挿話:一番近くの傍観者・1
Web拍手で公開していた野村視線のサイドストーリーです
その瞬間、「鬼」が笑った瞬間、そのあまりの鮮やかさに目を奪われた。
普段の能面か眉間に皺を寄せている表情とのあまりの違いに、驚き、目を瞠ってしまった。
どきりと胸が音を立てたのも事実だけれど、決して俺は「鬼」の虜になったりしない。
いくらその笑顔が意外性のあるものとはいえ、それだけで「鬼」に落ちるほど女日照りなわけじゃない。彼女を裏切るつもりは無い。
ただなんとなく、またその笑顔が見たいだけで……。
それは思いがけない瞬間だった。
普段は絶対面倒くさくて参加しない会社の飲み会も、歓迎会とあれば出ないわけにはいかない。
まして自分の担当に二人も新しく人が入っているのだから出ないなんて言えない。
本音を言えば会社の人と飲む意義がわからないけれど、教育係でもある先輩社員である石川さんは「飲み大好き」人間だから、そんな事を口にしようものなら説教が繰り広げられるに決まっている。
大体、歓迎会だって普段の飲み会だって、下っ端の俺のすることといえばパシリと何ら変わりない。
早い話、面倒な事を若い社員に押し付けて、気楽に飲み会先輩たちのお世話係ってところだろうか。
人間関係を円滑にするためとかそれらしいことを言うけれど、結局のところ下に嫌な事は押し付けたいってだけにしか思えないんだよな。
それに、もしも本当にコミュニケーションを図りたいと思っているならば、強制されなくっても自主的に食事なり飲みなり誘うって。
あー。そう思うと、今一番一緒に飲みたい相手って、加山さんかもしれないな。
歓迎会の一次会、二次会と参加して、そろそろ帰りたいなと思いながら辺りを見回していると、普段のきりりとした「鬼」ではなく、ぼーっとしている加山さんの姿が目に入った。
一次会も二次会も、どのくらいが限界かわからないまま、加山さんに結構飲ませてしまった罪悪感もあるので、声を掛けに行った。
「加山さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。ちょっと眠くなっちゃっただけなので」
「もしかして充電切れですか?」
ロボットだ何だと石川さんがからかっていたから、同じように切り出した。
さっきまでと同じような答えが返ってくるのだろうと思った。
なのに、鮮やかっていう言葉が一番合うような笑顔が返ってきた。
笑うんだ。
驚きのあまり目を見開いてしまった。
本当にロボットだとか「鬼」だとかって思っていたわけじゃないけれど、笑い返されるなんて思ってもみなかった。
「はい。補助充電器持ってこなかったので、これ以上は動けません」
台詞はさっきまでのロボット口調と同じだけれど、笑顔が可愛らしい。
可愛らしいって何だよ、俺っ。
酔っ払っているんだ。絶対にそうだ。酔っ払っているから少しだけ「鬼」が看板下ろしただけだ。
幻覚だ、幻覚。もしくは、俺も酔っ払っているだ。
「わかりました。酔っ払っているんですね、加山さん。俺、送っていきましょうか?」
そろそろ飲み会も飽きてきて帰りたくなっていたし、ちょうどいい。
酔っ払って一人で帰れそうにない女性を送るという大義名分なら、あの石川さんも文句を言わないだろう。
俺の提案に、加山さんは少し困ったように眉を寄せる。
それがいつもの眉間に寄せる皺とは違って、いつもよりずっと柔らかな感じがする。
この人、一人で帰るっていうけれど、一人で帰すのは危ない気がしてきた。
普段の「鬼」っぷりとのあまりの落差に、絶対に酔っ払っていると確信せざるを得ない。
「どうしたんですか?」
突然今野さんが会話に入ってきて驚いた。が、俺以上に驚いた顔をしたのは加山さんだ。
そんな顔もするんだ。
ふとそんな事を思ったけれど、単に「鬼」が飲みすぎて「鬼」成分が和らいでいるだけの事だろう。
こんなにとっつきやすくなるくらい酔っ払っているのだと、今野さんにわかるように説明する。
俺の説明を聞き、今野さんが不快感を表すような溜息を吐き出す。
珍しい。
いつもニコニコ「可愛いりょーちゃん」なのに、不愉快そうな顔をすることもあるんだ。
「また飲みすぎたんですね。送りますよ、加山さん」
ちくりと言うのと同時に、今野さんが加山さんの鞄を手に持った。
連れて行かれる!
