ始めた。
(勝っ――)
そんな言葉が頭を過ぎったその時、怪物が身悶えたはずみに噴出したその血がフィリミナの顔に降りかかった。
「ぎ――」
その、瞬間。
「ぎぃああぁぁぁああぁぁぁぁーーー!!!」
灼け付くような激痛がフィリミナの両目を襲った。
(あつっ、いたっ、熱い! あ゛ぁイタイ! イタイイタイイタイ!!!)
怪物の血を浴びた眼球が、今にも破裂しそうなほど熱を持って疼く。
その熱は目からやがて全身へと広がり、全身が内側から無数の針で刺されるような激痛に襲われる。
(死ぬ、のか? ここで? イヤだ。私は……帰る。ゼレック。あぁゼレック! わたし、は……)
最後に愛しい婚約者の名前を脳裏で呟いて
フィリミナはその意識を闇に沈めた。
* * * * * * *
「う……」
どのくらいの時間が経ったのか。
瞼を刺す眩い陽光に、フィリミナはゆっくりと目を開けた。
「生きて、いるのか……私は」
ぐるりと目を動かし、すぐそばに力なく横たわる怪物の死骸を発見する。
それを見て胸の奥に達成感が湧き起るが、無邪気に喜ぶには犠牲があまりにも多過ぎた。
(仇は取ったぞ……皆……)
そう胸の中で念じながら上体を起こし、そこでようやく異変に気付いた。
「な……なんだこれは!?」
体を起こすべく地面に着いた自分の手、それが倍以上の大きさに膨れ上がっていたのだ。
手だけでなく指も冗談のように太くなり、小さな爪が肉に埋もれるようにして半ばめくれあがってしまっている。
そして、異変はそれだけではなかった。
手だけでなく腕も、胸も腹も足も、果ては顔までも。
フィリミナの全身は異常なまでに肥大化し、まるで不摂生を繰り返し続けた超肥満女性のような体形になってしまっていたのだ。
その結果として、着ていた鎧は留め具が弾け飛び、その下の騎士服も当然のように破けてしまっていた。
「これは一体……どうして、こんな……っ!!」
錯乱して呟くその声も、気道が圧迫されているせいか妙に高くか細い声しか出ない。
しかし、流石はこの若さで一隊の指揮を任せられるだけはあるというべきか。
フィリミナは、わずか数分で無理矢理自分を落ち着かせると、近くに落ちていた大きなマントで体を覆い隠した。
(大きい……これは……ジェフのマントだろうか?)
このマントの持ち主も今やただの肉片と化しており、見分けなど付かない。
フィリミナは、国の為に戦い、華々しく散った彼らの亡骸すら満足に持ち帰れないことに歯噛みした。
(そうだ、せめて遺品を持ち帰ろう。探せば騎士章くらいは見付かるかもしれない)
そう考え、妙に重たい体で一歩踏み出したところで、背後から響く微かな唸り声に足を止めた。
「……っ!!」
振り返ると、木立の間から複数の獣の影が見えた。
低く唸るその巨大な影は、この森に棲まう熊のものだ。
「っ、すまない!!」
決断は一瞬、フィリミナは即座に勝てないと判断し、その場から脱兎のごとく駆け出した。
恥も外聞もなく逃げ出しながら、背後から聞こえる仲間の死骸が食い散らかされる音に、フィリミナは胸が潰れそうな思いがした。
仲間を犠牲にして勝利を掴んでおきながら、その仲間の死骸すら守らずに生にしがみつく自分が酷く浅ましく思えた。
(すまない……本当にすまない……っ!!)
心の中でひたすら謝りながら、フィリミナは森の外に、王都に向けてひた走った。
(ゼレック!!)
愛しい婚約者と再会すること、それだけを夢見て。
* * * * * * *
木立の中を駆け抜け、街道を裸足で歩き続け、フィリミナは遂に王都を囲む城壁まで辿り着いた。
すると、フィリミナはその城門に見知った顔を発見した。
(ゼレック!!)
