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Papagena  作者: 来生尚
続編:Long Island Iced Tea
71/99

35:奔流・7

 結納という名目の顔合わせを無事に終え、明けて月曜日。

 りょうの予測では、恐らく今日、社内イントラネットを通じて一斉の人事異動通知が出る。

 慌ただしい日になることは簡単に想像が出来る。

 関西に一緒に行かないことには同意したし、今ではちゃんとりょうの言っていたことを自分なりに咀嚼して納得している。理性では。

 ただ感情が追いつかない。

 行かないで。一緒にいて。傍にいて。

 何度も何度も繰り返し思う。

 信頼していないとか、不安だからだとかじゃなくて、ただ離れるのが嫌だ。

 そういう思いのせいなのか、夜中にふっと目が覚める。そして眠るりょうの横顔を眺める。

 その寝顔に安心して、擦り寄るように同じ布団の中でくっついて眠る。

 けれど一度目が覚めてしまったせいなのか、眠りの帳はなかなか下りてくれそうにない。

 あまりにも眠れなくて羊の数を数えてみたものの、一向にその気配は来ない。

 狭いベッドの上であまりじたばたしていたら、りょうを起こしてしまうかもしれない。

 眠れないのならといっそと起き上がる覚悟を決めてベッドを降りようとベッドのふちに腰掛けると、ぐいっと腰に腕が回る。

「どこいくの」

 起こしてしまったのかと慌てて振り返ったりょうが寝起きとは思えないほど明瞭な声で尋ねてくる。

「眠れなくて、お水飲もうかと」

「じゃあ俺も起きる」

 丑三つ時とも呼ばれるような時間だというのにも関わらず、りょうはまるで朝起きたかのようなすっきりした様子でベッドを降りていく。

 眠っていたようには思えない様子にびっくりして動けずにいると、目の前に水の入ったグラスを差し出される。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 一口飲んでからグラスをりょうに手渡すと、残りをりょうが飲み干す。

