41:薬指の約束・6
「この人はねー、こーんな大人しそうな顔してるけれど、結構色々男出入りの激しい人なのよぉ」
目の前ではお局佐久間が嬉々とした表情で興奮気味に話をしている。
その視線の先にはヒロ。場所はファミレス。
何でこんなおかしなことになっているのだろう。よくわからないけれど、佐久間さんもヒロもノリノリだ。
「そうなんですか。そういう事を聞いた事は無かったのですが……」
眉を顰め、ヒロがわたしの顔を見る。
他人からすればいぶかしんでいるように見えるだろう。
でも身内であり、ヒロのシスコンぶりを知るわたしには、どうしてそこで逆上しないのか不思議でならない。
そして表情の一つ一つが演技臭いのがわかる。
「あらー。何も聞いて無かったのぉ。そうよねえ、普通そんな事恥ずかしくて言えないわよねえ。まして」
ふふふと佐久間が人の悪い笑みを漏らす。
どこをどう解釈したのかわからないけれど、何故かヒロがわたしの婚約者だと誤解しているらしい。
そして、その縁談をぶち壊そうと佐久間さんは無い事無い事ヒロに話し続けている状態だ。
それをヒロはテーブルの上で両手を組み、時折溜息を吐きだしながら、たまにちらっとわたしを見る事を交えつつ話を聞いている。
らしくないスーツなんて着込んで。
事の発端はヒロからのメールだった。
月曜日、いつもと同じように仕事をしていると『帰りに寄る。会社の前で待ってる』とヒロからメールが入る。
何か用事があるのかと思ってメールを返すと『打ち合わせ。大体の事は今野さんから聞いたけれど、ゆうからも聞きたいから』という返事。
その時はまだ二人の計画がどういうものなのかを聞かせて貰っていなくって、どういう事なのか聞くためにもヒロと話したほうがいいと思ったから、定時で上がる事をメールした。
自社ビルを出たところでヒロを待っていると、珍しくスーツなんか着込んだヒロがやってくる。
「指輪は?」
「指輪?」
「婚約指輪」
淡々とした顔で言うヒロの目の前にネックレスにぶら下がったそれを差し出す。
「会社では着けてないの」
「そっか」
言いながらヒロがわたしの鞄に手を伸ばす。
「どうせクソ重たい本が何冊か入ってんだろ。持ってやる」
「え。いいよ。毎日持ってるし、そんなに重たくないから」
「遠慮しなくていい」
言うのと同時にヒロが鞄を手に取る。
相変わらずのシスコンぶりに頬が緩むと、ヒロの表情も緩む。
和らいだヒロの視線がわたしの斜め後方に向けられ、少しだけ眉を寄せる。
「じっと見てるけれど、あの人知り合い?」
言われて振り返ると、佐久間がニヤニヤしながらこっちを見ている。
「元上司」
ぴくりとヒロが頬を引きつらせたが、次の瞬間「あんた誰!?」って言いたくなるような笑顔を佐久間に向ける。
佐久間を潰すためにりょうがヒロに何やら頼んだらしいと言っていたから、元上司がその潰したい相手だと知っていると思うのに。
空いているほうの手でヒロがわたしの背を押しながら、佐久間の前まで歩いていく。
脳内には佐久間の暴言やらなにやらが思い出され、何で佐久間なんかにと言いたいけれど言えない言葉をぐっと堪えて、ぴったりとくっ付いて歩くヒロの顔を仰ぎ見ながら睨む。
けれどヒロはわたしの視線を受け流し、佐久間にぺこりと頭を下げる。
「彼女がお世話になっております」
彼女!?
