決闘で死んだことはやたらと有名なあいつ
「ねぇ、蒼くんは黒板消しって投げたことある?」
今日は珍しく部室に先輩と2人。そして唐突に放たれたのがこの質問だった。
「あるわけないでしょう」
一体どういう状況になったら黒板消しを投げるというのだ。そう思ったのだが。
「わたし、今日投げたんだけどさ」
……投げるものなのか、黒板消し?
「数学の時間に、黒板に問題を解くことになって、解説も求められたのね」
「まぁ、授業中にはそういうこともあるでしょうね」
「で、対数の問題だったんだけど、なんか、先生が当たり前のことを訊いてくるんだよ。だから、おっ、これはって思ったんだよね」
「……何がですか?」
先輩の話についていけず尋ねると、先輩は少し残念そうな目でこちらを見た。
「わたしは先生に、"それはあなたにとって自明なことではないですか?"って言ったんだけど、先生は答えろって言うわけ、もうこれはやるしかないって感じでしょ?」
先輩は『わかるでしょ』と言うような顔をこちらに向ける。しかし、僕としては何が何だかさっぱりわからない。
「やるしかないっていうのは」
「黒板消しを投げたんだよ! そしたらめっちゃ怒られたんだけど、理不尽じゃない?」
「いや、怒られて当然だと思いますよ?」
何が理不尽なものか。黒板消しを投げるなんて暴挙に出れば、怒られるに決まってるだろ。
「なんでよ! 前振りバッチリだったじゃん! もう黒板消し投げるしかなかったじゃん!」
「……えっと、何か元ネタがあるんですよね? すみません。僕、その元ネタ知りません」
これ、僕が悪いのか? 僕が謝るべきなのか?
「蒼くん、ガロア知らないの!?」
「ガロアって決闘で死んだ数学者のですか?」
正直、ガロアと言われると決闘のイメージが強い。というより、決闘で死んだことしか知らない。
「そのガロア。そのガロアにまつわる伝説だよ。理工科学校の入試」
……え、ガロアって入試で黒板消し投げたの? それ、相当ヤバい奴では?
とりあえず『ガロア』でググる。Wikipediaでいいだろう。エヴァリスト・ガロア。Galoisでガロアって読むのか。
生涯の項目に目を通す。
…………。
なんだ、この人生。正真正銘ヤバい奴だ、こいつ。
「確かに、黒板消し投げたって伝説があるって書いてありますね……」
Wikipediaを全面的に信用しているわけではないが、これは嘘八百って感じではないし、それなりに有名な伝説なのかもしれない。
「実際に投げたかは知らないけど、投げたって伝説があるんだよね。しかも対数の問題で、これはもうやるしかないでしょ! なのになんで怒られるの! 納得いかない!!」
先輩、その状況になって、これは来た!と思ってウキウキしながら黒板消しを投げたんだろうなぁ。先輩がテイッと黒板消しを投げる様子が目に浮かぶ。そのあと怒られて、えぇーって不満げになる先輩も目に浮かぶ……。
「常識的には黒板消しは投げるべきではないですから」
この生涯を見る限り、ガロアが常識人とは思えないし。間違いなく天才なのだが、なんでこんな……。
「えぇー。わたし、ガロアリスペクトなんだけどなぁ」
「リスペクト、ですか? いや、半世紀以上先取りするような数学的な才能はすごいと思いますが、逮捕されたりしてますよ?」
「いいじゃん、革命家。カッコいい!」
先輩は目をキラキラさせて言うのだが、これがカッコいいのか? 自由のための活動家と捉えればカッコいいのかもしれないけど、なんか、やりたいことをとにかくやっている感が否めないのだが。
「生きた時代が革命期のフランスだからね。今の日本の価値観で見ると凄まじいけど、当時はこんな感じの人って結構ありふれてたんじゃない?」
「そうですか……?」
革命家は確かにたくさんいたのだろうけど、『もし民衆を蜂起させるために誰かの死体が必要なら、僕がなってもいい』なんてレベルの奴がごろごろいたとは思えないのだが。
「でも、ガロアレベルの天才はそういなかっただろうけどね。論文2回紛失とかいう不運に襲われた不遇の天才」
コーシーとかフーリエとか、名前はよく聞くような数学者だ。フーリエはともかく、コーシーがもう少しガロアに気をかけていてくれれば、ガロアも穏やかな人生を送ったかもしれない。……そんなことない感じがしないでもないけど。
「これで、死んだのが20歳と7ヵ月ですか。本当に激動の人生ですね……」
「死因が決闘ってのも、ゲーデルの餓死ほどじゃないにしても珍しいよね。僕には時間がないって大急ぎで手紙書くくらいなら、なんとか決闘を回避できなかったもんかなぁ」
先輩としてもガロアの死に方はリスペクトしていないようだ。人並みに生きれば、もっと数学的な業績とヤバい伝説を残せただろうに、もったいない。
……ゲーデルって餓死したの? なんで?