なんという偶然か。
そこにはフィリミナの婚約者にして、同じく10人からなる騎士隊を率いる騎士隊長、ゼレック・ノルドー伯爵子息がいたのだ。
実はこれは偶然でもなんでもない。
フィリミナ自身は気付いていないが、実はこの時点でフィリミナが森の調査に向かってから既に丸2日が経過していた。
愛する婚約者がいつまでも戻ってこないことを心配したゼレックは、騎士団長に直談判してフィリミナ達の捜索に向かうことにしたのだ。
「ゼレック!!」
フィリミナは掠れる声を振り絞りながら、ゼレックが跨る馬の前に飛び出した。
死地から何とか帰還し、愛する人と再会できたことに思わず涙が零れそうになる。
しかし、そんなフィリミナを見たゼレックは一言。
「なんだこの小汚い浮浪者は。おい、そこをどけ!」
冷たくそう言い放つと、構わず馬を進めようとする。
その冷たい言葉に愕然としつつ、フィリミナは必死に声を上げた。
「ゼレック! 私が分からないのか!? 私だ! フィリミナだ!」
「なんだと! 貴様のような醜く肥え太った女がフィリミナのはずがあるか! 不快な女め。おい衛兵! この女をひっ捕らえろ!!」
「なっ……」
そのゼレックの言葉に従い、すぐさま城門を警備していた衛兵がフィリミナの元へ殺到した。
普段のフィリミナなら、衛兵程度何人いようが問題なく捌けただろう。
しかし、今のフィリミナは疲労困憊で、体も重く元のように動かすことが出来なかった。
結果、あっという間にその場に組み伏せられ、地面に叩き付けられてしまう。
受け身も取れずに地面に顎を強打したフィリミナは、遠ざかる意識の中で必死にゼレックの名を呼んだ。
しかし、その声はあまりにか細く、ゼレックの耳には届かなかった。
暗くなる視界の中、最後に映ったのは、こちらを見もせずに立ち去るゼレックの後ろ姿だった。
* * * * * * *
「う、ん……」
フィリミナが次に目を覚ました時、そこは地下牢だった。
冷たい石畳に頑丈な鉄格子。窓などは当然なく、通路に設置されている松明がわずかばかりの光源だった。
「おい! なんだこれは! どういうことだ!」
そこまで確認すると、フィリミナはすぐに鉄格子に取りつき、通路の端に立っている警備兵に呼び掛けた。
すると、2人いた警備兵の内1人が近くまでやって来て、面倒そうに口を開いた。
「おい、騒ぐな。どういうことも何も、お前は詐欺と不敬罪の現行犯で捕まったんだよ。よりにもよって、この国の貴族令嬢の中でも指折りの人気を誇るフィリミナ様の名を騙るとはな。愚かな女だ」
「なっ……詐欺などではない! 私はフィリミナ本人だ!」
「気色悪い冗談はよせ。俺は一度だけだが、本物のフィリミナ様にお目に掛かったことがある。お前とは似ても似つかない、それはもう美しい方だったぞ。お前のような悍ましい女があの方の名を騙るとは……恥を知れ!!」
「違っ……私は本当に!」
「まだ言うか! おい、水を持ってこい!」
「な、何を……何をする!」
警備兵はもうフィリミナの声には耳を貸さず、桶に汲んである淀んだ水を、鉄格子越しにフィリミナに浴びせた。
「うわっ! 冷たい! く、臭い!」
「ははっ、いい気味だ。ここは地下だからな。そのまま風邪を引いちまえ。つっても、そんだけ肉を付けてればどうってことないか」
そう言い捨てると、警備兵は高笑いを上げながら去ってしまった。
後には濡れ鼠になったフィリミナが、震えながらその場に蹲っていた。
* * * * * * *
それからも、フィリミナは自分こそが本物のフィリミナだと主張し続けた。
その度に水を掛けられ、食事を抜かれ。
それでも挫けずに声を上げ続けた。
そして、地下牢に閉じ込められてから数日後、それまで何を言っても聞く耳を持たなかった警備兵が、遂にフィリミナと会話する姿勢を見せた。
「お前も懲りねぇなぁ。完全にイカレっちまってんのか?」
