44:薬指の約束・9
土曜日。
遅い朝ご飯兼お昼ご飯を済ませてから、りょうの実家に送るダンボールをコンビニへ持っていく。
宅配で明日には届くだろうから、月曜日の出勤には間に合うだろう。
ぎりぎりまで使っていたもの以外は既に送っているので、仮に届かなかったとしても困るような事は無い。
会社で使っていた資料は、金曜日の日に西日本本社のマーケティング部に宅配で送っている。
それに月曜日に必ず必要な物は、明日手荷物として持っていくことになっている。
部屋の中には今までと同じように一緒に揃えた食器や日用品は置かれているし、私服やスーツも半分はこちらに置いていく。
東日本と西日本の合同プロジェクトに入る関係で、異動早々来週末にはこちらの東日本本社に出張があるそうだし。
明日の夕方の新幹線に乗る予定だけれど、時間ギリギリまでウェディングフェア巡りをすることになっている。
幾つか見て回っているけれど、どこも素敵で、ここだっていう決め手も無くて、どこでやるのか決めかねている。
ただ、入籍する日は決めている。
りょうがこっちに戻ってきていなくても、わたしが契約社員になっていなくても、2月には入籍する約束をしている。
その日は付き合い始めた日。
付き合ってちょうど丸一年になる日に入籍しようと決めた。
りょうの立てている東日本本社マーケティング部に異動する為の計画に都合がいいからというのも理由の一つだけれど、それよりも何よりも、わたしたちにとっては特別なその日を一生忘れない記念日にしたかった。
休みの日だから、薬指にはりょうから貰った結婚の約束の印がしっかりと嵌っている。
その隣には、不安がったわたしにくれたピンキーリング。
傍から見たら全てが大急ぎみたいに見えるかもしれないけれど、決して焦っているわけじゃない。
付き合って結婚するまで早すぎるんじゃない? って荒木さんや田島さんに言われたけれど、早すぎるとは思わなかった。
寧ろこのペースでちょうどいいくらいに感じる。
模擬結婚式を見ていると、わたしもああやって結婚式するのかなってちょっと不思議な気持ちになる。
ちらっと横目でりょうを見ると、首を傾げたりょうと目が合う。
「不思議な感じがする」
「何が?」
「今目の前で見ているような事を自分がするのかなって」
くくくっとりょうが笑い声を漏らす。
「現実感がない?」
「うん。ドラマ見ているみたいな気分」
「そっか」
そう言うとニヤっとりょうが質の違う笑みを浮かべる。
「じゃあ現実感を味わって貰おうかな」
模擬結婚式を見た後、模擬披露宴会場に行くのではなく、りょうに連れられてこられたのはドレスが展示してある部屋。
色々な形の、色々な色のドレスに「うわー」と思わず声が漏れる。
「すごいっ。沢山あるんだねっ」
「そうだね。優実はどんなドレスが好き?」
「どんなって言われても、うーん」
結婚情報誌でドレスも色々見たけれど、どんな形がいいとかどういうデザインがいいとか、そういうのを深く考えずに見てたから、こういうのがいいという明確な希望が無い。
何となく手に取るのも躊躇われて、少し下がって遠目から見ていると、プランナーさんなのか衣装の係の人なのかわからないけれど声を掛けられる。
「ご試着も出来ますので、遠慮なさらず沢山着てみて下さいね」
にっこりと笑いながら言われた言葉に、りょうのさっき言った言葉を思い出す。
現実感を味わって貰うって、まさか……。
りょうを仰ぎ見れば、りょうにもにっこりと微笑まれる。
「ちゃんとデジカメも持ってきたから、気になるの全部着てみて」
「……え? いつの間に?」
家を出る時にデジカメなんて持っていたのに気がつかなかった。
「備えあれば憂いなしでしょ。さ、まずはこれから」
何となく気になっていたウェディングドレスを指差され、相変わらずのりょうの手際の良さと目ざとさに苦笑する。
こういう状況で、絶対にりょうが引くわけが無い。
恥ずかしいからなんていうのは絶対に聞いてくれない。
「こちらはとても人気のドレスなんですよ。ではご試着室はこちらになっておりますので、こちらへどうぞ」
有無を言わさないのはりょうだけではなく、あれよあれよという間に試着室まで連れて行かれる。
下着姿を人に見られるのは恥ずかしいと思ったけれど、当然そんな事を聞いてくれるわけもなく、体型を補正するコルセットなどを着けてもらい、りょうが選んだドレスを身に纏う。
