38:薬指の約束・3
水曜日。
本社勤務の沙紀ちゃんと十九時に約束して、二人で食事に来た。
お互いの近況なんかを話ながら食事をし、食後のデザートタイムになってから沙紀ちゃんがりょうの異動の事を切り出す。
昨日急に「会おう」とメールが来た時から、恐らくその事だろうと思っていた。
「今野くんが異動になって淋しくない?」
「……うん。淋しいよ」
今までりょう以外の誰にも言わなかった本音を沙紀ちゃんに零す。
結婚の約束をしたからって淋しい気持ちが消えるわけじゃない。
「そっか。そうだよね」
呟いて、沙紀ちゃんがふーっと息を吐き出す。
「あたしよりもさ、ダーリンが心配してたよ」
「信田さんが?」
「うん。ゆうちゃんが無理してるんじゃないかって」
何かあれば聞くから。そう言ってくれただけでも嬉しかったのに、信田さんは心配して沙紀ちゃんにまで声を掛けてくれたのかもしれない。わたしが愚痴を零せるようにと。
「しかも石川さんがいらんことしたらしいね。今野くん怒らせたってダーリンが言ってたよ」
あの居酒屋の喫煙所での一幕を信田さんに見られていたのだろうか。
確かにりょうはあの時石川さんの手を払いのけたりして、明らかに怒っていた。
あ。でもあの時信田さんは課長と話していたから、その場面を見てはいないはず。実際に喫煙所にあの時は姿を現さなかったし。
だとすると、いつ、りょうが石川さんの事を怒ったんだろう。
「なんか余計な事言ったんでしょ。異動になっても平気な顔してるとかさ」
どの事だろうと思っていると、沙紀ちゃんが具体的な事例を出す。
「でもあの時怒っては無かったと思うけれど」
「うん。もんのすごい惚気て笑いを取ってたらしいね。結婚式がどうだとか」
「……ドレスがどうとか」
自分で言うのも恥ずかしかったけれど、石川さんの質問にドレスが見たいからって言っていたことを説明する。
アイスコーヒーのグラスをストローでかき混ぜながら話を聞いていた沙紀ちゃんが、はーっと溜息を吐き出す。
「すごいよね。今野くんって」
「どうして?」
「怒鳴ったりしないし、怒ってるって表に出したりしないけれど、石川さんのこと全否定したんでしょ」
「うーん。既成事実がどうとかって石川さんが言った時に少しは顔色変わったよ」
「うん。そういうの嫌だったんだろうね。そういう無責任なの、今野くんはしなそうだもん」
「無責任?」
ざくっとパイにフォークを突き刺した沙紀ちゃんがこくりと頷く。
ぱくりと一切れパイを口に入れ、アイスコーヒーを飲む。
そんな沙紀ちゃんの様子を見ながら、沙紀ちゃんの言わんとすることを考えてた。
けれど答えが出る前に、沙紀ちゃんが説明してくれる。
「今どきおめでた婚とか流行ってるし、子供出来て結婚するのをあたしも否定しているわけじゃないし、それで幸せになっている人もいるから良いと思うんだ」
「うん」
「けどさ。そうしたらゆうちゃんが仕事辞めることになるでしょ。しかも妊娠して体調が悪くなったら中途半端な時期に仕事辞める事になっちゃう。そんなことになったら、ゆうちゃんは真面目だから気にすると思うんだ」
「……否定は出来ないかな」
妊娠とか関係なく、りょうに着いていくために仕事を途中で辞めることさえ躊躇したくらいなんだから。せめてきちんと契約満了まではってその時も思ったし。
「無計画に妊娠させたりして、結果としてゆうちゃんが負い目を感じるような事を今野くんはしないよ。ゆうちゃんに自分の傍にいて欲しいと思っても、行き当たりばったりで無計画にゆうちゃんの体も心も傷つけるような無責任な事はしない。そうでしょ?」
「うん。一緒に連れて行くことを考えなかったわけじゃないって言ってた。けれど仕事を辞めさせたりして連れて行くことは本当の愛情じゃないって思ったって」
「今野くんらしいね」
「人生を搾取したくないって言ってたかな」
「ああ。なるほどね」
抽象的な言葉なのに、沙紀ちゃんはあっさりと飲み込んだようだ。
「だから今野くんは怒ったんだね。ゆうちゃんの人生を踏みにじるような提案を軽々しくした石川さんに」
そんな風に考えた事は無かった。
野村くんや荒木さんが言うように、溺愛っぷりを表現しただけなんだと思っていた。