「違う。私は正気だ。両親か兄……騎士団長と話をさせてくれ。そうすればはっきりするはずだ」
「馬鹿かお前は。そんな高貴なお方を呼べるわけないだろうが」
「なら騎士の誰かを呼んで来てくれ! それくらいなら何とかなるだろう!?」
「馬鹿。どっちにしろ俺らみたいなケチな兵士からすれば雲の上の存在だっての」
「なら――」
そこで、フィリミナの脳裏に天啓のごとく1つの考えが浮かんだ。
「……横笛を1本用意してくれ。私の横笛の腕は王都でも有名だったはずだ」
「なに……?」
「頼む! これっきりだ! この願いさえ叶えてもらえれば、もう騒がしくしないと誓う!」
その鬼気迫る様子に気圧されたのか、警備兵は1本の横笛を用意させた。
「ありがたい……」
鉄格子の隙間からそれを受け取ると、フィリミナはゆっくりとそれを口に付けた。
フィリミナは剣の腕も確かだったが、それと同じくらい横笛の名手としても知られていた。
その笛の音は誰よりも繊細で美しく、時には戦場で兵を鼓舞するためにその腕を振るったこともあるほどだった。
婚約者のゼレックもその笛の音をとても気に入り、フィリミナもゼレックに聞かせるために多くの曲を作り、披露した。
しかし、今となってはそれも過去の話だ。
「おい、もうやめろ。聞けたもんじゃねぇよ」
フィリミナの笛の音を聞いた警備兵が、顔をしかめて耳を塞いだ。
「そんな……こんなはずじゃ……」
フィリミナが、愕然としながら呟く。
しかしそれも当然のことだろう。
今のフィリミナは、空気を送り込む気道は狭く塞がれ、笛の穴を押さえる指も吹き込む空気の量を調節する舌も、異常に肥大化してしまっているのだから。
そんな状態で以前の感覚で演奏して、まともな音が出るはずがなかった。
呆然とするフィリミナの胸を、警備兵が槍の石突きで突いた。
完全に油断していたフィリミナはその場に倒れ、その手に握っていた横笛がすっぽ抜けて鉄格子の方へ飛んだ。
警備兵はそれを回収すると、またしてもフィリミナに水を掛けて立ち去った。
美しい外見だけでなく、横笛の腕まで失ったことが相当にショックだったのか、あるいは騎士として一度立てた誓いをきちんと守ったのか。
それ以降、フィリミナはすっかり大人しくなってしまった。
* * * * * * *
「おい、あの女最近は騒がないな」
「ようやく諦めたんじゃねぇか? まあなんにせよ清々したよ。あのデブ女相手にすんの気持ち悪くってなぁ」
2人の警備兵がそんなことを言い合っていると、当のフィリミナが突然恐ろしい声を上げ始めた。
「うあああぁぁぁ!!! 出せ!! ここから出してくれ!! 家族に! ゼレックに会わせてくれ!! 私が! 私である内に!!!」
「おい、なんなんだ一体!」
「静かにしろ! 静かにしろったら!!」
しかし、フィリミナは警備兵の声など聞こえてないようかのように狂乱する。
意味不明なことを叫びながら暴れるフィリミナに、とうとう警備兵は実力行使に出た。
鍵を開けて牢の中に入ると、2人がかりでフィリミナを槍で打ち据える。
そして大人しくなるまで滅多打ちにすると、手足を縛ったうえで猿轡を嵌め、牢の床に転がした。
「ふぅ……一体何だってんだ」
「完全に壊れっちまったんじゃないか? まあこんな暗いところに十何日も閉じ込められたら、おかしくなるのも無理ないけどな」
2人の警備兵がそんなことを言い合いながら去るのを余所に、フィリミナは猿轡を嵌められたまま、口の中でぶつぶつと何かを呟き続けていた。
その内容はずっと同じ。
「私はフィリミナ・ブランゼット。王家に忠誠を誓う誇り高き騎士だ」
フィリミナはただそれだけを、延々と繰り返しているのだった。
というのも、フィリミナは最近、頭の中で何かが自分に語り掛けて来るのを感じるようになっていたのだ。
その声は、いつもこう問い掛けてくる。
―― お前は何だ?