 グラスをローテーブルに置いてから、りょうがベッドに戻ってくる。

「眠れない?」

「んー。なんか目が覚めちゃって」

「じゃあ夢じゃないかどうか確認させて」

 言いながらりょうがわたしの左手を持ち上げる。

 前に貰ったピンキーリングとエンゲージリングが並んで小指と薬指に収まっている。

 寝る前に外そうか悩んだけれど、外したくなくて着けたまま寝たから、昨日の昼間からずっと左手にはリングが二つ並んでいる。

「優実」

 呼ばれて視線を自分の手元からりょうへと移すと、にっこりと微笑まれる。

「寝不足にしてもいい?」

 どきりと胸が鳴る。

 それがどういう意味なのか、いつもとはちょっと違う視線や、手首を掴むりょうの指先に籠められた力加減でわかる。

「……明日、会社だよ?」

「知ってる。けど、ダメ?」

「ダメじゃないけれど……ちゃんと朝起こしてくれるなら」

「起こすよ。ちゃんと責任もって」

 にっこり笑ったかと思うと、りょうの手が頬を撫で、髪を梳き、そのままわたしの頭を引き寄せる。

 重なる唇は優しく、まるで寝る前に交わすキスのようにふんわりとしている。

 とても寝不足になりそうな気配は感じられないのだけれど。

「まあ場合によっては有給とればいいだけだから、大丈夫だよ」

 キスの合間にいつものにっこりという笑顔ではなく、にやりという笑顔を浮かべてりょうが再び唇を重ね合わせてくる。

 それは僅かな隙間も許さないようなもので、歯列や上顎を舐められ、舌を絡め取られるうちに、自然と甘い吐息が漏れ出てくる。

「本当に優実は俺を誘惑するのが上手い」

「誘惑なんて」

「してる。その甘い声だけで十分に」

 頭に添えられていた手が骨格をなぞるかのように耳や首筋を撫でながら降りていく。

 その指先の動きだけで、体にぞくりと震えが走る。

 ただ体の線をなぞって降りていくだけなのに、甘い予感が体に期待を呼び起こす。

 りょうと出会うまで知らなかった感情。

 感情よりももっと鋭敏な感覚と、りょうによって教えられた快楽という欲望に支配される。

 どうしようもない愛しさが、どうしようもなく熱望する感情へと変換されていく。

 たった一人、りょうだけが知っている。

 たった一人、りょうだけが欲しい。

 闇の中、両手を伸ばす。

 たった一人、りょうを抱きしめる為だけに。


「おはようございます」

 いつもよりもずっと丹念に化粧を施して寝不足を隠して、いつもどおりの挨拶を隣の席の野村さんにする。

「……加山さん」

 野村さんがパソコンからわたしのほうへと視線を移す。

 何か言いたげな表情のまま、それっきり口をつぐんでしまった野村さんとの間の時間が止まる。

「加山さん」

 今度は斜め前の席に座る田島さんに声を掛けられる。

 田島さんの表情にも戸惑いが見える。

 何か顔におかしなものでも付いているのかな。

 二人とも口をつぐんでしまって、その表情の意味を知ることは出来ない。

「何か顔に付いてます? それとも髪が跳ねてますか?」

 田島さんに問いかけると、苦笑が返ってくる。

「そうじゃないわ」

 一端言葉を区切った田島さんが溜息を吐き出す。

「多分今日は飲み会になると思うから、定時で上がってね」

「わかりました。行けるかどうか確認しておきます」

「よろしくね」

 わたしがりょうの了承がなければ飲み会に行かない事を、今はもう野村さんも田島さんも知っている。

 だから田島さんはそのままパソコンに目を戻した。

 残りの遣り取りは、メッセンジャーを使えばいいだろう。変なことを口に出して、間違っても噂のモトを作り出さないように。

 パソコンを起動しながら、先週から持ち越している仕事の内容を確認する。

 先週終わらなかったものの中に、出来れば今日中に作っておきたい資料があったはず。

 金曜日にファイリングした書類を捲っていると、パソコンの画面上にメッセンジャーの着信が大量に来る。

 一体何?

 驚きのあまり書類から手を離して古いものから順に目を通していく。


 --人事速報見た??


 --加山さん、人事、知ってました?


 --イントラの人事発表見て!


 どれも大体同じ内容だった。全て飲み会の「いつものメンバー」から。

 一人一人に返信をし、りょうにメッセンジャーで煙草を吸いに行く事を告げる。

 ロッカーでの一件があってから、りょうと煙草に行く事も避けていたのだけれど、今日この瞬間くらいは許されるだろう。

 就業前の前のほんの僅かな時間。多分喫煙所には他の人もいるはずだ。

 二人きりにならなければ大丈夫だろう。

 喫煙所に着くと、信田さんが壁に寄りかかって一人で煙草を吸っていた。

「おはようございます」

「おはよう。大丈夫?」

 何がですかとは聞かなかった。聞くまでもなく、りょうの異動のことだろう。

「大丈夫って言ったら嘘になりますけれど、ダメですって言っても嘘になります」

 ついつい信田さんには話しやすさから愚痴めいたことを零してしまう。

 けれどクスっと笑って流してくれる。

「加山さんらしい答えだね」

 それ以上何も付け加えないのが信田さんらしい。

 信田さんは、これ以上踏み込んでこようともしない。もしもわたしが話したいと思えば幾らでも話を聞いてくれるだろうけれど。

「じゃあ先に戻っているから、ゆっくり気分転換してから来るといいよ」

 にっこりと微笑んでわたしに告げた後、ポンポンっとりょうの肩を叩いて信田さんが喫煙所を出て行く。

 何かをりょうに囁いたけれど、わたしには聞こえなかった。

「優実」

「なあに?」

 会社では名前で呼ぶことなんて無いのに、りょうが名前で呼んだ。

 だから社外にいる時と同じようにりょうに笑いかける。

 わたしの頬を撫で、りょうがふいに首を傾ける。

 ここが会社であることも、その意味がどういう事なのかも知っていたのにも関わらず、そっと目を伏せる。

 やんわりと唇の上に触れた温度は、一瞬だけ重なって離れていく。

 ここが会社でなければ、もっとと強請りたくなるほどあっさりとしたもので、何も無かったかのように隣に並んでりょうは煙草に火を点ける。

「メールやメッセンジャーがひっきりなしだよ」

「そうなんだ」

 そうだろう。ただの異動じゃない。グループ会社への出向はそうそうあるものじゃない。

 どうして? って思う人も沢山いるだろう。

 同期、同僚。りょうの社内の知り合いの範囲はわたしなんかよりもずっと広い。

「今日飲み会になるって田島さんが」

「そうだろうね。優実はどうする?」

「……一緒にいてもいいなら」

 くしゃっとりょうが頭を撫でる。その目がとても優しくて泣きたくなった。

 もう、一緒にこうやって仕事の合間に煙草を吸ったり話をしたりするのも両手で数えるほどしかない。

「いいよ。それに俺だって一緒にいたい」

 残された時間全部、本当は一緒にいたい。それが無理だと知っていても。

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