吹き抜ける風 窓辺の影
冬が終わり、春が訪れたとある朝。屋敷の周囲に広がる庭園には、草木の匂いが香り、時折囀る小鳥たちの声だけが響き渡る。
そんな庭園の落ち着いた雰囲気、それをぶち壊すような喧しい影が一つあった。その影は、草を踏み越え、地面の上にまで頭を出してる木の根を飛び越え、木陰の中を疾走する。それは、全速力で走る僕だった。僕は今、日課である朝の花の水やりの為に、裏庭へと向かっている。頭に載せた麦わら帽子が飛んでいってしまわないように抑えながらも、全力で走る。エマさんに、「落ち着きなさい」と、注意された昨日の今日で、このざまかと、思う人もいるかもしれない。
当然、僕だって、こんなふうに急いで走り回るのをよしとしているわけではない。だけど、ある理由があって、仕事に遅れそうになってしまったのだから、僕は急がざる負えないのだ。それは、僕が食堂で朝食を食べ、仕事へ向かおうとしたときの出来事だった。
食事を終えた僕は、朝の花の水やりへ向かおうとしていた。
席を立ち、食器を食堂のおばちゃんへと返すと、食堂の扉へと手を掛けた、その時だった。
「待ちたまえ!」
外へ出ようとした僕に、背後から声がかけられた。
その声に、不安を感じつつも振り返った僕の前にいたのは、エミリーだった。
「昨日は、よくも私を見捨ててくれたね」
エミリーはそんな事をいいながらも、笑顔でこちらににじり寄ってくる。その言葉と表情の落差が、僕にはなんだか妙に怖く感じられた。彼女は、そんな僕の気持ちを感じ取っているのか、真っ直ぐに僕の目を見つめたまま話し始める。
「まったくもって、あの後私は大変だったのだよ。 エマさんに叱られるわ、余計にたくさん仕事も頼まれるわ。 お陰で君に、話の続きをすることもできなかったじゃないか。 まだ、君との話は終わってなかったのに。」
そういえば、昨日は、諦めの悪いエミリーにしては、あの後一度も絡んでくることが無かった。確かに、そのことは不思議に思いつつも安堵していたのだけれど、そんな理由があったらしい。
「まぁ、それはもう済んだことだし、気にしてはいないよ? 全然、全く、これっぽっちも」
「その割には、引っかかる言い方をするんですね」
「そうかい、そういう風に聞こえるかい? でもね、それはきっと、君の中に罪悪感があるからなんだよ」
「罪悪感ですか……?」
「そう、昨日、わたしを見捨ててしまった罪悪感さ。 でだ、私は思うんだ。 その罪悪感に苦しむ君を解放してあげようと」
罪悪感などこれっぽっちも感じてはいないけれど、笑顔で語るエミリーの迫力に押されて、僕は何も言い返すことが出来なかった。
「うん、もう何が言いたいかわかっているよね? つまりだ、昨日の話、開かずの間の調査を一緒に行かせてあげようというのだよ。」
「いや、でも僕だって仕事があり……。」
「ダメだ。」
「忙し……。」
「ダメだ。」
有無を言わせぬ勢いで僕を巻き込もうとするエミリー。
僕は、部屋の隅に掛けられた時計をちらりと見てみる。そろそろ行かなくては、この後の遅れが取り返せなくなる時間になりつつあった。
「おやおや、何を見ているのかな?」
エミリーは、僕が時計を見たことを気づいたらしく、不敵な笑みを浮かべながら行った。
「これから、花の水やりがあるんです。 本当にそろそろ行かないと」
「うんうん、わかる、わかるよ。 行きたいよね。 なら、簡単な話だ。 私と約束してくれればいい、それだけでいい。 君は、約束は破らない男だということは、知っているからね。 なになに、簡単な話さ。 ただ今晩私に付き合ってくれればそれでいいんだよ。」
「いや、でも……」
そんな話を続けている間にも、時間はどんどん流れていく。エミリーの誘いに乗ればそれで終わりだろうけど、これまでの経験上、この話に付き合うと碌な目に合わないことを想像するのは難しくなかった。 そこで僕は、その時咄嗟に思いついた作戦を行動に移すことにした。正直、やけっぱちだけど、今はもうこれしかないのだ。
「ほらほら、時間も無くなってしまうよ? 私だって本当はこんなことしたくはないのだよ。 早く、はい、と答えるんだよ。」
エミリーがそう言って優しい目を向けてくる。だけど、僕はそんな目には騙されない。本当に優しいのなら、そもそもこんな無理強いをしないはずなのだ。
覚悟は決めた、僕はその作戦を行動に移した。
「あっ、エマさん」
その小さな呟きは効果てきめんだったようで、咄嗟にエミリーは背後を振り返る。
「ちがっ! これは違うんです! 私は、ただ……そう! 彼に仕事を教えてあげようとしていたんです。」