わたしが考えているよりも、もっともっと、りょうはわたしの事を考えてくれているんだ。
いつも沙紀ちゃんと話すと、自分では見えていなかったりょうの一面を垣間見る。
そしてその度に思う。
「わたしは何が出来るんだろう」
色々してくれているりょうに、どうやって気持ちを返したらいいんだろう。
呟くように言ったわたしの頭を、テーブルごしの沙紀ちゃんがガシガシっと撫で回す。
「可愛いなあ、ゆうちゃんは」
突然の行動に驚いたまま固まっているわたしに、沙紀ちゃんがいひひっと笑う。
「多分今野くんはゆうちゃんに何かして欲しいなんて思ってないよ」
「でも、わたしばっかり色々考えてもらって、色々して貰ってばかりだから、何か返したいと思っているのに」
「ふーん。じゃあさー」
沙紀ちゃんはにやっと笑って、わたしに幾つかの提案をした。
それは若干勇気を伴う事だったけれど、沙紀ちゃんの提案に乗って、コンビニで買い物をして帰った。
りょうは引継ぎの関係もあって、帰ってきたのは二十三時近かった。
作りおきのもので軽く食べられるものを夕食用に出して、気恥ずかしさもあってりょうが帰って来た時に咄嗟に隠した雑誌を引っ張り出してきて、食事中のりょうの隣に座る。
わたしの手の中かなり大判の雑誌を見て、りょうが目を見開いた。
「あのね、今日沙紀ちゃんと会った時にね、人気の式場は日程を早く抑えたほうがいいから、今から色々調べたほうがいいよって言われたの。ウェディングフェア? っていうのもあって、料理の試食が出来たり実際の会場も見られたりするみたいで」
手にしていた箸をおいて、りょうがわたしの髪を撫でる。
「だからね、遅い時間なんだけれど、ご飯食べ終わってから少しでいいから一緒に色々見てくれたらと思うんだけれど」
沙紀ちゃんに絶対喜ぶから言ってみてと提案されたとおりに言ってみたんだけれど、りょうは喜んでくれただろうか。
途中で恥ずかしくなって俯いてしまったから、恐る恐る顔をあげると、満面の笑みのりょうに抱きしめられる。
「そういう可愛いワガママなら幾らでも聞くよ」
「ワガママだった? ごめんなさい」
あははっとりょうが声を上げて笑う。
「ワガママじゃないって。俺今結構浮かれてるよ?」
「そう?」
言われてみれば、確かにとっても上機嫌だ。作り笑顔じゃなくって本当に心から笑っている。
「浮かれてる浮かれてる。まさか優実からそんな事言われるなんて考えても無かったから。優実も結婚式とか楽しみにしてくれてるんだなーって思ったら、やっぱり嬉しいよ」
「どうして? 確かに具体的に考えて無かったけれど、結婚も結納も嬉しかったのに」
「知ってるよ。けど優実ってどちらかというと大体受身だから、自分からなかなかリアクションしないでしょ。それなのに式の事を自分から動いてくれたのが嬉しい」
ぐっと言葉に詰まる。
確かに、わたしから何かを率先してりょうに提案する事は少ない。
りょうの提案を聞いて、それを受け入れることのほうが圧倒的に多い。
頭の中で、沙紀ちゃんが「絶対喜ぶよー」って言っていたのを思い出す。
今野くんのことだから具体的に全く考えていないわけがないけれど、でも今は異動の事で手一杯だろうから言ってみなよって沙紀ちゃんが言ってた。
「あのね、土日も引越しの準備とか色々忙しいと思うけれど、ウェディングフェアとか行ってみたいの」
沙紀ちゃんに言われたわけじゃなくって、りょうが帰って来るまでの間雑誌を読んでみて、実際に結婚式ってどういうものなのか雰囲気だけでも味わってみたいなって思った。
思ったままのことを伝えると、りょうが破顔する。
「いいよ。行こう。じゃあこれ食べたらどこに行くか決めよう。優実が行きたいところがあったら教えて」
「うん」
嬉しくってさっき見ていた雑誌の中で気になった場所があったからと雑誌に手を伸ばすけれど、その手は雑誌に届かない。
あっと思う間もなく、りょうがキスしたからだ。
伸ばした手をりょうの首に回すと、キスをしながらりょうが微笑んだ。
離れてもきっと大丈夫。
淋しい気持ちには嘘はないけれど、離れていたからってダメになったりしない。
今は素直にそう思える。