一日の始まり
花壇を去って、まず納屋へ向かった僕は、如雨露を片付けると、急いで屋敷へと入った。
今日は、お屋敷の主人であり、僕の雇い主である、ローゼンハイムさんがお帰りになる日だ。
ローゼンハイムさんは、よく家を空けてどこか仕事に行っている事が多い。しかし、人がいないとはいえ屋敷を開けっ放しにするわけにもいかない。そのため、屋敷を開けている間の世話をするために結構な人数がここで雇われている。
僕もそのうちの一人として、ローゼンハイムさんの仕様人として、雇われている。だけど、まだまだ未熟で、屋敷の中の管理の仕事、具体的に言うと、掃除だったり、花の水やりだったりを任されるばかりだった。
屋敷横の通用口から屋敷に入ると、仕様人部屋がある。運が良いことに人がみんなで払っているようだった。しずしずと部屋に入ると壁にかかっている時計を覗き見る。思っていた以上に、針は進んでいた。だけど、急いだかいあって何とか予定には間に合いそうだった。
次の仕事は、ローゼンハイムさんの執務室の掃除。今日は、いつもと違って時間がたくさんあるわけではない、何せ、ローゼンハイムさんが帰ってこられる前に済まさないといけないのだから。
急いで部屋を向かうために、扉を開ける。
バタンと音が鳴ってしまい、少し強く開けすぎたかなと思ったけれども、僕は扉を抜けると駆け出した。
その時だった。
「待ちなさい」
厳しい声が、僕を呼び止めた。
聞き覚えのあるその声に、しまった、と思いながら振り返る。
僕を呼び止めたのは、全身を包む黒いドレスを着た女性だった。顔には、表情を隠すような眼鏡が乗っていて、その下に隠れた瞳がぎろりと僕を見つめている。彼女のその目つきに、僕は思わず凍り付くような思いをした。
この人は、エマトルーソンさん。このお屋敷の仕様人のリーダーをやっている。仕事熱心で、ローゼンハイムさんの信頼も固い、とのことだ。もう一つ付け加えると、僕が初めてこのお屋敷に来たときから、ずっと仕事を教えてくれた人でもある。
噂では、このローゼンハイムさんがこのお屋敷に来る前から、ずっと付き添っている方だという。そんな事もあって、この人は、このお屋敷では一番の古株で、おまけに頼りになる素晴らしい人でもある。
だけど、僕は、この人がどうも苦手だった。
それがどうしてかというと、この人は僕にだけやたらと厳しいのだ。
ちょっとした時間のずれや、不注意、果てや他の人なら済まされることすらも、なぜか僕だけは厳しく注意される。
そのエマさんが、僕の方を咎めるような目つきでじっと見つめているのだ。
「あなた、聞こえているのですか?」
「はっ、はい、どうかしたのですか」
「どうかしたではありません。 あなた、そんなに慌ててどうしようというのですか? ドアの開閉の際は音を立てるなと口を酸っぱくして言っていますよね。」
「いえ、これはちょっと急いでいたもので」
「急いで? それはまた、どうしてですか?」
またしても、しまった、と思う。これでは、遅れそうになっていたことを言わなければいけない。きっと、また厳しく言われるだろう。
「いえ、あのそれは……」
口ごもる僕に、更に鋭い視線が向けられる。
「言いなさい」
有無を言わさぬその口調に、僕は黙っている事は出来なかった。
「はい……、実は花の水やりに時間をかけすぎて、少し遅れてしまいそうで」
エマさんは、はぁと小さくため息をついた。
「前から言っています。 仕事は、余裕を持って行いなさいと。 どうせまた、気を抜いていたのでしょう。 もっとしっかりしなさい」
「はい……」
「元気がありません! 返事をするときは、もっとはっきりと!」
「はい!」
「ではいきなさい。 時間が無くても慌てない。 そういう時こそ、しっかり考え落ち着いて行動する。 それを常に意識して働きなさい」
「はい!」
教えられたとおり、はっきりと返事を返すと、エマさんは納得したようで、歩いて行ってしまった。
厳しい人だけど、何かあるたびに僕の事を気にしてくれている。いい人だとはわかるのだけど、それでもどうにも苦手な物は苦手なのだ。
いきなりの事で、少し驚いてしまっていた僕だったけど、再び急いで、とはいえエマさんの教えを守り走る事はせず早歩きで執務室へと向かった。
この通路の先を、角を曲がった向こうに執務室がある。
そこは、窓から差し込む光に照らされた薄暗い部屋で、部屋の両脇には、本棚があり、そこには、たくさんの本が並んでいる。