目を瞬くわたしの事など気にせずに、にっこりとヒロが笑顔を佐久間に向ける。
この場合、姉がお世話になっておりますが正しいんじゃないの、ヒロっ。
心の叫びを飲み込み、一体何を考えているのかとヒロの顔を見る。
何か問題がとでも言いたげなヒロの雰囲気に気圧される。何かしらの理由があるのかもしれない。
ここでヒロがわたしの弟だと言うと、佐久間が変に発狂するかもしれないし、その為にわざと血縁関係を匂わせなかったのかもしれない。
でもその場合だって、彼女って変じゃないの? どちらかというと名前で呼ぶもんじゃないの、普通。
「あらぁ、こんないい人がいたんじゃない。それなのにあっちこっち手を出しちゃって」
にたあと嫌な顔をした佐久間に対し、ヒロも表情を曇らせる。
「……それは、どういう事でしょうか」
「あら、ごめんなさい、余計な事を言ったかしら」
そう言いながら佐久間はわたしの顔を見た。
本当に、本当に醜い笑顔を浮かべて。魔女のようなとでも言ったらいいのだろうか。とにかく厭らしい笑みだ。
ワザと口に出したのだと、その笑みが全てを語っている。
ヒロはわたしの顔を見て溜息を吐き出し、しばらく考えるかのようにわたしを見つめる。
「もしお時間があるようでしたら、その話、ゆっくり聞かせていただけますか」
「いいわよー。知っておいたほうがいい事もあるでしょうから」
思わせぶりなその言葉に、ヒロがちっと舌打ちをしてわたしを見た。
「ちょっと電話してくるから、鞄自分で持って」
ぽんっと鞄を手渡すと、ヒロが少し離れたところで電話を始める。
ぼそぼそ喋っているようで、会話は全く聞こえてこない。
「りょーちゃんや司きゅん、信田ちゃんだけじゃ飽き足らず、あーんな人まで騙してたのね。悪女ってあなたの為にあるような言葉ね」
ヒロの話し声より鮮明に佐久間の蔑むような声が耳に響く。
事実とは全く違うとわかっていても、腹が立つことは抑えられない。
「どういう意味ですか」
「言葉どおりの意味よ。りょーちゃんもこんな女に騙されなかったら関西なんかに行く事にならなかったのにね」
にたにた笑う佐久間さんを殴りたい気持ちになった。
金曜日に聞いた異動の真実。
今回の異動の黒幕が佐久間さんであるという事実。
怒りに打ち震えるという事の意味を、わたしは人生の中で初めて身をもって体感した。
本当に文字通り体が震える。
「それは、どういう事ですか」
声が震えるのは怒りのせいだけれど、佐久間は嬉しそうにわたしに笑みを浮かべる。
「りょーちゃんが私を裏切ってあんたみたいな売女に騙されるのを見てられなかったのよ。離れれば少しは反省するかしらと思って、関西に行ってもらう事にしたの」
「今は佐久間さんには今野さんの人事権はありませんよね?」
「今は、ね」
にやりと佐久間が笑む。
「何で関西なんかに」
「あんたなんかに獲られるのを、指を咥えて見ているわけにはいかないでしょっ。りょーちゃんは私のものなんだからっ」
歯茎をむき出しにして唾を飛ばしながら言う佐久間の姿は、恋に狂ったというよりも、全てが狂って見える。
「今野さんは納得しているんですか、関西に行く事。本人が関西に行きたいと言っていたんですか?」
そんな事は無いと知っているにも関わらず、聞かずにはいられなかった。
佐久間が余計な事をしなければ、ずっと傍にいられたのに。佐久間のせいでっ。
怒りが止め処なく溢れてくる。佐久間さえ余計な事をしなければ、離れ離れになることなんて無かったのに。
自然と口調や目線が険しくなってしまう。
「あんたなんかに関係ないわっ」
「ゆう」
佐久間の声とヒロの声が重なる。
ヒロの静かな声に、佐久間の顔がぴくりと引き攣り、無理やり笑顔を作ろうとした表情になる。
ぐいっとわたしの肩を引いたヒロが佐久間を感情の篭らない瞳で見つめる。
「お待たせしました。この近くでお話を伺うのにちょうどいい場所をご存知ですか?」
それならばと佐久間は近くのコーヒーショップを提案するが、そこがあいにくカウンター以外満席だったので、五分くらい歩いたところにあるファミレスへと場所を移す。
互いに飲み物だけを注文し、ざわめく店内には似つかわしくない重たい雰囲気を漂わせながら、しばらくの間沈黙が続く。
ヒロは手帳と、成人式の時にわたしがプレゼントした万年筆を取り出してテーブルの上に乗せる。
「今後の為にも記録させて頂きたいのですが宜しいでしょうか」
提案したヒロに対し、佐久間はにっこりと、一度もわたしには向けた事のないような笑顔を浮かべる。
「構わないわよ。そちらも色々知りたいでしょうしね。後で言った言わないになっても困るでしょうし」
言いながら底意地の悪い視線をわたしに向ける。
「あー。喉がカラカラだわ。ちょっと飲み物を取ってきますね」
上機嫌でお尻をフリフリ振りながら、佐久間がドリンクバーのコーナーへと歩いていく。
その間にヒロはスマホを取り出し、なにやら操作している。
しばらく操作した後に、スマホをテーブルの手帳の上に置き、更にわたしの鞄から何かを取り出す。
小さな黒い電子機器らしきものも手帳のすぐ傍に置き、手帳のページを捲ると、それは手帳にすっぽりと隠れてしまう。
「それは?」
「記録するから」
答えになっているようななっていないような返答に首を傾げると、佐久間がニタニタ笑いながら戻ってくる。
「そちらは、えっと?」
「裕人と申します」
「ああ、裕人さんはお飲み物はよろしいの?」
「結構です。ではお話を聞かせて貰えますか。佐久間さん」
その時、わたしも佐久間も気付いていなかった。
裕人が名字を名乗らなかった事にも、聞いていないのに佐久間の名前をヒロが知っていた事も。




