迫り来る運命の時間
ここは保健室のようだ。
『長い悪夢でも見ていたのだろうか……』
ボーっとした頭で、うっすら目を開いて見える景色。薄暗い室内は、カーテンが閉まっているせいだけではないのだろう、雨が叩き付けるような音が聞こえている。それでも異性との思い出が無いのだから、魔女に襲われ続けたことは現実なのだろう。意識を失う前に雨が降り始めていたのを思い出して目を閉じる。
『――敵わなかった。』
そこそこ強い自信はあったが、あの魔女には一太刀も浴びせる事が出来なかった。あれだけの動きをされてしまうと、目を患う前の僕だったとしても敵わなかっただろう。
もう諦めるしかないのだろうか。それともまだ何か手が有るのか。あの子を救う手段がまだなにか。それとも、いっそ二人で……。
そこまで考えて、左半身にかかる重みと温もりに気付く。
軽く頭を傾けると色の薄い髪の毛が見えて、また怖い夢でも見て潜り込んだのかなと、微かに残る記憶に落ちて行く。ほどけて波打つ綺麗な髪を撫で、その心地よい感触にホッとしながら身を委ねていく。
髪を撫でたことで起こしてしまったのか、もぞもぞっと動いたかと思うと、彼女が顔を上げる。
「んっ、おはよう」
そう言った彼女のあどけない顔に、懐かしくも幼い笑顔が被る。
そうだ、君は僕の大切な、愛して止まない最愛の人だ。決して忘れる事を許さないこの思いは、僕の生きる糧でありそれだけに強く、何者にも穢されるものではない。
何度こうしたいと思ったことか。愛おしいその体をそっと抱きしめ、その滑らかな肌の温もりに溺れる。溺れながらも覚醒していく意識の中で挨拶を返す。
「おはよう、悪い夢は覚めたかい?」
その言葉を聞いた彼女はハッとして体を起こし、掛けていたタオルケットを床に落としてしまった。
僕の腿の上に跨って座る彼女は、その身に何も着けておらず、小振りだが張りのある胸や引き締まった腰をさらしてしまい、その透き通る肌に僕の目は釘付けとなり、下腹部が恥ずかしい事になってくる。
何か言いかけた彼女は二人が裸であることに思い至ったのか、腕で胸を隠しつつ声にならない悲鳴を上げ、うずくまるように覆いかぶさってくる。どうしてこんな格好でいるのか記憶になく、なんと声をかけて良いのか迷ってしまう。
二人の時が止まっていたのは数秒か数分か。それでも、このままでいること自体が問題であり、いったん離れてもらわないと理性が飛んでしまうかもしれない。
うずくまるその肩にそっと手を掛けると、彼女はビクッと体を固くする。
「ごめん。その、目をつぶるので降りてもらえないだろうか」
努めて冷静を装ったうえで目をつぶると、こちらを窺うようにゆっくりと上から降りる気配がする。
「ごめんなさい。あの、服が濡れてしまっていたし……。体が冷たくって……。死んでしまうんじゃないかって心配で……。その、他意はなかったのだけれど……」
ベッドの下から聞こえるその声に体を起こし覗き込むと、落ちたタオルケットの上に胸を抱くようにして、耳を真っ赤にした彼女が座り込んでいた。その背中から臀部にかけての曲線に、先ほどの光景が浮かんでしまい目を背ける。
反対側に顔をやると、そちら側のベッドは誰も居なかったので移動し、後ろ手に間仕切りのカーテンを閉める。見ず知らずの女性の裸に、素直に反応した自分が恨めしい。
『見ず知らず? 本当にそうなのか? 大切な人ではないのか?』
僕の中の誰かが、思い出せと激しく僕を攻め立ててくる。
◇ ◇ ◇ ◇
またやってしまった。なぜ私はこんなに間が悪いのだろうか。
昨晩の戦いで、翔真はまた魔女に刺されてしまった。それは三度目でもあり、他の二人が砂に変わったのを見せつけられていたので、死んでしまうのではないかと思った。だから、せめて死ぬなら共にと駆け寄ったのだけど、それを遮る様に突然雨が降り出した。
