始まりの思い出
この世界には、決して交わらない物がたくさんある。
例えとして一つ挙げて見るなら、今まさに目の前にある、まっさらな青と、澄んだ白。つまるところ、空と雲、だ。彼らは、いつも隣にいる、どんな時でも、まるで仲の良い友達のようにそばにいる。だけど、そんな彼だでさえも、決して混ざりあう事は無い。空を眺めて、そんなありふれた景色を眺めていると、それだけで、何とも言えない不思議な気持ちが沸いてくる。
じっと眺めていてもちっとも動きがわからないのに、実は風に揺れて少しずつ姿を変える雲。
上を見上げれば常にそこにあり、何も変わらないはずなのに、気がつくと色を変えている空。
全然違うはずなのに、どこか似ているところもあって、そして、いつも隣り合っているこの二つ。
そうなのに、そうであっても、空と雲は決して交わる事が無い。その間には、やっぱり境目がある。
やっぱり不思議だ。
空を見上げて、僕は一人そう思う。
今、僕がいるのは、ローゼンハイムの御屋敷、その裏庭。この時間に、ここで育てている花の水やりをするのが、僕の日課だった。
このお屋敷は、たくさんの人が住み声が溢れる街並みから、少し離れた小高い丘の上にある。昔からずっとここにあるけれど、実は、10年前まで、住む人がいない荒れ屋敷だった。それまで荒れ果てていたそのお屋敷は、10年前に大改装が行われ、結果今のような立派な姿を取り戻している。
古くからある割には、人の住まうお屋敷の歴史はまだまだ短い。なにせ、そんなお屋敷で僕が働くことになったのも、まだ去年の出来事なのだから。
幼いころに母を亡くし、父親もいなかった僕は、今もこのお屋敷から見える町で地道に生きていた。
そんな僕がひょんなことで、このお屋敷で雇われることが決まった。あれやこれやとしている内に、時は過ぎ、気づけばこのお屋敷へ上る坂道を歩いていたのが、丁度去年の今頃だっただろう。
その日も、今日のように空と雲が浮かぶ晴れ晴れとした日だった。
初めてここへ来る、僕の心の中は、不安でいっぱいだった。
何せ、この人里から離れたお屋敷は、町でも変な噂でもちきりだったし、何より僕みたいな人間が、こんなお屋敷でちゃんと働いていけるかわからなかったから。
それも、今となっては、何をそんなに不安に思っていたのか逆に聞いてみたいぐらいだけど、その時の僕は、言い知れない不安で、心が押しつぶされそうだったのを、今も覚えている。
屋敷へついて、最初の仕事として、裏庭の水やりを任され、この裏庭に来たことは今でもよく覚えている。
母親に貰っていた、大切な麦わら帽子を頭の上に乗せ、両手で水の入った如雨露を持ってここまで歩いてきた。如雨露に入った水は、僕の歩みに合わせて今にも溢れだしそうに揺れていて、それは、その時の不安でいっぱいな僕の心のようだった。
風に揺れる花に水をかけ始めると、花はさらに大きく揺れる。
しんしんと揺れる花と、水の輝きが見せる虹。大地が黒く染まっていく。水が地面へと溶けこんでいく。
そんな光景を眺めていると、だんだんと心の中の不安もまた、地面に溶けていってしまうようだった。
そして、僕は気付く。ここは、怖い場所だと思っていたけど、どこでも花は変わらないのだということを。
花に水をやるあいだに、僕は、少しだけ前向きになれたのだと思う。
頑張ろなければいけない、そう思って、お屋敷へと目を向ける。
晴れ渡る空と、浮かぶ雲、気持ちがいい風が吹く。そこにあったのは、二階建ての大きな屋敷だった。その大きさに、やっぱり気持ちは遅れてしまう。だけど、そんな事は言ってられないのだ。
ここで働くんだ、と強く思って、ぐっと強く手を握った。
しばらくじっと、そうしていたけれど、やがて、ぴぴぴっという鳥の歌が聞こえてきた。思わず緊張がとけて、あたりを見渡す。その時になって、ようやく気づいたのだけれど、この花壇は、すごく心が落ち着くところだった。
とても静かで、咲く花は美しいかった。僕は、いつまでもここにいたいと思った。ここは、これまでと、これから先に待っている苦労とは無縁の場所に思えたのだ。だけど、いや、だからこそ、いつまでもここにいてはいけないのだ。なにせ僕は、これから新しい一歩を踏みだすのだから。
考えていてもしょうがなかった。僕は、僕の一歩を、屋敷へと向かう道を、踏み出した。
その時、一つ気になることがあった。
屋敷へ戻ろうと振り返った、時の僕の視界の端、お屋敷の三階、小高い塔の一番上の部屋のカーテン。それが、ちらりと揺れていたのだ。
僕は少し不思議に思った。なぜならその部屋の窓は、風の吹きこむ隙間もないほど、ぴっちりと閉じられていたはずなのに。
木の葉の隙間から、キラキラと太陽の光が差し込む。僕はその光を目に受け、はっと我に返った。
ずいぶんと長い間、昔のことを思い出していた気がする。
あの日から、一年がたった。この一年の間で、仕事への不安こそなくなったものの、一年という期間は、このお屋敷では決して長いものでない。今日もまた、やらなければならない仕事は、まだたくさん残っていて、あいにくと、僕は仕事がはやい方ではない。
しまった、このままでは、また怒られてしまう。そう思った僕は、慌てて屋敷へと戻る道を走りだした。
だけど、走りだそうとしたその時、僕は足を止めていた。あの時、どうしてカーテンが揺れていたのか、それが不意に気になったのだ。僕は、そっと振り返った。
人気が無くなった裏庭の花畑、そこには一年前、僕が屋敷を訪れた時と同じように、美しい花が咲いていた。
三階にある窓へ目を向ける。ぴっしりと閉じられた窓、その奥には、いつものようにカーテンが見えた。これまでも、時々、あのカーテンを見ることはあった、だけど、これまでカーテンが揺れている所をもう一度見ることはなかった。
今日も、これまでと同じようにカーテンは、ぴくりともせず、静かに僕を見下ろしているだけだった。