挿話:一番近くの傍観者・8
今野さんが異動になった次の月曜日。
俺は密かに加山さんが泣き腫らした顔でくるんじゃないかとか心配していたにも関わらず、あの人はいつも以上に「鬼」だった。
長い黒髪には当然寝癖など無く、背筋を真っ直ぐ伸ばして、絶え間なく聞こえてくるキータッチ音。しかも能面。
今野さんがいないからか、休憩に喫煙所に行く事もない。
淡々とパソコンだけに向き合い、電話が鳴ればワンコールで出るくらいの勢いがある。
仕事中はこっちがデフォルトの加山さんだって知っているけれど、落差というか、なんだろう。冷ややかさがハンパ無いです。
しかも笑顔ゼロ。
「随分おっかない顔して仕事してんな、加山」
からかうように声を掛けた石川さんに、能面のまま首を傾げる。
「そうでしょうか。特に意識はしていませんでしたが、もう少し柔和な表情になるよう気をつけます。ところで石川さん、先日のデータなんですが……」
冗談を言うつもりも無いようです。
表情の篭らない視線のまま淡々と石川さんになにやらデータの整合性の取れていない部分を説明し、すごすごと石川さんが自席に戻っていく。
それを見ていた田島さんはパーテーションの向こう側で肩を揺らしている。
--石川さん追い払われたね。超面白いんだけれどっ。
--あれは追い払われてたんですか? それにしても加山さんが怖いんですが。
--怖い?
--だってにこりともしないんですよ。あれはロボット加山でしょうか。人間には思えませんっ。
パーテーションの向こうで、田島さんがくすくすっと声を上げて笑う。
そんな田島さんをちらっと加山さんが見たので、田島さんはバツの悪そうな顔をして席を立つ。
特にお誘いが掛からなかったから、まあいっか。
あまりの人間離れした仕事っぷりに、飲みメンバーの一人でもある一担の先輩社員さんにメッセンジャーで加山さんが怖いと愚痴を送る。
すると戻ってきたのは。
--それが加山さんの本性だから。耐えろ。
一緒に半年仕事していた人が言うのだからそうなのだろう。
恐るべし、阿吽。
火曜日も水曜日も木曜日も、加山さんは加山さんだった。
何も変わらず淡々と仕事をこなしている。
あまりに仕事がスムーズに進みすぎたのか、書庫の整理までしてくれたくらいだ。
決裁番号順にファイリングされているはずが、持ち出したりして違うところに混じっていたものなどを分別して戻したり。
加山さんの仕事っぷりには無駄が全く無いです。
一人で二人分の仕事が出来るというのが、担当長の村田さんの加山さん評だけれど、マジでそうだと思う。
前の派遣さんの桐野さんや鹿島さんが仕事が出来ない人だったというのではなく、加山さんが異常なまでに仕事が早いんだろう。
そんな加山さんのパソコンを叩く手が、ふいに止まった。
途切れた音に違和感を感じて加山さんを見ると、ふっと口元を綻ばせた。
超希少価値のある笑みです。
一体何があった、加山さんに。
体を伸ばすフリをしてパーテーションの向こう側の加山さんを覗き込むと、どうやらメーラーが立ち上がっている。
何かのメールを見て笑ったのかな。
ここ数日笑うということさえなかった加山さんを笑わせたメールって何だっ!?
まあ、聞いても教えてくれないでしょうし、聞いたら覗いていたってバレるんで聞きませんが。
加山さんが笑うほど面白いメール?