それに対し、フィリミナは答える。
「私はフィリミナ・ブランゼット。王家に忠誠を誓う誇り高き騎士だ」と。
すると、声は反駁する。
―― 違う。お前は……
その先は言葉にならない。
だがその声を聞くと、なぜか毎回「そうなのかもしれない」と思う自分がいるのだ。
そしてそう思うごとに、自分の中の大切な何かが失われていくのを感じた。
そして,その感覚は錯覚ではなかった。
フィリミナはその感覚を味わう度に、少しずつ記憶を失っていたのだ。
今となっては共に戦い、そして死んでいった仲間の騎士の顔も名前も、その多くを忘れてしまっていた。
だからフィリミナは自分に言い聞かせ続ける。
本当に大切なことを忘れないように。自分が自分でいられるように。
* * * * * * *
その数週間後、王都では建国祭が開かれていた。
表向きには、フィリミナ率いる騎士隊は、森に出現した謎の怪物と相打って全滅したことになっていた。
王都民にも絶大な人気を誇っていたフィリミナの死に、人々は嘆き悲しみ、残された婚約者であるゼレックの心痛を思って涙した。
そんな民衆の耳に、ある1つの噂が届いた。
それは、建国祭の催しの1つとして毎年行われる罪人の処刑。
そこで処刑される罪人の中に、あのフィリミナを騙るという罪を犯した醜い女虜囚がいるという噂だ。
人々は、ある者は義憤に燃え、ある者は不快に顔を歪め、またある者は興味本位で、その罪人を一目見ようと、ギロチンが設置された王都の大広場に集まった。
王都の大広場。
普段は数多くの露店が軒を連ね、人々の憩いの場となっているそこに、今は巨大な処刑台が設置され、その正面に貴族用の観客席が並んでいた。
そしてその観客席の周囲を埋め尽くすかのように、多くの王都の民が集まっていた。
処刑台の上に立っている役人が罪人の罪状を発表し、それが終わると罪人がギロチンに体を固定され、処刑人がギロチンの刃を吊るしている縄を切り、死刑が執行される。
何人かの死刑が執行された後、遂に処刑台にボロ布を纏った1人の醜い女が上げられた。
「罪状! この女は、我が国の誇り高き騎士団の一員にして侯爵令嬢である、フィリミナ・ブランゼットの名を騙った! 死者を辱めるその所業は、不敬というのも愚かしく――」
役人によってその罪状が読み上げられた途端、処刑台の前に詰めかけた民衆の手によって、フィリミナに向かって無数の石が投げ付けられた。
「よくもフィリミナ様を侮辱したな!」「恥を知れ!」「殺せ! 今すぐ殺せ!!」
広場中に怒号が渦巻き、石が乱れ飛ぶ。
しかしその中にあって、フィリミナは俯いたまま、ただぶつぶつと呟き続けていた。
やがて罪状が読み終わり、処刑人の手によってフィリミナはギロチンの方へと押しやられた。
そこで、今まで何も映していなかったフィリミナの目が、ふと観客席に座る自分の両親と婚約者の姿を映した。
肉に埋もれたその目が大きく見開かれ、半ば悲鳴のような声が放たれる。
「お父様! お母様! ゼレック! 私です! 私は本物のフィリミナです!!」
血を吐くようなその叫びに、しかし3人は憎悪の籠った視線で応えた。
「黙れ! その薄汚い口で、これ以上娘を汚すな!!」
「この愚か者! 地獄に堕ちなさい!!」
「ふざけるな! 貴様など、貴様など……」
そして、その瞳に悲しみと憎しみを浮かべたゼレックの口から、決定的な一言が放たれた。
「貴様など! フィリミナではない!!」
その、一言が。
フィリミナの最後の防波堤を、容赦なく突き崩した。
(私、は……)
―― そうだ、お前は……
フィリミナ・ブランゼットだ!
その声は外に放たれることなく、フィリミナの脳裏の片隅で微かに響いた。
そして次の瞬間には、その小さな声は別の何かによって呑み込まれ……
後には、1匹の怪物だけが残った。
広場に詰めかけた観客の前で、処刑台の上の女が突然倒れた。
人々が困惑気味にざわつき始めるが、次の瞬間起こった異変に、全員が一様に絶句した。
なんと、倒れた女の体がビクッと震えたかと思うと、見る見るしぼみ始めたのだ。
