39:薬指の約束・4
金曜日の夜、残業禁止なので定時で上がって帰ろうかと思っていると、課長からメッセンジャーが届く。
話があるというので「いつものメンバー」の飲み会を断って、駅から少し離れたところにある指定されたファミレスに行く。
課長の話って何だろう。
歩いていると携帯が鳴る。
鞄の中で入れていたのでバイブにしたままだったので、液晶表示を見て慌てて出る。
「もしもし。おつかれさま。どうしたの?」
『優実もファミレスに行くところでしょ。今どの辺り?』
ぐるりと周りを見回して、目印になりそうなお店の名前を言うと『すぐに行くから待ってて』と言って電話が切れる。
りょうも呼ばれてる?
課長、メッセンジャーでは特に何も言ってなかったのに。
信号から少し離れたビルを背に待っていると、りょうが小走りでやってくる。
咄嗟に周りに知った顔が無いかどうかを確認し、それからりょうに向かって歩き出す。
「おつかれさま。りょうも課長に呼ばれたの?」
「うん。そう。優実も呼んだってさっき信田さんに聞いて、慌てて会社出てきた」
午後は外回りに出ていたから、課長とファミレスに行くからと夕方に送ったメールをまだ見ていないのかもしれない。
一度会社に戻って社用車を置いて、急いで来てくれたんだろう。
うっすらと額には汗が滲んでいる。
「信田さんも来るの?」
「組合の見回りが終わったら合流するって」
肩を並べて目的地のファミレスを目指す。
ふいにりょうの顔を見上げる。
こんな風に毎日歩けるのもあと少しだ。
そう思うときゅっと胸が苦しくなって、そっと指をりょうの手に伸ばす。
ほんの少しだけ触れた感触でりょうが気付き、ふわりとりょうが表情を緩める。
きゅっと握られた指先にどきっと胸が鳴る。
手を繋ぎたい。けど、見つかったらいけないから手を引っ込める。
そんなわたしの葛藤を見抜いたかのように、りょうが苦笑する。
「別にいいのに」
「でも、どこで誰が見ているかわからないから」
「……まあ余計な火種を残していって、優実が傷つくような事になるといけないから、今は自重しておくよ」
「そうしておいてくれ」
背後から低い声がして、びくっと肩が揺れる。
それを豪快に驚かした張本人の課長が笑い飛ばす。
「案外気が小さいな、加山」
「そんな事無いですよ。課長が驚かすからですよ」
わははと笑って、課長はりょうの肩を叩く。
「悪いな、急に呼び出したりして」
「いえ。大丈夫ですよ。でも僕だけじゃなくて、何故彼女まで?」
「まあどうせお前から話を聞くことになるとは思うが、加山も巻き込まれた張本人なわけだから顛末を聞きたかろうと思ってな」
歩きながら課長の話に耳を傾ける。
巻き込まれた張本人? ということはロッカーで起こった事とかお局に関することなのかな。
「まあ、信田も交えて話そうや。筋道立ててきっちり説明するけぇ」
課長の方言が出た。
仕事中は標準語オンリーなのに、会社の外に出たとたん切り替わるのだから面白い。
にまっと笑った課長と共に、目的地のファミレスを目指した。
まずは腹ごしらえじゃとハンバーグと大盛りライスを食べる課長は、食べている間は一切口を開かない。
ぜーんぶキレイに食べきって、全員の食事が終わったところでやっと「さて」と切り出す。
「今野、まずお前のことから話す」
「はい」
「その前に煙草吸いたいヤツは吸って、ドリンクバー取ってきたいヤツは取ってこい。俺が話を始めたら、一切席を立つことは許さん」
「どうしてそういう言い方するんですか。二人の緊張を解こうとしたのでしょうけれど、全く笑いが取れませんよ、その言い方だと」
苦笑する信田さんが空になったグラスを持って立ち上がる。
「課長はコーヒーですか?」
「アイスな」
言いながら課長は煙草に火をつける。
自分の飲み物は信田さんに託したようだ。
わたしドリンクバーでアイスカフェオレをグラスに注ぎいれ、りょうは珍しくアイスカフェモカのボタンを押した。
甘いもの、普段はあまり好まないのに。
それぞれの飲み物が揃って、全員が煙草を吸い終わると、課長はもう一度仕切りなおしと言わんばかりに険しい顔を作る。
「んじゃ、今野。お前の異動の件な、人事に何度か確認したが書類上の不備は一切ない。お前が関西方面への異動を強く希望していると記載されている」
「そうですか。僕はそのような希望を出したことはないのですが、何故そのような事になっていたのでしょう」