「ガロア理論って1つの大きな理論体系だもんね。それが、20歳の青年が決闘前に急いで書きなぐった手紙の内容が元になってるって、すごいよね」
ガロアの話に戻っていったので、ゲーデルについて訊ける感じではなくなってしまった。今度調べよう。
「20歳って、先輩から見たら2歳しか違わないんですよね。先輩もガロアレベルのこと何かできませんか?」
「その一環で、今日は黒板消しを投げたんだよ」
先輩は胸を張って言う。うん、そういう意味じゃないんだよな。
「蒼くんも機会があったら黒板消しを投げよう。ガロアの伝説を広めていこう!」
「投げませんよ」
黒板消しを投げて、『僕はガロアリスペクトなんです』なんて言い訳にもなりはしない。普通にものすごく怒られるだろう。
「えぇー、広めてよぉ。この伝説知ってる人全然いなくて、黒板消しを投げたわたしが変な奴みたいに思われてるんだよぉ……」
いや、黒板消しを投げる前から、先輩は変な奴だと思われていただろう。あいつなら黒板消しくらい投げてもおかしくないって思われていたのではないだろうか。
「今日の話のせいで、僕の中ではガロアといえば黒板消しみたいなイメージになってしまったんですけど、数学的な業績はものすごいんですよね?」
ガロア、黒板消しと決闘の人でしょっていうのは、さすがにその偉業を軽視している感がある。
「ガロア理論、体と群の対応付けとかそんな話らしいけど、わたしも全然知らなーい。5次以上の方程式は一般には代数的に解けないっていう事実は知ってても証明は知らないし。前に読もうとして、前提知識が足りな過ぎで諦めた」
「現代数学の扉を開くとともに、20世紀、21世紀の科学にあらゆる分野で絶大な影響を与えているって書いてありますね。具体的に何をしたのかはよくわかりませんけど、すごいことをしたのは間違いないと」
「具体的に何をしたのかが難しくてわからないから、結果、決闘で死んだ人でしょってなっちゃうんだよねー。死んでから200年経ってもその死因をいじられ続けるって、ガロアも不本意だろうねー」
「黒板消し投げた人でしょって、落ちた入試の話をされ続けるのはもっと不本意かと」
ガロア、すごい人のはずなのだが、ヤバい人のイメージが先行する……。
「影響を与えた人物の欄、錚々たる顔ぶれだよね。これ、影響を受けて黒板消し投げた人たちじゃないでしょ?」
リューヴィル、デデキント、ジョルダン、エルミート、ピカール。誰もが著名な数学者で、彼らが全員黒板消しを投げたわけがない。影響というのは、もちろん数学的な影響。
「いやぁ、ガロアの生涯ドラマ化されないかな。黒板消しのシーン、話題にならないかなぁ」
「されてそうだとは思いますけどね。黒板消しを投げるのが話題になって、学校でそれが流行りでもしたら、教師側は怒り心頭でしょうけど」
「それでガロアが有名になるなら、尊い犠牲」
「ガロアを黒板消しの人で定着させようとするのはいかがなものかと」
いや、もう僕の中では、ガロアと黒板消しは切っても切れない関係になってしまったけれど。将来ガロア理論を勉強することがあったら、『あぁ、これは黒板消しの人が考えたのか』とか思うんだろうな。
「あっ、でも、黒板消しを人に向かって投げるのは暴行罪にあたるから、良い子は真似しないでね」
「……それで締めるんですね」
本文中にあるように、黒板消しを投げる行為は犯罪です。良い子は(悪い子も)真似しないようにお願いします。