42:薬指の約束・7
しばらく成り行きを眺めていて気がついた。
最初は戸惑ってばかりで気付かなかったけれど、ヒロは巧みに佐久間を誘導して話をさせている。
相槌を打ったり、「それで?」と話を促したり。
逆にお局にヒロの事を問われても、決して自分のことは話さない。聞き役に徹する一方で。
この奇妙な対談を第三者的に眺めていると、ガツっとヒールを蹴られる。
お局めっと思って足元を見ると、ヒロがコンコンと足を蹴ってくる。
何よっ。蹴らないでよっ。
ヒロを睨みつけると、にやりとヒロが笑みを浮かべる。
「それからねー」
佐久間がちらっと私を見てうふふと笑い声を上げ、ヒロがふーっと溜息を吐き出す。
この(恐らく)芝居にどんな意味があるというのだろう。
これはりょうとヒロの計画の一端なんだろうか。
いや、多分計画の一端だ。それは間違いない。
一体どんな計画なんだろう。
耳から聞こえてくる、聞き慣れたと言っても過言でもない佐久間の無い事無い事を偽造した罵倒を聞き流して、りょうの言っていた事を思い出す。
りょうが言っていたのは「佐久間さん潰し」それと「社会的制裁を与えるという警告をする」という二点。
それ以上細かい事は教えてくれなかったけれど、ヒロのアルバイト先が役に……。
もしかしてっ。
はっとしてヒロを見ると、ぽんっと肩を軽く叩かれる。
「電話、行って来たら?」
鞄の中に入れっぱなしだった携帯が震え、メールなのか電話なのかわからないけれど着信を伝えている。
それを目ざとく見つけたということだろうか。
我が弟ながら、恐るべし。
「じゃあちょっと席外すね」
「どうぞ」
「いってらっしゃーい」
ヒロの感情のあまり篭らない声と佐久間の上機嫌な声が重なり合う。
お店の外に出てから携帯の画面を見ると、何度か着信があり、メールも入っている。
全てりょうからだったので、お店から少し離れたところで電話を掛ける。
3コールでりょうが出て、その声にほっとする。
『今どこ?』
「東口にあるパスタチェーンのお店」
『ああ、あそこね。まだ話は続いてる?』
全て知っているかのような問いかけに確信した。
これはりょうとヒロの計画のうちなんだ。
「続いてる。ねえ、ヒロに何を頼んだの?」
『それは今は教えられない。話が終わったら電話くれる? 裕人さんにお礼もしたいし』
「ねえっ。向こうが仕掛けてくるなら来週の月曜じゃなかったの?」
くすっと電話の向こうでりょうが笑った。
『そうだよ。まさかこの段階で食いついてくるとは思わなかったよ。まあ計画が大分狂ったけれど、結果は同じだよ』
「計画って?」
『教えない。優実は全部顔に出るから、今教えると裕人さんのやる事の邪魔になる。後でちゃんと説明するから、終わったら電話して。仕事しながら待ってるから』
「……うん」
くくくっとりょうが電話の向こう側で笑いを堪え切れないといった風に笑い声を上げる。
『釈然としない?』
「うん、何かすごく」
『大丈夫だよ。全部裕人さんが上手くやってくれるから。じゃあまた後で』
「うん。また後で」
釈然としないどころか、もやもやが晴れないまま切れた電話を見つめる。
さっぱり意味がわからない。
ヒロが全部上手くやってくれるって言っても、それでいいんだろうか。やろうとしている事は、今は全く想像がつかないわけじゃないけれど、具体的な方法がわからない。
ただ、ヒロの計画の中で佐久間の証言が必要なのは間違いないんだろう。
でもどうやって、どういう方法だったら佐久間を追い詰めることが出来るのか。それが全くわからない。
あんまり遅くなってもと思ったので、携帯を手に握り締めたまま店内に戻る。
ほんの少し前まで上機嫌でニコニコしながら罵詈雑言を吐き出していた佐久間の顔色が悪い。
わたしに気がついたのか、はっとして顔を上げる。
「あんた……」
ぎりっと歯を噛み締める音が聞こえてくるようだ。
憎憎しいといった感情を隠さず、わたしを睨みつけてくる。
この短時間に何が起こったのだろう。
「何かゆうに文句でも?」
ヒロが冷ややかな視線を佐久間に向ける。
「わかりやすく説明致しましょうか。今回佐久間さんに対して、当方では刑事および民事で訴える準備があります。現在証言を集めている最中ですが、虚偽の噂を流している佐久間さんの証言も取れましたので非常にこちらにとって有利に訴訟を進める事が可能です」
「こんな事くらいで裁判ですって? 誰がこんな女の弁護をするっていうのよっ。こんな尻軽女っ、弁護しようなんて奇特な弁護士いるわけ無いじゃないのっ」
わざとらしく、ヒロは咳払いをする。
「弁護士の用意も既にしてあります。私の上司がゆうの弁護を買って出てくれましたから」
「あんたっ一体何者なの?」
「司法試験の結果待ちをしている弁護士事務所のアルバイトです」