いや、社内メールにそんな面白いメールなんて無いだろうし。
でも加山さんの雰囲気が二割くらい和らいでいる。
それはパソコンを叩く音がいつもよりも優しくなっているからそう思うんだけれど、カツカツ鳴る音がさっきよりも小さい。テンポは同じなのに。
どことなく取っ付きやすい加山さんに変身している。
そんな加山さんの日常は、社内メールで関西に行った今野さんのもとへと届けられる。
っていうか送ってんの俺だけどね。
けれど特筆すべき点も無く、本当に日々淡々と、ただ淡々と毎日が流れていく。
まるで今野さんがここにいなくても平気なような顔をして、加山さんは「鬼」としてその尋常ならざる仕事っぷりを存分に発揮している。
こういう仕事をしている加山さんだけを見ている場合、惚れる要素がどこにも無い気がする。
今野さんはどんな時に加山さんの可愛らしさに気がついたのだろう。いつか聞いてみたいもんだ。
そんな風に考えてたら、思いのほか早くその機会は訪れた。
八月の終わり、こっちの本社との打ち合わせがあったとかで、夕方、今野さんがその足で支社にやってきた。
久しぶりに今野さんが営業課に姿を現した瞬間、加山さんの表情が固まった。
多分何も聞いてなかったんだろう。
目をまんまるくして、一担長の伊藤さんと話しているのを見ている。
久しぶりに加山さんが表情変わるの見たな。
椅子を動かし、呆然としている加山さんの隣まで近寄る。
「びっくりしてます?」
俺の声にびくっと肩を震わせて、加山さんが俺の顔を見る。
「あ、えっと、あの、はい」
「今日来るって知らなかったんですか?」
「こっちに来ることは知ってたんですけれど、支社に来るなんて聞いてなくて」
こそこそっと体を寄せて話していると、どこからか視線が。
うん、わかっています。近すぎですよね。
今野さんの視線には気がつかなかったかのような顔をして、そのまま加山さんに話しかける。
「……加山さん、顔、赤いですよ。少し休憩してきたらどうです?」
慌てて加山さんは両手で頬を押さえ、いつもの機敏さとは違った敏捷さでパソコンにロックを掛けて、お財布とタオル片手に営業課の部屋を出て行く。
じーっと俺を見る視線を未だ感じるので、今度は今野さんと目を合わせる。
視線を喫煙所のほうへ向け、そのまま自分のパソコンの前へと椅子を戻す。
お膳立てしてあげましたよ。どーぞどーぞ、思う存分いちゃついてきて下さい。じゃないと、加山さんが仕事になりそうにありませんから。
しばらくして戻ってきた加山さんは、ちょっと頬が赤いけれど、それでも平常心を取り戻してその後は淡々と仕事をこなしていく。
加山さんがぶっ壊れるのは、多分この後だろう。
飲み会するぞメッセンジャーが飛び交っているから。
いつものメンバーのいつもの飲み会。
今野さんの送別会以来飲み会に顔を出さなかった加山さんも今野さんがいるので、飲み会参加。
相変わらずな二人だけれど、今日は二人は少し離れたところに座っている。
というか、みんなが今野さんの話を聞きたがって、末席に座っている加山さんのところまで戻ってこられないのかもしれない。
それでも加山さんはいつもよりずっと鬼要素が少ないし、どことなく嬉しそうだ。
全く飲み会が嫌いというわけではなく、今野さんに余計な心配は掛けたくないというスタンスを貫き通して飲み会には一切参加していない。
多分加山さんが行きたいと言えば、今野さんはダメだなんて言わないだろう。
本音としては行って欲しくないと思っていても、いいよって言うに決まっている。
「良かったね」
「はい」
荒木さんの問いかけに、加山さんが笑みを向ける。
あ、笑った。
やっぱり今野さんがいると笑うんだ。
実は今四担と五担では誰が加山さんを笑わせられるかを競って賭けている。
が、どんな冗談を言っても笑ってくれないので、これはもう無理かと思っていたけれど、やっぱり今野さんがいれば笑うのか。
賭けが成立しねえ。
「会ったのは久しぶり?」
問われた加山さんの目が泳ぐ。
んー。その反応、久しぶりじゃないと見たっ。
「どーせ今野さんのことだから、毎週加山さんに会いに帰ってきてますよ、絶対。今日は時間があったから職場にも行っちゃおうかなーみたいな感じに違いないですよ」