部屋へ入ると、僕は急いで掃除に取り掛かった。
先ほどエマさんに言われた言葉を胸に、掃除に取り組む。
ひらひらと揺れる布きれが先端についた棒で、高い所の埃を叩き落としていく。雑巾を固く絞り、棚を拭く。そして、 最後に床に落ちた埃を集めていく。
ふうっ。小さく息をつき。額にたまった汗を袖で拭う。ようやく掃除が終わった。壁にかかる時計を見てみると、お昼 休憩の時間の前だった。お昼休みに合わせ作業を終わらせようとしていたのに、集中して作業に取り組んだせいか、思っていたよりも時間は過ぎていなかった。
やる事もなく、とはいえ休憩を取るには早すぎる。正直、その微妙な時間を僕は持てあましていた。
結局、僕は、薄暗い部屋の中、本棚に並ぶ書籍を眺めるぐらいのことしかできなかった。
良く考えてみると、このお屋敷に来て一年たったが、こうやって真面目に執務室の本棚を眺めるのは初めてだった。
そこには、知らない言葉が背表紙に書かれた本だったり、読むことは出来でも、理解できないような難しい本がずらりとならんでいた。興味は、引かれたけれど、勝手に手を出すのは躊躇われた。
そうやって、並ぶ本棚の横を歩きながら眺めていく、と僕が丁度部屋の入り口の角に隠れた本棚に目を向けた時、一冊の本が目に入った。
その本自体に特別な興味が沸いたわけではなかった。ならどうして僕がその本を見つけたのかというと、綺麗に整頓された本棚の中で、唯一本が、傾いてしまっていたからだった。
頑張って綺麗にした部屋、最後までやり通したい。そう思った僕は、その本を棚へ戻そうと手を伸ばす。僕の身長よりも高い所にあるその本は、頑張って手を伸ばしてどうにか指先が届くかといったところだった。
「ぐっ……、もう少し」
そうやって必死に手を伸ばす。何とか指先が本をかすめる。
それから、何度もぴょんぴょんはねながら、本を仕舞おうとする。そうこう努力している内に、ちょっとずつ手が本に届いてくる。あと少しだ。そう思った僕は、ぐっと足に力を込めて、一気に飛び上がった。
あっと思った時には、後の祭りだった。勢い余った僕の手は、その本を飛び越えてしまった。それだけなら良かったのが、なんと指がその本に引っ掻かってしまったのだ。
僕は床に落ちると、勢い余って、転びそうになる。だけど、トン、トトンと、不細工なステップを踏んで、どうにか体勢だけは立て直した。
ふう、と一息安心した僕だったけど、その直後、頭に衝撃が走った。
突然の衝撃が襲った頭を押さえる僕の横に、ばさっと派手な音を立てて一冊の本が落ちた。
棚から落ちてきた本が、頭にあたったようだ。
「いてて……」
本がぶつかった痛みをこらえながら、僕は慌てた。本に傷がついてしまったのではないか。
痛む頭も放って、僕は落ちた本を手に取る。そして、ぐるぐると回すようにその本を見回した。幸いなことに、落下の衝撃で本が傷付いてしまったという事はなさそうだった。
それに安心した僕は、その本を棚に戻そうとする。本棚に手を駆けた時、ふとその手に握った本へと目が向いた。僕は、すぐにその本を本棚に戻すことは出来なかった。その本に目を奪われてしまっていたのだ。
その本は、明らかに異質な本だった。だけど、それは別に、何やら怪しい魔術が乗っているとか、そういうわけではない。なら、何を僕が異質だと感じたのかというと、その本の場違いさに対してだった。
真面目そうで堅苦しい本が収められていた本棚にあった、この本の異質さ。その理由は、その可愛らしい表紙である。小さな女の子が、動物に囲まれて座っている。その表紙はまるで、女の子が読むような御伽噺だ。僕は気になって、ちらりと、ページをめくってみた。そこには、まさに表紙が表しているような内容が描かれていた。
しかし、どうしてこの本がこんなところにあるのだろう。自分の知っている限り、ローゼンハイムさんはこういった本を読むような人ではない。とはいえ、ローゼンハイムさんに、子供がいるなんて話は聞いたことが無い。
いくら考えても答えは出てこない。
そして、そんな事を考えている内に、ごーんと時計の音が鳴った。ふと、時計の方を見るとお昼の時間がきていた。
掃除も終わったこの部屋で、これ以上する事はもうない。本の事は多少気になったが、ここで考えたところで何かわかるわけでもないし、僕は食堂へ向かう事にした。




