40:薬指の約束・5
課長と信田さんと駅で別れて、りょうが「先に行ってて」と言うので、付き合う前は週1で通っていたダーツバーへ行く。
一緒に歩いているのを見られたりしないようにという事なんだろうけれど、でも一人でここに来るのは不思議な気持ちになる。
いつだってりょうが隣にいたから。
でも会社帰りの金曜日に二人でここに来られるのは最後だ。
来週の金曜日はりょうの送別会があるから絶対に来られない。
普段は来ない時間帯にお店に行くと、ソファ席は埋まっていて、お店の人にどうぞとカウンターを勧められる。
「お連れ様は」
「遅れてきます」
問いかけに答えると、にっこりとバーテンダーさんが微笑む。
「お飲み物はお先にご用意させて頂きましょうか? それともお連れ様がお見えになられるまでお待ちになりますか?」
そんなに遅れては来ないだろうと思って、来てからにしますと答えると、予想通りすぐにりょうがやってきた。
普段は座ることの無いカウンターに並んで座ると、バーテンダーさんにりょうが「いつもの」と告げる。
それで全てわかったというように、バーテンダーさんはシェイカーを振り出す。
目の前に置かれたのは、ここに来るといつも飲むホイップにチョコレートシロップの掛かっているカクテル。
「これって何ていう名前なの?」
問いかけると、はははっとりょうが笑い声を上げる。
「半年以上経って初めてカクテルの名前聞かれた」
よっぽど面白かったのか、りょうの笑いが止まらない。
笑うりょうの前には青い色のカクテルが置かれるけれど、それにも気がつかないみたい。
「もー! りょーってばっ」
抗議するわたしに「ごめんごめん」と言うけれど、どうにも笑いのスイッチが入ったようで収まらない。
そんなに面白いこと言ったつもりは無いのに。
ちょっと感じ悪い……。
「悪かったって。これはねPapagenaって言うんだよ。優実の好きなコーヒーみたいな味でしょ?」
「コーヒーっていうか、チョコレートだよ」
「うん。チョコレートリキュールで作るカクテルだからね。ココアみたいって言ったほうが近いかな」
カチンとグラスを合わせて一口飲んでから、こくりと首を縦に振る。
「うんココアっぽい。チョコレートのリキュールなんてあるんだね」
ぷぷっとりょうが笑いを噴き出す。
「ずっとそれ、飲んでたのに?」
「もー」
恥ずかしさで真っ赤になった頬をりょうが突付く。
「ごめんごめん。からかいすぎた。優実があんまりにも可愛いから」
「そんな事言ったってごまかされませんっ」
「……本音なんだけど」
りょうがくすりと笑ってわたしの髪を撫でる。
その指の動きにドキリと胸が跳ねる。
わたしはどれだけりょうに捕らわれているのだろう。指先一つで心がときめくなんて。
言葉を失ったわたしを見つめていたりょうの携帯が着信を告げる。
会社関係かな?
りょうがわたしから手を離して、スマホを片手に立ち上がる。
「ちょっと待ってて」
やっぱり仕事関係なのかも。
一人カウンターで名前を教えてもらったカクテルを飲む。
これが無かったら、今わたしはきっとここにいないだろう。このりょうがいつも頼んでくれるカクテルがすごく好きで、それもあってダーツバーに通った部分も無いわけではない。
ここでしか飲めない、特別はものと認識していたから。
名前がわからなくても、何も言わなくてもこのカクテルを頼んでくれるから、名前を知ろうともしなかった。
知ろうともしなかったのは、りょうが必ずこれを頼んでくれるからとわかっていたから。
そう考えると、もしかしたらずっとずっと前から心の一部分をりょうに預けていたのかもしれない。
「ご結婚されるんですか?」
ふいにバーテンダーさんに声を掛けられて顔を上げる。
どうして? という問いが顔に出ていたのかもしれない。
「指輪。以前はされてませんでしたよね」
結納の証に貰った指輪を指し示され、だからわかったのかと納得する。
「そうなんです。まだ細かい事は全然決まっていないんですけれど」
「そうですか。おめでとうございます。このカクテルの由来どおりお二人は結ばれるんですね」
意味がわからなくて首を傾げると、バーテンダーさんが教えてくれる。
わたしの飲んでいるカクテルはモーツァルトの作った歌劇『魔笛』の中の登場人物のパパゲーナの名を貰ったカクテルなのだと。
「詳しい事は知りませんけれど、幾多の試練を乗り越えてパパゲーノという男性とパパゲーナという女性は結ばれるらしいですよ」
「そうなんですね。全然知りませんでした」
「この本の受け売りですけれどね」
バーテンダーさんは使い込まれたカクテルのレシピ本と思われるものを見せてくれる。
好きな味だなくらいにしか思っていなかったカクテルにそんな由来があるなんて。
りょうはそこまで知っていたのだろうか。聞いてみようかとも思ったけれど、どちらでもいい気がした。
「カクテルにも色々な由来があるんですね」
バーテンダーさんはにっこりと笑って、他の席にオーダーを取りに行く。
目の前のカクテルを眺めて考える。
全ての始まりがこの一杯のカクテルだったような気がする。
このカクテルを飲む事が無かったら、今のわたしは無いんじゃないのかな。
あの日エクセルのお礼にとりょうが誘わなかったら……。
もしとか、たらとかればとか考えればキリが無いんだけれども、りょうがあの日誘ってくれて良かった。
電話を終えたりょうが戻ってくる。
どことなく上機嫌のようにも見えるけれど、仕事でいい契約でも取れたのかな?