試着室の鏡の中の自分は、まるで自分ではないようにも思えた。
最後に白いロングの手袋とティアラを着けてもらうと、まるでさっき見た模擬結婚式の新婦さんのようだ。
そう思うと、急に現実感が増してくる。
「どうぞ」
試着室のカーテンが開けられ、ドレスの丈にあったハイヒールが差し出される。
慎重に片方ずつ足を入れてから顔を上げると、ぽかんとした表情のりょうと目が合う。
「……変?」
「いや」
辛うじて声を発したりょうの頬が崩れていく。
「あんまりにもキレイすぎてビックリした」
りょうがそんな事を言うから、頬が一気に熱くなる。
そんな事を呟いてもなお、りょうは固まったまま動かない。
何だか似合ってないのかもって不安になってくる。
「……優実のこと」
「え、何?」
「ああ」
やっと現実に戻ったりょうが、目元を細めて口元を綻ばせる。
「優実のこと可愛い可愛いと思っていたけれど、すっごくキレイなんだなって再認識した。あとドレス姿見たいってワガママ通して良かったなと」
冗談めかしに言ったりょうが目の前に手を差し出す。
「後姿も見てみたい」
言われて二三歩歩いて、りょうの前でくるりと反転する。
「どう?」
ふわっと広がるドレスに、心もふわりと軽くなる。
ドレスなんて初めて着たけれど、こんなにワクワク楽しい気持ちになるものなんだ。
「あー……今感想求められても、キレイだとかありきたりな事しか言えない。俺って語彙少ないかも」
困ったように照れ笑いを浮かべるりょうを見上げると、りょうがすっと目を逸らす。
「ごめんっ。今ちょっと直視出来ないっ」
珍しいりょうの様子に、思わず笑みが零れた。
土曜日はドレスの試着を何着かさせてもらい、日曜日はまた別の場所のブライダルフェアを見に行った。
日曜日に見たところはホテルではなく、一日一組だけ貸切で結婚式が出来るというゲストハウス。
今までホテルばかり見ていたので、そういうところも素敵だなと思った。
けれどまだ場所を決めるには至らない。
午前中にゲストハウスのブライダルフェアを見に行き、その後外でランチを食べてから家に戻る。
家に戻ると、浮かれた気分はあっという間に霧散して、気まずい空気がお互いの間を支配する。
夕方の新幹線に乗るから、あまりのんびりしているわけにはいかない。
それなのに、いつものようにりょうがコーヒーメーカーで入れてくれたコーヒーを無言で飲み続ける。
意識しなくても、時折どちらともなく溜息が零れる。
荷物も全部用意してある。
けれど何か口にしてしまったら、立ち上がってしまったら、バラバラの毎日が始まってしまう気がする。
それを一分でも一秒でも先延ばししたい。
この幸せだった数ヶ月が終わってしまうのが嫌。
新しい毎日を始めなくてはならないのはわかっている。
明日からは新しい関係が始まるということも。
それは決してネガティブな別れなんかじゃなくって、結婚するその日までほんの少しの間違う場所で頑張るだけのこと。
傍にいなくても、離れていても、わたしがりょうを想う気持ちは変わらないし、りょうだってきっと同じだろう。
それなのに、触れている腕から伝わる熱が遠ざかるのが嫌で、コーヒーカップから手を離して、テーブルの上に置かれたりょうの手に指を重ねる。
いつもは引っ張るのはりょうのほうだけれど、繋いだりょうの手を自分の方へと引っ張る。
何かをしたかったわけじゃない。何かを伝えたかったわけじゃない。言いたい言葉があるわけじゃない。
ただ熱がそこにあるから、触れていたい。
少しだけ傾いたりょうの体に頭を凭れる。その頭の上にりょうの掌が乗る。
しばらくそうしてお互い無言でいたけれど、時間は無常にも流れていく。
「そろそろ出ないと」
切り出したのはわたしだった。
顔を上げると、りょうが「うん」と言って軽いキスを交わす。
「金曜日に出張でこっちの本社に来るから、金曜日に帰って来る」
「うん」
それはもう何度も繰り返された言葉だ。
金曜日にこっちに帰って来る。そして日曜日にまた向こうに帰る。
本来なら日帰り出張なんだけれど、ちょうど週末に掛かるからここに帰ってくる。
ほんの一週間。
それなのにどうしてこんなに胸が張り裂けそうなんだろう。
だけれど泣いたりしたらりょうを困らせてしまう。