ふうっと課長が溜息を吐き出し、しかめっ面をりょうに向ける。
「前の課長。けど、全く悪気があったわけじゃなく、寧ろ良かれと思って人事に掛け合ったそうだ」
「どういうことですか?」
「お前の両親関西にいるだろ? で、父親だか母親だかが体調を崩して余命宣告されたから出来る限り傍にいてやりたいと思っていると吹き込まれたんだと」
「……誰にです」
りょうの声は低く、可愛いと言われる笑顔の欠片はどこにもない。
信田さんもまた、いつもの穏やかさはなりを潜めている。
「お前の前の上司。こう言えばわかるか?」
「……佐久間さんですか」
「ああ。そうだ。さすがに勘が鋭いな」
「他に思いつかなかっただけです」
二人は黙り、りょうは溜息を吐き出す。
ふいに頭の中に「全て上手くいくとは思わない事ね」と笑った佐久間さんの言葉が過ぎる。
それは、この事だったのかもしれない。
「前の課長は今野や加山に何かをしてやりたいと思っていた。もっとわかりやすく言うなら償いだな。だから加山には契約社員になれるようにと手を尽くした。今野には望む人事異動をと思い、奔走したわけだ」
ごくりと自分の唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。
ざわついているはずのファミレスの他の雑多な音が耳に入ってこない。
「俺も深くは聞いていない。ただ良かれと思って動いたそうだ。それ以上は何も言えなかった。そもそも責めたところで現状何かが変わるわけじゃないしな」
「はい」
りょうは課長の言葉に同意を示した。
けれどテーブルの下で膝においている手が、ぎゅっと握り締められた。
その手の動きだけでも、りょうが言葉に出来ない苛立ちを感じているように思う。
そっとりょうの手の上に掌を重ねてみるけれど、りょうは課長から視線を逸らさない。
「人事上の手続きには問題は無い。一度出た内示も覆せない。ならば何か出来る事は無いかと考えてみてだな」
課長は煙草を箱から取り出した。
話の途中にも関わらず、課長は煙草に火を灯した。
ふうっと人のいない方向に煙を吐き出してから、課長は再びりょうへと視線を戻す。
「お前さ、こっちの本社の営業部に行く気は無いか?」
「それはどういう意味でしょうか。関西への異動は決まっているんですよね」
「うん、まあそれはそうだ。その後の話だ。俺のあまり無いコネを使ったとしてもマーケティング部には引っ張れない。けど、営業で良ければ一年で戻れるように引っ張ってやる」
「……ありがとうございます」
課長にりょうが頭を下げた。
けれども、人事が出た後に関西のマーケティング部に電話した時に聞いた仕事の話をしてくれた時、りょうはすごく嬉しそうだった。
今までやりたいと思ってたけれど出来なかったことが出来るって。
しかも大規模な新規プロジェクトに関わる業務で、きっとやりがいがあるだろうと言っていた。
営業が嫌いなわけじゃないとは言っている。多分自分が向いているだろうという事もわかっているとも。
こっちに戻ってくる為に、嬉しそうに話してくれた仕事を途中で投げ出してしまっていいんだろうか。
まだ行ってもいないから、もしかしたら思ったような仕事をさせてもらえないかもしれないけれど。
でも……。
りょうの拳の上に重ねたままだったわたしの手を、拳を開いたりょうが手を裏返して握り締める。
「どうしても戻りたくなったらお願いしてもいいですか。今はまだ向こうの仕事がどの程度のものかもわかりませんし、戻る事を前提に行くのもと」
ははっと課長ではなく、信田さんが笑い声をあげる。
「そうだね。焦らなくても転籍ではないから必ずこっちには戻ってこられるしね。ただ、そんなに長い間加山さんを待たせておいていいのかな」
言われてりょうと顔を見合わせる。
りょうは目尻を下げてわたしを見つめ、それから課長に向き直る。
「じゃあ向こう連れてっていいですか? 九月までですよね、今の契約」
「こーんーの。お前こないだ連れていかんてゆうたじゃろ」
「言いましたよ。でもあんまり長い間離れていると、僕が我慢効かなそうなんですよね」
「にしたって九月は早すぎじゃろ」
「ですよね。じゃあ三月でどうです?」
「ダメじゃっ。加山は契約にするっ。連れてかれたらこっちがえらいことになるわ」
にやりとりょうが笑む。