と、姿も見えないエマさんに何やら弁解を始めた。
僕は、エミリーが一人でエマさんの姿を探している内に、静かに動き出す。そして、少し距離を取ったところで一気に走り出した。
しばらく、走って曲がり角を越えた所で、僕の走り出した方から、「まったく、エマさん、いないじゃないかい。 あっ、あれ! どこにいった」と、叫び声が聞こえてきた。どうやら、逃げ切れたようだ。ともあれ、仕事にかけられる時間が少なくなってしまった事に変わりはない。僕は急いで裏庭へと向かったのだった。
そんなこともあって、僕は予定の時間よりだいぶ遅れて裏庭に辿り着いた。花壇に咲く花は、まるで僕が遅れたことを咎めるように、ゆらゆらと揺れていた。
僕は、慌ててそばにある納屋に向かう。そこで、如雨露を手に取ると、そこから少し離れた井戸へと水をくみに向かった。
井戸にはポンプが設置されており、このポンプを押すことで、水を汲み上げることができる。
僕は、如雨露をポンプの先に置くと、袖をまくり、力を込めてポンプを押した。流石に一年続けたこの仕事は、僕に取っては手慣れたもので、何一つ問題なく進む。はじめは、水は出てこない。しかし、しばらくポンプを動かしていると、少しずつちょろちょろと水が出てきた。はじめは弱かったその流れは、だんだんと勢いを増していき、最後には、如雨露を溢れさせんがばかりの勢いとなった。と、思ったのもつかの間、如雨露から水が溢れだしてしまう。少しばかり、勢いを強めすぎてしまったようだった。
ともあれ、僕は水の溜まった如雨露を持って、花壇の方へと歩みを進めた。水を零してしまわないように如雨露を持つ腕に力を込める。とはいえ、水は重く、またその形も不定形であるから、安定するということはない。更に、これは多少僕の無精もあるのだが、出来る限り水をくみに戻る回数を減らすために、如雨露からあふれんばかりに水を汲んでいる。それ故に、ゆらゆらと揺れる水面に常に気を張りながらの花壇への道であった。
どうにか、水を運び終えると、いよいよ花壇への水やりだ。
花の方へと如雨露を傾けると、その先端へと水が向かっていく。水は、如雨露の先端に取り付けられた小さな穴の空いた器具を通り、幾重にも重なる細いシャワーとなって花へと降り注いでいく。
しかし、花へと降りるつもりだったろう水のほとんどは、そのまま地面へと染みこんでいってしまう。残りの、運良く花の上へと落ちることのできた水は、花に染まり、葉に弾かれ、茎に沿って流れていく。そして、結局は、運悪く花へ注がれることの叶わなかった水と同じように地面へと溶けこんでいく。
僕は、そんな景色を眺めながらも、すべての花に均等に水が注がれるように苦心しながら、如雨露の向きを変える。
しばらく水をやっていると、如雨露からあふれる水の勢いが失われていく。これは当然の話だけど、一杯の如雨露の水では、結構な広さのある花壇全体に水をやることはできないのだ。そのたびに、僕は井戸へと向かう。そして、如雨露を再び水でいっぱいにすると、また花壇への水やりを再開する。
そんなことを何度か繰り返した果てに、僕は、ようやく花壇全体に水をやり終えることができた。
僕は、思わずふうと息をつく。単純な仕事であるとはいえ、いかんせん量も多く、結構たいへんな作業なのだ。だけど、その作業を終えた後に訪れる、この僅かな休憩の時間は、僕にとって大切なものだった。
僕の視界に広がるのは、花壇に植えられた色取り度の花々。今、その花々は、表面に広がった水滴が、太陽の光を散乱させるプリズムになりキラキラと輝いている。
もとより色とりどりのその花はまるで太陽の光を喜ぶように輝いていた。
この美しい様子を眺めるのは、実は僕の朝の楽しみだったりする。なにせ、この後は、一日、仕事が待っているのだ。僕にとってこの、水をやり輝く花を見つめる僅かな時間は、その日一日を乗り切るためのエネルギーを得るための時間なのだった。
とはいえ、今日は、朝の騒動のせいで、いつもより時間に余裕が無い。一日の仕事を頑張るための時間が、仕事を遅らせてしまっては、まさに本末転倒である。名残惜しくはあるが、僕は、次の仕事へ向かうことにした。
たっと向き変え、屋敷へ向かい歩き出そうとする。
その時だった。視界に映る木々が急にざわざわと鳴り出した。何事かと思い、立ち止まり、様子を眺める。その間にもその音はどんどん大きくなっていく。ざわざわと音を鳴らす木々は、大きくしなっている。
風が吹き始めた。僕が、そう気づいたのもつかの間、木々の隙間を一迅の風が吹き抜けた。