甲高い笑い声を残して魔女が消えた校庭には、ずぶ濡れになった私たちしか残されていなかった。
翔真は膝をついた状態で、それでも砂にはならずにいてくれたけど、声をかけても聞こえていない様で、肩を貸して校舎に戻るのが精いっぱいだった。このまま五階までは上がれないので、向かう先を保健室に変えてなんとか辿り着くと、翔真をベッドに横たえた所でへたり込んでしまう。
教室に行って体操着かジャージでも取ってこようとも考えたけれど、夏休みに入る前に持って帰ったのを思い出す。でも、このままのずぶ濡れでは風邪をひいてしまう。
「翔真しか居ないんだから問題ない」
そう声に出して覚悟を決めて着ているものを全て脱ぎ、軽く絞って備え付けのハンガーに干すと、棚に在ったタオルで体を拭いてシーツを体に巻きつける。
もうろうとしている翔真にも脱ぐよう促して、私が手伝って脱ぎ終えた彼の服も全て干す。寝かせていたベッドは湿ってしまっていたので、下の方はなるべく見ない様にして、体を拭いてあげてから隣へ移動させてタオルケットをかける。
倒れ込む様に横になって意識を失った彼の体は、ひどく冷たくて息も荒く、このままでは風邪をひいてしまうだろうし、肺炎になっても医者にかかる事が出来ない。翔真の為だと自分に言い聞かせて、シーツを脱いでそっと翔真のベッドへ入り、抱き付くように体温を移していく。
しばらくすると翔真の体が温かくなり、息遣いが穏やかになってきた。これで翔真は助かると思うとホッとした。そして、意識のない今しか抱き付けないのだと思うと、涙が止まらなくなり泣き疲れて眠ってしまった。
夢を見ていた。
幼い頃はよくいじめられ、翔真が助けてくれていた。私が泣いてしまうと、泣き止むまで抱きしめて頭を撫でてくれていた。怖い事があっても、翔真といれば恐れるものは何も無かった。
泣き疲れて眠ってしまった私に、翔真があの頃のように優しく接してくれている。そんな幸せな夢を見ていたので、素直に彼の目を見て「おはよう」が言えた。
肩に回された手の感触が心地よいけれど、夢にしては妙に生々しく、腰に手を回され抱きしめられて、これが夢ではない事に思い至る。そして、忘れてはいけなかったことを思い出した。
そう、今二人は何も身に着けていないことを。
先に起きて身支度を整えておく必要があったことを。
裸であるにもかかわらず、それを気にした様子も無く抱きしめられている事実にビックリして、彼の言葉も耳に入らず体を起こしてしまった。
見せてしまった。そして、触れてしまった。これじゃ痴女じゃない……。
あの時の失敗を無かったことにした罰なのか、更にひどい失敗をしてしまった。恥じらいの無い女だと完全に嫌われてしまっただろう。冷たい声に言われるがままベッドから降り、思わず座り込んでしまった。翔真の発したその声に胸がえぐられるようだった。
◇ ◇ ◇ ◇
見てしまったことを彼女は怒っているだろう。恥ずかしいのを我慢して僕を助けてくれただろうに、反応してしまうなどと恥知らずな事をしてしまった。
ふと、干してある服が目に入る。僕のだけでなく彼女の下着もあった。
なるべくそちらを見ないように服を着ると、カーテンの向こうに声をかける。
「申し訳ない、先に服を着させて貰った。えっと、廊下に出ているから君も服を着てくれないか」
するとカーテンの向こうから、彼女の消え入るような声が聞こえる。
「あの、部屋からは出ないで。お願い……」
僕は「わかった」とだけ答えて、薬品棚の前に移動しベッドに背を向ける。
カーテンの向こうから衣擦れの音が聞こえてきて、さっきの光景がまた思い出され、心臓が破裂しそうなくらいバクバクする。
頭を振って忘れようとするが、すればするほど鮮明に思い出してしまう。本当に僕は恥知らずな人間だな。
やがてカーテンが開き彼女が現れるが、俯いたままベッドの脇に立ち尽くしていて、僕が振り返っても顔をあげてくれない。