「ご飯が必要ならメールしてね。晩御飯食べるなら用意しておくから」
「ありがとう」
もう一度キスを交わすと、りょうがマグカップを持って立ち上がる。
自分のカップを手に持って、りょうの後に続く。
カップをシンクに置いて、出かける準備をしてバッグを手に取ろうとしたところで、バッグをりょうに取り上げられる。
「ここで見送って」
「どうして?」
言いながら涙が零れそうになった。
ほんのちょっとでも長くりょうと一緒にいたい。だからせめて最寄り駅まで。出来れば東京駅まで送りに行こうと思っていたのに。
りょうがコツンと額を合わせる。
「そういう顔他の奴らに見せたくないし、離れがたくなって向こうに連れて行きたくなるから」
優しく抱きしめられ、りょうの胸に顔を埋める。
「愛しているよ、優実。ちょっと留守にするけれど、その間家のことよろしくね」
ほんの数日出かけてくるみたいにおどけて言うから、思わず笑みが漏れる。
くすくすっと笑って、りょうがわたしの髪を撫でる。
「一人だからって手抜きして、たまごかけご飯三昧とかダメだよ」
「しないもんっ」
付き合うよりもずっと前に、一人暮らしでご飯作るのが面倒な時はたまごかけご飯が便利って何かの時に話した気がする。
そんな些細な事まで覚えていてくれたんだ。
「それから、無理に禁煙しようとしなくてもいいから、ストレス溜めすぎないようにね」
「無理にじゃないもん。だから大丈夫」
くくくっと頭上から笑い声が降ってくる。
「パソコンもほどほどにね。この間買ったブルーライトをカットする眼鏡使うんだよ。根詰めてやりすぎないようにね」
「……でも資格取りたいし」
「何事もほどほどに。ああ、それと映画見るなら裕人さんと行くんだよ。一人でレイトショー行くのはダメ」
「わかってます。ヒロから映画行こうってメールきてるから、しょうがないから行ってくる」
お局の一件でヒロにはお世話になっているし、毎日送り迎えもして貰っているから、映画と夕飯をご馳走しようかと思っている。
しょうがないっていうのは方便で。
でも久しぶりに一緒に映画行くからって浮かれすぎているヒロが、ちょっとうざい。
「当分まだ佐久間さんには気をつけてね」
「うん、会社では総務の階には行かないようにしているし、ロッカーに行く時も必ず誰かと一緒に行くようにしてるから大丈夫だと思う」
「そうして。もう絡んできたりはしないだろうけれど、変な言いがかりをつけてくる人がいないとは限らないから」
「うん、気をつける」
「ありがとう」
りょうの指先が髪を撫で、頬を撫でる。
それが何を意味するのかわかるから顔を上げると、そっと唇が重なる。
何度か角度を変えながら重なる唇が離れていく時、ふっとりょうが微笑んだ。
「じゃあいってくるね」
そう言った離れようとしたりょうの服をきゅっと掴む。
わたしの指先に視線を落としたりょうの唇に、強請るように唇を重ねる。
「もう一回だけ」
離れがたくて言ったわたしの後頭部を支えるようにしたりょうと、さっきよりもずっと長い時間キスを交わす。
唇を舐めるように動くりょうの舌にわたしの舌を絡め、息が上がるまでずっとずっとキスを続ける。
ゆっくりと唇が離れていくのと同時に、りょうの体へと回した腕の力を弱める。
りょうも体を離していくので、お互いの間に空間が生まれる。
キスで何かが変わったわけじゃない。淋しい気持ちが無くなるわけじゃない。
だけれど、自分が今出来る一番の笑顔をりょうに向ける。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「うん。いってきます」
最後にもう一度だけキスをして、りょうが扉の向こう側へと消えていく。
足音が遠ざかり聞こえなくなってから、玄関にしゃがみこんだ。
どうしようもなく涙が溢れてくる。
もうりょうはいないから、心置きなく泣き声をあげる。
自分で決めた事。二人で決めた事。永遠に離れているわけじゃない。別れたわけじゃない。
でも淋しいよ、りょう。早く帰ってきてね。
次に帰ってきた時に、今まで作ったことの無い料理も作れるように、料理の本を買ってみよう。こっそり一人の間に練習しよう。次に会った時に、りょうを驚かせる事が出来るように。りょうの笑顔が見られるように。
明日からは「阿吽」で「鬼」になるから、今日だけは一人でめいっぱい泣くんだ。