あたりの砂を巻き上げ、吹き抜けるその風の勢いに、僕は思わず目を閉じてしまう。吹き飛ばされそうになるぐらいに強い風だった。
だけどそれは、一瞬の出来事で、あっというまに風は吹き去ってしまった。
少し拍子抜けした僕だったが、すぐに頭の上の違和感に気付いた。それまでそこにあった感触がなくなっていたのだ。あれ、と思って手を向ける。そうやって、ようやく理解する。
「無い!」
思わず叫んでしまった。そう、それまで頭の上にあったはずの、麦わら帽子が、母からもらった大切な麦わら帽子がなくなっていたのだ。
風に吹き飛ばされてしまったのか、そう気付いた僕は、慌てて風の吹き去った方へと振り返る。
きょろきょろとあたりを見渡してみるものの、その帽子は地面には落ちてはいない。では、と思い空を見上げた僕の視界に、ひらひらと揺れる麦わら帽子の姿が映った。
風に吹き上げられたのか空へ向かって飛び上がった麦わら帽子。その姿は、まるでこっちだよーと手を振るかのように、ゆらゆらと揺れ、どこへ行くでもなく空を漂っていた。
僕は、麦わら帽子を見つけられて、ひとまず安堵の息を漏らす。だけど、そんな僕の安心に反するように、事態は悪い方向に進んでいた。そのまま地面に落ちてきてくれるだろうと思っていた麦わら帽子は、ふわふわと飛んで行くと、屋敷に立つ木から伸びた太い幹に引っかかってしまったのだ。
その不運に、思わず僕は愕然とする。だけど、その時の僕は、同時にもっと大きな衝撃に見舞われていた。
そこにあったのは、お屋敷の四隅、その一番東の果てにある塔の最上階。まさにエミリーが話していた、開かずの間の窓。
僕がじっと見つめる視線の先、その窓に、カーテンに映る黒い影を見つけてしまったのだ。その影は、まるでじっと、何かを見つめるように、微動だにせずそこにいた。まるで、枝に引っかかった麦わら帽子を、その細いカーテンの隙間から覗いているかのようだった。
僕は、まるで体が凍りついてしまったかのように、一歩も動かず、その影を見つめていた。
あたりは、風が吹き抜けていた先ほどまでの慌ただしさが嘘のように、静かになってしまっていた。
聞こえるのは、胸の中で響く僕の心臓の音だけ。どくん、どくん、となるその音だけが、僕の頭のなかに響いていた。
僕は思わずごくりとつばを飲み込む。その時だった、その影が動きを見せたのだ。突然、びくっと震えたかと思うと、人の姿に似たその影の、ちょうど首から上頭に当たるだろう部分が、まるでこちらを見るかのように動く。
僕とその影の視線が重なった。カーテンに遮られその影は、決して僕からは見えることはなかったけれど、それでも僕は、その瞬間、なぜかそんな風に感じた。
だが、僕がそう思ったのも束の間、本当に突然、その影はすぅっと消えていく。そして、その最後の一瞬、漆黒の幾筋かの流れが、ちらりとカーテンの隙間から見えたのが酷く心に残った。
あまりの出来事に、僕は呆然と立ち尽くしていた。しかし、数刻の時を間に挟んで、ふと、我に返った。
「なんだったんだ、今のは」
思わずそんな風につぶやいてしまったが、実のところ、その時には、すでに頭のなかにはひとつの答えが浮かんでいた。ひょっとして、あれが幽霊……。
それは、エミリーが話をしていた、例の姉妹が見つけたという幽霊。話を聞いた時には、正直全く信じてはいなかったけど、今、こうして実物を見てしまったらしい。
しかし、いざ本物を見てみても、恐ろしさとかそういうものを全く感じなかった。何せ今は、太陽が輝く明るい時間の出来事である。僕は、自分が今見た、幽霊のような何かに想いをはせつつ、暫くの間、影の消えていってしまった窓を眺めていた。
だけど、そうする間にも時間はどんどん過ぎていく。
僕は、次の仕事のことと、枝に引っかかってしまった麦わら帽子のことを思い出す。
麦わら帽子の方をよく見てみると、木に登っていけば、どうにか取ることのできる位置にあることを確認する。本当は、今すぐにでも帽子をとりに登りたいところではあったが、如何せん、次の仕事に追われていた。まだ一日始まったばかりでやらなければならないことは多い。
それに、今ここで焦って木に登るのは、危険だと思った。なにせ、登れないことは無いとはいえ、その麦わら帽子が引っかかっているのは屋敷の三階近くの高さがあるのだから。
仕事が終わった後、お昼の休憩になったら、帽子をとりに来よう。僕は、そう決めた。
麦わら帽子に、不思議な幽霊、気になることは多く、後ろ髪を引かれる思いはあったけれど、僕は、花壇に背を向けた。そして、次の仕事へ向けて走りだし、いや、急ぎ足で向かったのだった。