さーっと佐久間の顔が青くなった。
元々ヒロは石川さんと同じ大学の経済学部に入学した。それがある日突然突然弁護士になると言い出して、大学卒業後に法科大学校に入学した。
「佐久間さんは、ゆうに対する事実無根の噂を流し著しく評判を落とし、また暴力によって怪我をさせています。怪我に関しては非常に軽微ですので傷害罪に問うのは難しいかもしれませんが、佐久間さんが流した噂に関しては名誉毀損で訴え出るつもりです」
「たかが噂くらいで」
ヒロは顔色一つ変えず、佐久間を見つめる。
そこには怒りも無ければ、焦りも無い。
「残念ながら、刑法の第三十四章名誉に対する罪という条文の第二百三十条の名誉毀損の項目に、公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。と明記されています。また第二百三十一条の侮辱の項目でも、事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。と明記されています」
「……それが何なのよ。誰だって噂の一つや二つくらい流す事だってあるでしょう。それに事実を言っただけ。何も悪いことはしていないわっ」
「事実に関わらず、公然と人を侮辱した者は拘留又は科料に処するとあります。ゆうがどの程度名誉を毀損されたのかの証言は幸い何人かの方がしてくださるそうです」
バンっと佐久間がテーブルを叩いた音が店内に響き渡り、一瞬しーんと静けさに包まれた。
が、すぐにざわめきが戻ってくる。
ただ雰囲気の異様さからなのか、周囲の視線が痛い。
「ハメたわね」
地を這うような低音が佐久間から絞り出される。
それに対し、ヒロは全く顔色を変えない。
「それはどういった意味でしょう。刑事での訴訟の前に、こちらとしては民事訴訟を考えております。一両日中に佐久間さん宛に内容証明を弁護士から送ります。送り先は会社でよろしいですか?」
「会社にはっ!」
怒りで真っ赤になっていた顔を一気に青に変え、佐久間が声を上げる。
が、ヒロは一向に気にする様子も見せない。
「民法では名誉毀損について明示されておりません。民法第709条。故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。こちらが適応になります。内容証明をもって、正式な損害賠償請求とさせて頂きます」
「ちょっと」
「詳しい話は次回お会いした時にしましょう。なお、今後はゆうにはボイスレコーダーを持たせますから、そのおつもりで」
これで話はおしまいだと言わんばかりに、ヒロは手帳などをしまい、わたしに出るように目配せする。
佐久間は慌てて席を立ち、ヒロのスーツの腕を掴む。
「悪かったわっ。私が悪かったから、会社にだけは言わないで頂戴っ。これでクビにでもなったら生活出来なくなるじゃないっ」
謝るというよりは保身か。佐久間さんらしい。
ある意味ではとてもわかりやすい人だ。
「そんな事になったら、加山さんに何するかわからないわよ」
にたりと嫌な笑みを浮かべた佐久間に、ヒロは今度は眉を顰めた。
「それは脅迫にあたりますね」
腕を振り払い佐久間に手を離させてから、こほんとヒロがわざとらしく咳払いをする。
「あなたはご自分の立場を全くわかっていらっしゃらない。きちんと謝罪の意思を示すのであれば、こちらもそれなりの対応を考えるつもりでしたが、残念です。私はあなたの会社の人たちのように甘くはありません。あなたが会社でどのような立場に陥ろうとも構わない。社会的制裁を受けて頂きます」
「……社会的制裁?」
「よくお考えになって、答えを出して下さい。今後の連絡はこちらに」
ヒロが一枚の名刺を取り出す。
書かれているのは弁護士事務所の名前と弁護士の名前。
「今週中にご連絡を頂けない場合には、来週月曜日に会社宛に弁護士事務所から内容証明をお送り致します。では失礼します」
「で、結局幾ら請求すりゃいいの?」
ビール片手にヒロがりょうに尋ねる。
居酒屋に入ってから、既にヒロは三杯目のジョッキを飲み干す勢いだ。
「別に金額はどうでもいいんだよね。佐久間さんが優実に手を出さなくなれば」
「でもなあ、金額ゼロってわけにはいかないって。多少なりとも盛って金額出しておけば、相手もびびるし。払うかどうかは知らないけど」
「払わなかったら?」
「民事訴訟。裁判所にお呼ばれ」
にたりとヒロが笑った。それに対し、りょうもニヤリと笑みを浮かべる。
すっかり悪人顔の二人は佐久間潰しで意気投合して、最初は敬語で話していたものの、すっかり昔からの友人かのような雰囲気だ。
「でもいっそ訴訟にしてやりてえな。そうしたらあのババァも多少なりとも反省すんだろ。ゆうが尻軽だとか淫乱だとか、言いたい放題言いやがって、途中でキレないようにするのに苦労した」