「いろいろと、ごめん。助けてもらったお礼もしていないのに。その、嫌な思いをさせてしまって……」
そう頭を下げる。
「――私の方こそ、恥じらいの無い女だと軽蔑したのではないの?」
「助けてもらって感謝している、本当にありがとう。僕の方こそ変に反応してしまって、その、軽蔑されたんじゃないかと……」
言いよどみながらも感謝と謝罪を述べると、彼女は親を見つけた迷子の様な表情で僕を見つめ返す。
「軽蔑なんてしないわ。翔真は私の大切な人で、そばに居られるだけで幸せなんだから」
「それなら良かった、ホッとしたよ。その、問題なければ音楽室に行かないか? パンでも食べようよ」
手を差し伸べると嬉しそうに近づいてきて、その手をそっと握り返してくる。
どうやら、本当に嫌われた訳では無いようなので胸をなでおろすと、慎重に様子をうかがいながら手を繋いだままで音楽準備室に入り、持ち込んでおいたパンを取り出す。
その内の一つチョコ・コロネを彼女の前に置くと、思った通り不思議そうに僕を見返してくる。
「もしかして、記憶が残っているの?」
「だらしない事に君の名前が思い出せないけれど、断片的には残っている。二人で音楽準備室にいたことも、襲われる度に助けてくれた事も、たぶん幼い頃の君だと思うけど、泣いている女の子をなだめながらそのパンを探して、何軒もお店を回ったこともね」
恥ずかしかったが、驚く彼女に思いを告げることにした。
「どんなに記憶を奪われたとしても、その綺麗な髪色は決して忘れはしない。だから、この子を絶対に守るんだと、それが僕の存在意義なのだと心が訴えるんだ」
すると、彼女は僕の胸の飛び込み「うれしい」と言ってくれたので、告げてよかったと思った。
しばらく抱き合ってから並んで座り直すと、パンを分け合って食べてお腹を満たす。
残った男はおそらく僕一人のはずだ。
これで最後と言っていたのに生き延びているのだから、これ以上は襲われることが無いのかもしれない。それでも元の世界に戻っていないところを見ると、標的が女子に変わった可能性を否定できないでいて、この子を守るための手段を講じる必要があると思った。
今後の行動を考えあぐねていると、廊下の方から女性の甲高い悲鳴が聞こえてくる。
慌てて飛び出した廊下に人影は無く、中庭に面する窓に近づくと、向こうに見える隣校舎二階の廊下に女子の姿が見えた。その子たちが見ているのは更に下だった。
降りしきる雨にかまわず窓を開いて覗き込むと、視界に飛び込んできたのは惨劇。
雨にぬれる中庭には血の川が流れ、血まみれの女の子が倒れている。そして、裂かれた腹から引きずり出した内臓を食らっている魔女がいる。
「女は、食われるのか」
そう呟いてしまった僕に、言葉も無く蒼白な顔の彼女がしがみついてくる。その震える体を抱きしめ、考えに没頭する。
『まずい、どうすれば彼女を守り切れる』
手詰まり感が否めないまま時間だけが過ぎるなか、「バン!」という音が聞こえて我に返ると、食い散らかした死体を残して魔女が中庭から姿を消していた。
『次の獲物はこちらか? それとも二階の』
そう思って二階に目をやると、すでに窓ガラスが血に染まっている。
「ここじゃ不利だ、移動しよう」
そう声をかけて促すと、抱えるようにして廊下を走り出す。
目指すは同じ階に在る理科実験室。水道やガスなどが机に引かれている為、完全に固定されていて動かない。うまくすれば障害物として、魔女の早い動きをある程度は制限できるかもと考えたのだ。
わずかな望みをつないで駆け込むと、硝酸などが収められた棚に向かうが、劇薬物が収まった棚は施錠されていて開く事が出来ない。見回した先で目に留まったのはアルコールランプで、ランプを投げつけて火を放てば、足止め効果くらいは期待できるだろうと、アルコールランプをかき集めて奥の机に並べ、その後ろに陣取って運命の時を待つ。