「仕事?」
「ううん、裕人さんと電話」
「ヒロ!? 何で!?」
驚いて大きな声が出てしまい、慌てて口元を手で押さえる。
思いのほかざわめいていた店内では、そんなに目立たなかったみたい。良かった。
りょうが煙草をトントンとカウンターの上で叩いて、ライターで火を点ける。
「んー。ちょっと頼みたいことがあったから」
「ヒロに?」
「そう。本当は自力で何とかしたかったけれど、裕人さんに手伝って貰った方が効果的かなと思ったから」
何の話だろう?
そもそもりょうとヒロって電話するほど仲良かったっけ?
どちらかというと、一方的にヒロがりょうのことを敵対視していたような気がするんだけれど。
「何を手伝って貰うの? 引越し?」
「ううん、佐久間さん潰し」
にっこりと笑いながらぎょっとするような事を口にする。
どうしてヒロと佐久間さんが繋がるんだろう。
「本当は退職まで追い込みたいし、抗議の一つや二つしたいところだけれど、課長と信田さんに止められたからね。ちょっと違う方法で痛めつけようかと思ったんだ」
結構本気で怒っている、佐久間さんに。
黒いほうの笑みを浮かべながら紫煙を燻らせる姿は、普段あまり見た事が無いようなものだ。
楽しんでいるようにも見えるし、ものすごく不機嫌なようにも見える。
「どうやって? どうやって佐久間さんに」
佐久間さんを潰すのとは聞けなかった。
りょうとヒロが何をしたら佐久間さんに制裁を加えることが出来るのか、本当にそんな事が出来るのか全くわからないから。
「裕人さんの知恵とコネを少々借りるだけだよ。裕人さん、いいところでバイトしてるよね」
いいところかどうかは即答できないけれど。
確かにあまりそういうところに普通コネは無いかもしれない。
でもそれがどう役に立つというのだろう。
「佐久間さんの性格を考えると、次に優実に接触してくるのは最終日か俺が異動になった初日のどちらかだろう。でも最終日は俺の送別会があるから優実が一人で動く隙を狙えない。だから接触してくるのは再来週の月曜」
「りょう?」
「その時に仕掛けようと思ってね。自分で手を下せないのが、非常に腹立たしいけれどね」
自嘲するかのように笑みを浮かべ、煙草を灰皿に押し付けて消すと、わたしの髪を撫でる。
「優実が傷つく事は無いよ。だから安心して」
「何をしようとしているの?」
「んー? 佐久間さんに社会的制裁を加えるよって警告するだけだよ。本当は警告じゃなくて制裁したいけれど、それをやるには証拠が足りないから出来ないってさ」
「ヒロがそう言ってたの」
「そう。残念ながらね。それよりも明日なんだけれど、何時に行けばいいんだっけ?」
話を逸らされたとわかったけれど、きっとこれ以上細かい事は答えたくないということなのだろう。
明日行くホテルのブライダルフェアの時間を手帳にメモしていたので、手帳を開いて確認する。
「十一時」
「じゃあ多少寝坊しても大丈夫だね。たまにはゆっくり飲んで行こう」
そう言ったりょうの笑顔はいつもどおりの穏やかなものだった。