「俺が送ります。四担で飲ませちゃったんで俺たちの責任ですし、俺のが下っ端なんで」
食い下がる俺に、今野さんは普段は見せないような冷ややかな視線を俺に向け、そのままの冷ややかさを加山さんへと向ける。
「ああ、気にしなくていいよ。以前に加山さんが酔っ払った時も送っていったから家の場所知ってるし。帰りますよ、加山さん」
有無を言わせない、冷ややかで他を圧倒するかのような声音に、びくりと加山さんの肩が揺れる。
不安げ。そう表現するのが正しいような顔をして、こくりと加山さんが首を縦に振る。
ぐいっと加山さんの腕を掴んで自分に引き寄せてから、今野さんが俺に視線を向ける。
笑顔じゃない。全然笑顔が無い。
寧ろめちゃめちゃ怖い顔してる。今野さん。
何がそんなに気に入らないのかわからないけれど、普段温厚な人の全く違った一面に驚きを隠せない。
「野村。悪いんだけれど、三次会の幹事やってくれる? 荒木一人だと大変だから」
「え? ああ。はい。でも本当にいいんですか?」
「いいよ。先月まで同じ担当だったから、こういうの慣れてるから。ですよね、加山さん」
念押しするように問いかける今野さんに、加山さんは小さく頷き返した。
本当に「鬼」の片鱗なんかまるでなくて、どちらかというといつも笑顔の今野さんのほうが普段の「鬼」のような冷たさだ。
更に信田さんにも三次会の手配をしろと命じられれば、下っ端としては嫌ですとは言えない。
今野さんの同期の荒木さんに歩み寄って三次会の事を色々聞きながらも、ついつい視線は今野さんと加山さんへと向けられる。
三月末に社内で起こった「事件」
今野さんのことを「可愛いりょーちゃん」と言って、年甲斐も無く恋心を抱いていたお局が、加山さんに今野さんを略奪されたと妄想して殴りかかった事件。
その前から今野さんが「鬼」と呼ばれる加山さん狙いだっていう噂はあったけれど、ごく普通に仕事をしている二人からはそんな気配は微塵も感じなかった。
けど、今こうして加山さんの腕を掴んで帰っていった今野さんは、確かに加山さん狙いなようにも見える。
「信田さん」
三次会に向かう途中、五担の主任である信田さんに声を掛ける。
「さっき今野さんすごく機嫌悪かったですけれど、何かあったんですかね」
くすりと苦笑を浮かべ、信田さんが顎を撫でる。
「うーん」
思い浮かべるように空に視線を向けるけれど、信田さんの中では確信があるのではないかと思った。
ちらりと俺に向ける視線が、とても穏やかで同時に困ったような顔をしたから。
「……野村が何かをしたわけじゃないから、気にすることは無いと思うよ」
「そうでしょうか。普段あんな顔しないのでびっくりしました」
「だろうね。感情を表に出すほうじゃないから珍しいよね。でもまあ気にしなくていいんじゃないかな。たまたま虫の居所が悪かったのかもしれないしね」
本当にそうだろうか。
何であんな顔をしたんだろう。
けれど信田さんが疑問に答えてくれる事はなく、「鬼」の可愛い笑顔と今野さんの冷ややかな視線だけが脳裏に焼きついた。
「ゆうは?」
三次会の居酒屋であれこれ立ち回っていると、煙草を吸う為に席を外した石川さんに声を掛けられた。
「結構酔っ払っちゃったみたいだったので、今野さんが家を知っているからって送って行きましたよ」
事実をありのままに述べると、石川さんは少しだけ眉を引き上げた。
「ふーん。そっか」
社内で唯一加山さんを「ゆう」と愛称で呼ぶ石川さんは、実は今野さん同様加山さん狙いだっていう噂がある。
実際に歓迎会の間中、散々いじって加山さんで遊んでいた姿を見ていたから、なるほどなと思っていたんだけれど。見込み違いか?
「だから今野もいないのか。まあ、そうだろうな」
何を納得したのかわからないけれど、溜息を吐き出して石川さんは灰皿のほうへと歩いていく。
その背中からは何を考えているのはわからない。
けど、その背中に確信した。
本当に石川さんは「鬼」狙いなんだと。
仕事中に煙草に行く時には必ず一緒だし、お昼も親睦を深めるために絶対に担当で行こうとか言い出したのも石川さんだし、全ての符号が一致した気がした。
ふーん。面白い。
これは見ものだ。一体どちらが「鬼」である加山さんの心を動かすのか。
今まで興味も無かったけれど、面白そうだから飲み会参加してみるのも悪くないかもしれない。
そうしたら、また加山さんの笑顔が見られるかもしれないし。
この戦いに参戦するつもりは毛頭無いけれど、悪趣味だけれど最前列で見物させてもらおう。
「加山さん」
飲み会の翌日、今野さんがパソコンを叩いている俺の隣席の「鬼」に声を掛ける。
普段業務中に今野さんが加山さんに声を掛けることなんて無かったから珍しい。
ふと顔を上げて横目で二人の遣り取りを見守る。
「すみません、少しだけお時間いいですか」
「どうしたんですか?」
「加山さんが前にファイリングしてくれた資料が書庫に見当たらなくて。どのあたりにあるか教えて貰えますか?」
「一緒に見たほうが良さそうですか」
「出来れば」
一瞬の間のあと、加山さんが書類に付箋を付けて閉じた。
「いいですよ。今パソコンにロック掛けますから、ちょっと待って下さいね」
「ありがとうございます」
今野さんがお局を魅了して止まない「可愛いりょーちゃんスマイル」を加山さんに向けた。
加山さんが今野さんに対しはにかむような笑顔を浮かべたから、仕事中だっていうのにぎゅっと胸が掴まれてしまった。
うわっ。鬼が笑った。
酔っ払わなくたって笑うんだ。
いつもよりもずっと柔らかな表情の加山さんに、出来るならば業務中もそういう感じでいて欲しいと、切に願わずにはいられなかった。