異様に腫れ上がり、膨らんでいた体は元の細く滑らかな肌を取り戻し、傷んでくすんでいた髪も元の艶やかな美しさを取り戻す。
やがて変貌が終わり、ゆっくりと女が立ち上がると、民衆からどよめきが上がった。
そこにいたのは紛れもなく、死んだとされていたフィリミナ・ブランゼットその人だったからだ。
その肌が妙に生白く変色していることを気に掛ける者は、誰1人としていなかった。
誰もが口々に驚愕の声を発しながら、先程まで自分達が行っていた所業を思い出して青褪めた。
そんな混乱の渦中にある民衆を掻き分け、処刑台に近付く1つの人影があった。
「フィリミナ!!」
処刑台に上がったのは、フィリミナの婚約者であるゼレックだった。
その顔に喜びと後悔を同時に浮かべながら、愛する少女の元へと駆け寄り、両手を伸ばす。
……その両手は、一体何を目的として伸ばされたものだったのか。
喜びのままに少女を抱き締めるためか、それとも謝罪と共に少女の両手を握るためか。
今となってはそれはもう分からない。
なぜなら、伸ばされたゼレックの両腕は――
「え……?」
少女に触れる前に、その半ばから吹き飛んだからだ。
広場に、沈黙が落ちる。
誰もが目の前の現実を正しく認識できないまま、ただ呆然とその光景を眺めていた。
少女に向かって伸ばされたゼレックの両腕。
その肘から先が消え去り、傷口から鮮血が噴き出す。
ゼレックの両腕を吹き飛ばし――――いや、食い千切ったのは、少女の纏うボロ布の裾から伸びる、人間の腕ほどの太さの長虫状の捕食器官。
噴き出す血を浴びながら、少女は無機質な瞳を目の前の男に向けて、ぽつりと呟いた。
「なんだ? この肉塊は?」
その一言を皮切りに、大広場が悲鳴に埋め尽くされた。
(うるさいな)
怪物は、酷く耳障りな音を発しながら逃げ惑う目の前の無数の肉塊を見て、そんな感想を抱いた。
(どうしようもなく耳障りだ)
捕食器官を伸ばし、手前の方にいた肉塊を薙ぎ払う。
すると、肉塊は静かになり、捕食器官が増えた。
(うるさい)
増えた捕食器官も使い、目の前の肉塊を片っ端から薙ぎ払う。
その度に捕食器官が増え、さらに効率が上がった。
そうこうしている内に、最初に近寄って来た肉塊がどこかに行っていたが、怪物はもうそんなこと気にもしなかった。
今はただ、目の前のうるさい肉塊共を黙らせることで頭がいっぱいだった。
捕食器官が10本を超えたところで、処刑台から降り、大通りの方へと逃げて行く肉塊を更に追い立てる。
蹂躙を続ける怪物の前に、1人の男が立ち塞がった。
「狂ったか! フィリミナ!!」
男はフィリミナの兄であると同時に剣の師であり、この国の騎士団長も務める男だった。
しかし、そんな彼を見ても、怪物の表情には何の変化もなかった。
フィリミナにとっては兄であり師であっても、怪物にとっては彼などそこら辺にいる肉塊の1つに過ぎなかったのだ。
その表情にもはや妹の意志が存在しないことを確認すると、男は必殺の意志を込めて剣を抜き放ち、裂帛の気合いと共に踏み込んだ。
殺到する捕食器官を一撃のもとに切り伏せ、瞬く間に怪物の懐に踏み込む。
(殺っ――)
――た。
そう確信する程の完璧な一閃。
しかしその一撃は、斜め下方から振り上げられた剣によって上に弾かれた。
「むっ!?」
気付くと、怪物の右手にはいつの間にか剣が握られていた。
それが、そこら辺に転がる兵士の剣を捕食器官で拾ったものだと気付いた次の瞬間。
「ぬっ、お!!?」
怪物から嵐のような剣撃が放たれた。
その剣術はたしかにかつての妹のものでありながら、その膂力は完全に人外のものだった。
常人であれば数合も持ち堪えられないような剣撃を、しかし男は後ろに押されながらもなんとか捌く。
(舐めるなよ……この流れは……分かっている!!)
そして、冷静にその剣の流れを見極め――――
(ここ……だ!!)
一閃。
完璧なタイミングで放たれた一撃は、見事怪物の手から剣を弾き飛ばした。
(勝った!)