「訴訟にすると佐久間さんにデメリットある?」
「あるだろ。どう考えたって。元部下の派遣社員に名誉毀損で訴えられている管理職なんて、会社がいつまでもあんなのを飼ってるわけないだろ。島流し。肩たたき。居辛くなるだろうなあ。辞職を狙って」
「……ただ会社の先輩や上司にはあんまり追い詰めないほうがいいって言われているんだ。あの手のタイプは何をやらかすかわからないからって。なりふり構わず傷つけようとしてくるかもしれないって」
「ゆうに対して刃物を持ち出したりという可能性があるという事か。だから左遷するから我慢しろって?」
「うん、まあそういうことだね」
押し黙り、ヒロが煙草に火をつける。
一本吸い終わるまで黙ったままで、その間りょうも黙ってビールを飲んでいる。
とても口を挟める雰囲気ではなく、わたしもカクテルをちびちびと飲む。
「追い詰めすぎないように、適度なところで手を引かせるか。とりあえず百万で示談交渉ありにしとく。示談交渉の際に誓約書を書かせて、ゆうには今後近付かない事と噂を流さない事を明記させる。これでどう?」
「じゃあ誓約書の内容を反故にした場合の罰金か罰則付きで」
「おっけー。じゃあそれで手を打っとく」
話している内容は重たいはずなのに、二人の会話はとても軽い。
「示談金は要らないから、全部裕人さんの手数料にして」
「いらない。遠距離の交通費の足しにしたらいいだろ。新幹線のグリーン車でも飛行機でも何でも」
りょうがふわりと微笑んで、ヒロに頭を下げる。
「ありがとう。でも手間を掛けてるわけだから、その分はちゃんと引いて」
「弁護士の先生の分はきっちり貰うから安心しろ。俺はゆうが不当に傷つけられるのを黙って見てる事なんて出来ない。ゆうを守る為に弁護士目指したんだからな」
「え!?」
初めて聞いた話に、今まで会話に口を挟まずにいたけれど声を上げずにはいられなかった。
いきなりの進路変更の理由が、わたしなの?
「名前も出したくないあの男にゆうが傷つけられた時、俺は手をこまねいて見ているしかなかった。制裁を加えてやりたくてもそれすらも出来なかった。だからゆうやミイが次に傷ついた時には絶対に相手を叩きのめしてやるって決めてたんだ」
「……そうだったの」
思いがけない動機に、ただシスコンシスコンとミイと馬鹿にしていたけれど、そんな事まで考えていたのかという驚きと、そこまで思ってくれていたのかという感謝が込み上げてくる。
「最初は警察か自衛隊員になって叩きのめせるようになろうと思ったけれど、それは犯罪者になるから止めろって人から止められたから、弁護士にしておいた」
止めてくれる人がいてよかった。
ヒロに拳銃とか、本当に危険すぎる。
実際にやりかねないと思ったから、止めてくれたのだろう。誰かわからないけれど、その人に対して感謝してもしきれない。
「でもまあ、法律の知識が役に立って良かった。お前が浮気してゆうが離婚するってなった時には、全力で潰しに行くからな」
にやりと笑ったヒロに、りょうも同じような笑みを返す。
「絶対に無いから安心して。それよりしばらくは優実のこと」
「ああ。任された。大分脅しておいたし、強硬手段に出る事はないと思うが、当分送り迎えしに来る」
わたしの顔を見ながら言うヒロに「シスコン! 気持ち悪い!」って言いたくなったけれど止めた。
本当に心配してくれているのだろうし、何より今回はヒロがいなかったら佐久間を上手く退治なんて出来なかったから。
「……よろしくお願いします」
しぶしぶ頭を下げたわたしに、りょうとヒロが声を上げて笑う。
「超不本意そう」
そう言って笑ったのはヒロ。
「俺の安心の為にありがとう」
くしゃっと髪を撫でながら笑いかけてくれたのはりょう。
二人の目的は半分以上達成されたんだろう。陽気な様子から、なんとなく伺い知れた。
後日、今回の件をお互いに公にしないという交換条件を付け加え、示談が成立。
ヒロのアルバイト先の弁護士事務所の弁護士の方を通じて、金額は最初にヒロが言っていた額よりは少ない額の慰謝料と誓約書が届いた。
りょうとヒロは佐久間が逆上して何かをしてくる可能性を懸念していたけれど、ヒロがファミレスで交渉した(と自分では言っていた)翌週から、佐久間はわたしと顔を合わせるのも拒むかのように顔を合わせればそそくさと姿を消し、以後おかしな噂は流れなくなった。
本当はりょうの異動の事に対する謝罪も欲しかったけれど、ヒロに「それをやるならまた別件」と言われ、りょうには「優実に害が及ばないなら別に構わない」と言われてそれっきりになっている。
法律に関する知識などは付け焼刃です。あくまでフィクションとしてお楽しみ下さい。