その笑みで、りょうがわざと課長からその言葉を引き出したんだとわかる。
そして課長もまた、にやりと笑う。
「加山のウェディングドレス姿を早く見たいんじゃろ? こっちに早く戻ってこんでええんか?」
だから本社の営業部に戻ってくるようにしてやると、課長は言いたいのだろう。
「夫婦ともに社員でお互いの勤務地が遠隔になる場合って、会社はどんな配慮をしてくれるのでしょうか」
「……今野、お前」
「はい。全部計算づくですよって言ったら納得しますか?」
くくくっと信田さんが肩を震わせ、課長も表情を崩す。
「参った参った。お前、マーケティング部に戻ってくるつもりなのか?」
「そのつもりですよ。課長が関東と関西の共同プロジェクトチームの担当に僕を入れてくれたので、可能かなと思っています」
「こっちに出張が多いほうがいいだろうと思ってそこに推薦したんだがな。そこまで考えてたか。まあそこまでお前が考えているのなら俺は口を挟まん。出来うる限りやってみろ」
「ありがとうございます」
「全く可愛くない部下だ、お前は」
言いながら課長が笑う。
心からそう思っているわけではないということは、目線の優しさでわかる。
「それよりも、僕としては黒幕の佐久間さんの事のほうが気になるのですが。残していく彼女にまた何かしでかさないかと」
ぎゅっと煙草を押し付け、課長は信田さんに目線だけで「お前が話せ」と伝える。
「一応ね、色々手を尽くしたんだけれど表立ってはあの人は何もしてないんだよ。文書を偽造したわけでもない、前回のように加山さんに怪我をさせたわけでもない。誹謗中傷めいた噂をあの人が流したという証拠もない」
「……確かにそうですが」
信田さんの言うとおりだ。
もし今回のりょうの異動の件で何か問題になるとしたら、佐久間さんではなく前の課長のほうだろう。
課長が人事資料に本人の希望とは異なることを書き添え、更に異動の為に手を尽くしたといのだから。
良かれと思って動いたにしても、本人の意思とは全く異なる人事資料を提出したとなれば、槍玉に挙げられるのは前の課長だ。
ロッカーの件だって、佐久間さんは何もしていない。
わたしに対して少々の嫌味を言っただけで、それは人間関係のトラブルとしてしか見てもらえないようなものだ。
恐らくロッカーで言いがかりと付けてきた人たちだって、人事やコンプライアンスで問題になるようなものではない。
「ただね、総務でも扱いに困っているようでね。実質仕事らしい仕事は全くさせてないし、しないし。現在総務所属になっているのは、実際には本人が反省をしているのかの様子見と、それから急遽受け入れ先を探すのが難しかったからなんだ」
「それで」
「八月一日付か八月十五日付。遅くても九月一日付で子会社に転籍になるよ」
思わずほっとして溜息が漏れる。
やっと佐久間にびくびくしなくても済む日がくるんだ。
「それまで二人は何もないような素振りを今までどおりして欲しいんだ。下手に刺激すると、またおかしなことを企みそうだからね」
そう言った信田さんにりょうが口元を緩める。
「いっそやらかしてくれたほうがクビに出来そうな気もしますけれど」
「あの手の人間は逆恨みで何をしでかすかわからない。それは会社にとっても不利益になりかねないからね。堪えてくれるかな」
りょうも信田さんもにこにこしながら話しているにも関わらず、内容は若干物騒な気がしないでもない。
課長は我関せずといった顔をして煙草を吸っていて会話には加わろうともしない。
お局のことに関しては会社として、営業課の課長として出来る事は何もなく、どちらかというと組合の仕事をしている信田さんの領域だと割り切っているのかもしれない。そして信田さんを信頼しているからこそ、任せているんだろう。
「僕、これでも結構怒っているんですよ。佐久間さんに対して」
「まあ、そうだろうね」
「抗議も報復も何も出来ない事に対して苛立ちも感じています。けれどぶつかれば全てが解決するわけでは無い事も知っています」
「今野が加山さんを庇えば庇うほど、状況は悪化しかねない」
「……わかっています」
掌を返したりょうがぎゅっとわたしの手を握り締めた。
「僕がいなくなった後、彼女のことをよろしくお願いします」
「約束するよ。佐久間さんは近付かせないと約束するよ」
信田さんの優しい瞳と目が合い、信田さんはこくりとわたしに頷いた。約束の証のように。