そしてそれが、致命的な隙になってしまった。
慣れ親しんだ剣術に慣れ親しんだ姿。
男はいつの間にか、妹と剣の試し合いをしているような錯覚に陥ってしまっていたのだ。
実際は、目の前にいるのはかつての妹ではなく、人外の怪物であるというのに。
一瞬の油断。
その隙を突いて、男が次撃に移るよりも早く――
「ごはぁ!!?」
怪物の手刀が、男の胸の中央を貫いた。
その手刀は鎧の胸当てを紙細工のように貫通し、心臓を突き破って背中に抜ける。
そして次の瞬間にはあっさりと腕を引き抜くと、倒れ伏す男の手から剣を奪い、その体に3本の捕食器官を突き立てた。
この国最強の騎士団長を文字通り秒殺した怪物を、もはや止められる者など誰もいなかった。
誰もが背後から迫る怪物から逃れようと大通りを逃げ惑い、逃げ遅れた者から吹き飛ばされ、叩き潰され、食い散らかされた。
やがてその命懸けの追いかけっこは、王都を囲む城壁に達した。
その時、進撃を続ける怪物の元に、無数の矢が降り注いだ。
見上げると、城壁の上に陣取った兵士がこちらに矢を放っている。
広範囲に降り注ぐその矢は、怪物だけでなく近くにいる民衆にも当たっていた。
しかし、城壁の上に陣取る部隊の指揮官は、そんなこと気にした様子もなく更なる射撃命令を下す。
怪物は降り注ぐ矢を捕食器官を盾にして防ぎ、それでも防ぎ切れなかった分は手に持った剣で片っ端から叩き落した。
(邪魔だな、あれ)
殺到する矢を防ぎながら、怪物はおもむろに右手に持った剣を肩口に引き絞ると、城壁の上でとりわけ大きな音を発している肉塊に向けて一気に投擲した。
放たれた剣は狙い違わず弓兵の指揮官を貫き、一瞬で絶命させた。
そして弓兵が動揺した一瞬の隙を突いて、怪物は4本の捕食器官を長く伸ばすと、城壁の上に向けて殺到させた。
次の瞬間、城門から王都の外に逃げようとする人々の頭上に、血と肉片が降り注いだ。
* * * * * * *
怪物が壁上の兵士を殲滅している隙に、人々は壁外に逃れ、城門が閉ざされた。
「……」
怪物は一瞬追おうかと考えたが、すぐにやめた。
数十本に増えた捕食器官を残らずしまうと、無言で振り返り、血に塗れた大通りを悠然と歩く。
歩く最中にも、建物の中にまだいくつもの肉塊がいることは確認出来た。
しかし、怪物は手を出さない。
耳障りな音を発しないでただ震えているだけならば、別に潰す必要はないのだ。
静寂に包まれた王都を歩き続け、やがて怪物は一件の屋敷の前で足を止めた。
しばらくその場でじっと屋敷を眺めた後、門を飛び越えて庭に侵入する。
すると、たちまち四足の小さな肉塊がけたたましい音を発しながら駆け寄って来たので、しまっていた捕食器官を伸ばして黙らせる。
そのまま庭を突っ切って屋敷に入ると、今度は大きな肉塊が何やら不規則に震える音を発しながら駆け寄って来たので、これも黙らせる。
そのまま屋敷の中にいる肉塊を全て黙らせると、怪物は屋敷の一室に入った。
その部屋は、ところどころに女性らしさを感じさせながらも、全体的に落ち着いた印象を与える部屋だった。
しかし、女性の部屋でありながら壁には剣が飾られており、反対側の壁には長さも様々な横笛が飾られていた。
怪物はその光景を感情の読めない目で眺めると、ゆっくりとベッドに近寄り、やがて静かに眠りに就いた。
その後、王都に取り残された人々も誰からともなく静かに王都を脱出し、隣の町に逃れた。
あの時大広場にいた人間の内、生き延びることが出来たのは、多くの護衛に守られていた一部の王族や貴族だけだった。
その中には、フィリミナの両親である侯爵夫妻や、両手を失ったゼレックも含まれていた。
彼らは牢内でのフィリミナの様子を聞き、激しい後悔と自責の念に苛まれた。
そしてある日、「フィリミナに会いに行く」と周囲の者に言い残して姿を消し、二度と戻って来ることはなかった。
国王は王都を奪還すべく、数多くの兵士を王都に送り込み、思い付く限りの作戦を決行したが、遂に怪物を討ち果たすことは叶わなかった。
やがて、王都奪還を諦めた国王によって、王家の直轄地にある1つの都市に新たな王都が建設され、元あった王都は完全に放棄されて廃都となった。
かつての王都。そのとある屋敷の一室には、今でも美しく悍ましい怪物が棲んでいるという。
その屋敷の周囲は、昼になるといつも美しい横笛の音色が溢れる。
時に繊細に、時に勇壮に響くその音色を、聞く人間はもはや誰1人としていない。
今や誰も知らない、吹き手すらも忘れてしまったその曲のタイトルは、『私は騎士 誇り高き騎士』
2019/12/6 続編兼完結編『声を持たぬ奴隷が怪物になるまで そして…』を投稿しました。
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