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Papagena  作者: 来生尚
続編:Long Island Iced Tea
79/99

43:薬指の約束・8

 りょうが支社で働く最終日。

 営業課の部屋で大きな花束を受け取って挨拶をするりょうの事をどこか他人事のような、夢の中の出来事のような気持ちで見守った。

 送別会は、たまたまこのタイミングで異動するのがりょう一人だけだったのもあって、営業課のみならず他部署の人も大勢参加しての送別会になった。

 同期だけではなく、先輩後輩社員、色んな方が参加した。その中にはお局の姿もあった。

 送別会は一次会までの参加し、ヒロが迎えに来てくれたので、ヒロと一緒に帰った。

 お茶でも飲んでいけば? と誘ったけれどヒロは頑なに拒否し、そのまま実家へと帰っていった。

 りょうは多分、三次会まで参加するだろう。今日の主役なんだし。

 どこか現実離れした感覚で、りょうがいない部屋の中でぼーっとテレビを見ていた。

 先に寝てていいよ、何時になるかわからないからってりょうは言っていたけれど、眠る気にもならなかった。

 時計の針が規則正しい音を立てるのを聞きながら、目に映るテレビ番組はあまり頭に入らない状態で、部屋の中に一人でいた。


「ただいま」

 てっきり朝まで帰ってこないだろうと思っていたりょうの声がして、小走りで慌てて玄関に行く。

「おかえりなさい。おつかれさま」

 そう言ったわたしの事をぎゅーっとりょうが抱きしめる。

「ただいま。遅くなってゴメンね。寝てても良かったのに」

 頬にキスが落とされて顔を上げると、唇が重なり合う。

 柔らかく何度も何度も繰り返されるキスに、自然と頬が緩む。

 ゆっくりと離れていった唇に、自分からチュっと音を立ててキスをすると、りょうが目を丸くする。

「早く帰ってきてくれてありがとう。最終日なんだしお疲れ様って言いたかったの」

 そう言ったわたしの事を、りょうがもう一度ぎゅーっと抱きしめる。

「可愛すぎる。何で優実はそんなに可愛いの?」

「そんなこと言うの、りょうだけだよ」

「いいんです。他の人は優実が可愛いって事を知らなくて。寧ろ他の誰にも教えたくないし」

 よくわからない独占欲に思わず笑みが漏れると、りょうが腕の中からわたしを解放させる。

「酒臭いし汗臭いから、シャワーしてくる」

 ポンっと頭を撫でてから洗面所へとりょうが歩いていく。

 歩きながら、しゅるっとネクタイを外す姿に、何故か胸がきゅんっと鳴った。

 見慣れた光景なのに、何でドキドキするんだろう。

 当分見られない光景だからかな。

 そう思うと、ドキドキと高鳴っていた胸が、しゅんとしぼんでいく。

 次の月曜日には、もうりょうはいない。

 明後日の夕方には関西へ行ってしまう。

 ふいに淋しさがこみ上げてきて、さっきとは違う意味できゅんと胸が痛くなる。

 なるべくスーツ姿のりょうを見ないようにしながら寝室に戻る。

 テレビは騒がしいくらいの喧騒で、何だか見る気がしなくてスイッチを押して電源をオフにする。

 こてんとベッドに頭を乗せて、何をするでもなく真っ暗なテレビの画面を見つめる。

 黒い画面が鏡のような役割を果たし、わたしが一人でだらっとしている姿が映る。

 ここに引っ越してきた時は一人でも全然平気だったし、寧ろ楽しいと思っていたのに、今は一人になるんだと思うと涙が込み上げてくる。

 まだ一人になったわけじゃない。

 まるでテレビの黒い画面が、わたしの心の空洞や闇を映し出しているようだ。

 耳に聞こえてくるシャワーの音は、りょうがここにいるんだと教えてくれるのにも関わらず、すごくすごく淋しくなってくる。

 カタンという物音で、慌てて体を起こす。

 何もなかったかのような顔をして、読みかけのパソコン関係の本を開く。

 当然頭には入ってこないけれど、一人落ち込んでいた事をりょうには知られたくない。

 笑顔で見送りたいから。

 異動する事をお祝いしてあげたいから。


「何読んでるの?」

 頭をタオルで乾かしながら戻ってきたりょうに、本のタイトルを見せる。

「優実は勉強熱心だね」

 クスクス笑いながら、りょうが隣に座る。

 タオルを首に巻いたまま、りょうがわたしの顔を覗き込む。

「で、目が赤いのは読み疲れたから?」

 さらっと言うと、左目のあたりをりょうが指でなぞる。

「それとも眠いのかな? 優実さん」

「多分、本を読んでいたせいじゃないかな」

 慌てて答えると、右の頬をりょうに撫でられる。

「じゃあこの頬に付いている痕は何かな?」

「え!?」

 さっきベッドに顔を付けていた時、そんなに押し付けてたっけ。

 慌てて右の頬を触るけれど、触っただけではわからない。

「優実」

 呼ばれてりょうを見つめると、りょうが苦笑を浮かべる。

「何を我慢してるの?」

「我慢なんて……」

「嘘。そういう顔してるのは、いつも我慢してた時だよ。ずっと隣の席で見てきた。ずっと傍で見てきた。だから誤魔化されないよ」

 言いながらりょうがわたしを腕の中に閉じ込める。

「泣きたいなら泣いてよ。優実に何かを我慢させたくないんだ。言いたいことがあるなら言って。言いたくなくても俺には言って。何を言っても嫌いになんてならないから」