少々投げやり気味に言ったのを、クスクスっと田島さんが笑う。
「ってウォッチャーは言ってるけれど、どうなの?」
「えっと」
少しだけ頬を赤く染め、加山さんが助けを求めるかのように今野さんのほうを見る。
けれど今野さんは全く気がつく様子は無い。
「色々、決めないといけないこともあるので」
少し俯き加減で言った加山さんの返答は、俺の予想を肯定するものだ。
絶対そうだと思ってた。
「決めることって?」
おおっ突っ込むなぁ。荒木さん。
「家のこととか、それからその……」
「結婚の事とか?」
「……はい」
恥ずかしそうにしている加山さんにふふっと荒木さんが笑い声を上げる。
「日にちはもう決めたの?」
「それがまだ決まっていなくて。彼がこっちに戻ってきてからのほうがいいのか。それとも向こうにいる間のほうがいいのか決められなくて」
「式はこっちでやる予定なのよね。そっか仕事絡みの人を招待するとなると、どっちのほうがいいのかって悩むわね」
相槌を付いた荒木さんに加山さんも頷く。
「そもそも向こうでお世話になっている上司の方とか先輩方も招待するとなると、式も披露宴も向こうでやったほうがいいのかなとか思えてきて。ご両親も向こうにいらっしゃるので」
「そうね。難しい問題よね。会社の関係を呼ばなければ済むんでしょうけれど、いつものメンバーは呼ぶつもりだったんでしょ?」
「はい。なので、昔の職場の人は呼んだけれど今の職場の人は呼ばないというのも問題かなって」
「うーん。そうねぇ」
荒木さんが深い溜息を吐き出す。
結婚式ってするぞってだけじゃないんだなって二人の会話を聞いていて思った。
結婚しよう。はい。だけで終わりじゃないんだな。
職場結婚ってのも、なかなか面倒だな。しかも加山さんと今野さんは遠距離だから職場も違うし離れているし。
「まあ二人でよく話し合って。もし向こうでやるにしても、私は参加するわ」
荒木さんがにっこりと加山さんに微笑み掛ける。
今野さんの同期だからなのか、荒木さんは結構二人のことをガッツリ応援している。
「ありがとうございます」
「だって私以上に同期代表でスピーチに適役の人間なんていないでしょう」
「荒木には喋らせないよ」
すっと会話に混じってきた今野さんが加山さんの隣に座る。
誰が言ったわけでもないけれど、気を遣って加山さんの右隣はぽっかり空いていた。
「なーんーでーっ。私じゃなかったら誰が喋るっていうのよっ」
「寺内」
「ちょっと何でよ。寺内っ。その役私に譲りなさいよ」
「俺を巻き込むな」
寺内さんは冷たく切り返し、ぎゃーぎゃー文句を言っている荒木さんを無視する。
「で、どうするの?」
「何が?」
「式。こっちでやるのかあっちでやるのか」
くすりと今野さんは笑って加山さんを見つめる。
「そんな話してたんだ」
気まずそうにした加山さんの肩をポンポンっと叩き、今野さんは「気にしてないよ」というような笑みを加山さんに向ける。
「時期によるかな。次の異動の兼ね合いもあるから、今ははっきりどっちとは言えないよね」
寺内さんに答えつつも、加山さんに同意を求めるかのように加山さんに語りかける。
「でも色々見て回ってるんだろ?」
「まあね。でもまあ焦らずに決めるよ」
余裕綽々の表情で答えた今野さんはきっと、自分の中でもう答えがあるのだろう。
何となくそんな気がする。
そんな二人の結婚話や、今野さんの新しい職場での話なんかも聞きながら飲み会は盛り上がり、そして二人は一次会で帰っていく。
俺も帰りたかったけれど、飲み会の礼儀? に煩い石川さんが帰らせてくれるはずもなく終電コースです。
翌月曜、加山さんはまた「鬼」に戻った。
けれどまた見つけてしまった。今野さんのマーキングの痕を。
加山さん本人に言うのは可哀相だよな。上から覗いたら見えました、なんて。
いやいやいや、意図的に覗いてないしっ。
立ち上がった時に鎖骨のあたりに赤い痣があるのが見えただけだしっ。
今日の報告がてら今野さんにメールしておこう。
マーキングは目立たない場所のほうがいいですよって。