 何てわがままで傍若無人な人なんだろう。けれど、何て優しくて甘い人なんだろう。

 嫌いになんてならないって言われた瞬間、涙がぽろぽろと零れだした。

 まだ湿ったりょうの髪とわたしの涙がりょうの肩を濡らしていく。

「ほら。我慢してた」

 言いながらりょうがわたしの頭を撫でる。

 いつものようにトントンっと肩を何度も優しく叩かれているうちに、落ち着かせようとしてくれているはずなのに、どんどん涙が溢れ来て嗚咽へと変わっていく。

 まるで子供みたいに泣き出したわたしを笑ったりしないで、片方の手ではトントンと背を叩き続け、もう片方の手はぎゅっとわたしを抱きしめる。

 伝わってくる熱が、今ここにりょうがいることを教えてくれて、それを失うのだという事をより強く実感して、どうしようもなく苦しくなる。

 けれど泣いていたらりょうが気にする。

 関西へ行く事に負い目を感じて欲しくない。

 本当にやりたかった仕事をする為に行くのだもの。

「本当に行っちゃうんだって思ったら、淋しくなってきちゃった」

 しゃくりあげながら、でも、笑いながら誤魔化すように言うと、りょうがくしゃっと髪の毛を撫でる。

「当分はおかえりって言えないなぁとか色々考えてたらね、急に淋しくなっちゃって。ごめんね、変な事言って」

 ごしごしと目を擦りながら付け加えた言葉に、りょうが首を横に振る。

「変な事じゃないよ。俺だって優実をこうやって抱きしめる事が出来なくなるのは淋しいよ」

 目が合うと、りょうがわたしの涙を指で掬い取る。

 苦渋に満ちたその表情に胸が軋むように痛む。やっぱり、りょうの異動に余計な暗い影を落としてしまった。

 りょうとの間の隙間を埋めるように、りょうの首に腕を回して抱きつく。

 謝ってなんて欲しくないし、ゴメンなんて聞きたくないし、苦しそうな顔は見たくないから。

 背中に回されたりょうの手が、ぽんぽんと背を叩く。

「なるべく早く戻ってくるから。必ず優実のところに戻ってくるから」

「うん」

「毎日電話だってするし、週末はこっちに帰って来るから。だから……」

 言い募るりょうの言葉を遮るように、頬にキスをする。

 言葉を止めたりょうに、精一杯の笑顔をつくって笑いかける。

「いってらっしゃい。ちゃんと明後日にはいってらっしゃいって言うから、今日だけは甘えてもいい?」

「バカ」

 泣きそうな顔のりょうにぎゅーっと抱きしめられる。

「物分りのいいフリなんてしなくていい」

 零れ落ちた涙に、りょうが唇を落とす。それでも流れ落ちる涙を、今度は舌で舐めていく。

 左目から零れる涙を唇が、右目から零れる涙を指が掬っていく。

「優実、本当の気持ちを教えて。淋しいでも悲しいでも苦しいでも何でも」

 唇が頬に触れたままで、声の振動がそのまま肌から伝わってくる。

 頬に触れていた指先がそのまま耳に触れ、髪を撫でる。

 心の中に広がっていくのは、淋しさよりも愛おしさ。

「好き。りょうが好き。好きすぎて頭がおかしくなりそう」

「……優実」

「こんなに誰かを好きになった事なんて無い。好きだからそばにいたいし、いなくなっちゃうのは淋しい。けど、好きだから誰よりも異動をお祝いしたくて、もう頭ぐちゃぐちゃなの」

 自分でもどうしたらいいかわからない持て余し気味の感情をそのまま口にする。

 鼻声で途中途切れ途切れになりながらも伝えた気持ちは、嘘偽りのない本当のもの。

 でも本当はほんの少しだけ淋しい気持ちのほうが大きかったけれど、それは言わなかった。

 りょうに、月曜日にはここにはいないりょうに心配掛けたくなかったから。

「どうして優実は……」

 途切れた言葉の続きは、聞き取れなかった。

 唇が性急に重なってきて、あっという間に舌が唇の中へと潜り込んでくる。

 口腔内を舐めまわしながら、手は頬を撫で、首を撫で、体の線をなぞるように背を降りていく。

 キスの合間に吐息が漏れるけれど、それさえも奪うかのようにより一層唇が深く重なりあう。

 息苦しさに眉間に皺が寄ってくると、すっとりょうが唇を離す。

「好きすぎておかしくなってるのは俺のほうだ」

 言いながらりょうの唇が頬に、それから耳に、首筋に落ちてくる。

 弱いところを知り尽くしたりょうの動きに、ぞくりと肌が粟立っていく。

 吐息交じりに、鼻からは甘い声が漏れていく。

「その声だけで狂いそう。ちゃんと話を聞かなきゃって思ってるのに、自分が止められない」

 まるで髪の毛の一筋さえも愛しいというかのように、りょうの指先が髪を一房掴んで、そこにキスを落としていく。

 伏せた目を開くと、りょうの射抜くような瞳に心を打ち抜かれる。

 普段は決して見ることの無い強い感情に彩られた目に、とくんと心が鳴る。

「……とめないで」

 恥ずかしくて俯いたわたしの顎を掴んで、りょうが噛み付くようにキスをする。

 百の言葉よりもたった一つのキスが心を埋めていく。

 どんな言葉よりも的確に、心の中の欠けたピースが埋められていく。

 暴走しかけた「好き」がきっちりとあるべき場所に嵌っていく。


 好き。

 それだけで頭も体もいっぱいになっていく。

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