7:ダーツ
金曜日、忘れていたわけではないけれど、どこまで今野さんが本気かどうかもわからなくて、こちらから声を掛けるのは憚られた。
どこに行きますかなんて聞くのも、奢ってくださいと言っているみたいで嫌で。
午前中も一緒に出たお昼も、今野さんは何も言わないまま夕方まで時間が過ぎる。
もうあと30分で終業だという時、メッセンジャーの着信を知らせる点滅に気付く。今コピーしにいっている間に来たのかな。
ポンっとタスクバーをクリックすると二通のメッセージが立ち上がる。
石川さんと今野さんだ。
今野さんのほうが上にきているので、先に来たには石川さんかな。
律儀にというわけではないけれど、着信している順番にメッセンジャーを開く。
--今日は飲みに行く予定は?
答えに窮し、とりあえず今野さんのメッセージも見る。
--終わったら駅前のコーヒーショップで。
これは……。
チラっと横目で今野さんを見ると、視線に気付いたようでニコっと微笑まれる。
草食系の笑みなのに、なぜ今私は肉食獣に睨まれたような気になっているのだろうか。
そこに再びのメッセージ着信。
--定時に上がってくださいね。
追い込まれた。完全に追い込まれた。
別に飲みに行くのは構わないんだけれど、変に兄貴風というか先輩風を吹かせているあの人になんて返事を返せばいいのだろう。
黙って飲みに行ったら怒るよね。
でも何でいちいち石川さんに了解を得なくてはいけないんだ。弟からお目付け役を頼まれたから?
うーむ。別に私が誰と飲もうと石川さんには関係ないじゃない。いーや、今日は今野さんと約束してたんだし似非兄貴はほっておこう。
そう自分に言い聞かせるものの、心は裏腹に「怒ってくれるかな」とか考えている。嫉妬してくれないか、とか。
--今日は今野さんと約束があります。
石川さんに返事を送って、開封確認のポップアップも出たのにも関わらず、返答は無い。
やっぱり似非兄貴風だったのか。
内心がっかりしつつ、今野さんにメッセージを送る。
--終わったらコーヒーショップ行きますね。西口ですか、東口ですか。
--西で。
駅の東西どちらにもあるコーヒーショップのうち、会社がある東口ではなく西口を指定される。
りょーちゃんと溺愛するお局佐久間にそのほうが見つかりにくいし、そのほうがいいかもしれない。
データを加工する手伝いをした日も、あの後お局のあたりがキツかった。
一緒に歩いているところとか、お局の目に触れないほうがいいだろう。
こっちを見る今野さんの視線を感じたので、視線をなるべく合わせないようにして小さく頷く。それで多分通じてる。
コーヒーショップで待ち合わせをし、甘くてホイップたっぷりのコーヒーを飲んでから、今野さんオススメというお店に案内される。
西口から少し歩いた繁華街の外れにある小さなビルの二階のお店。
入ってみるとカウンターとソファ席が二席というこじんまりとしたダーツバーだった。
ダーツ、やったこと無いなあなんて思いながら機械を眺めていると、今野さんにソファ席を勧められる。
ここのソファ席、向かいあうタイプではなく、三人がけのソファの目の前にローテーブルというもので、意識しすぎだろうと言われるかもしれないけれど妙にドキドキする。
「カウンターだと荷物置くの不便でしょ」
あ。うん。そうですよね。今野さん。
意識しすぎ、意識しすぎ。
それがなるべく表面に出ないように笑みを浮かべながらソファに腰を落とす。
「冬だとコートとか荷物多いですよね」
テーブルの傍にある籐で編んだ籠にカバンと折り畳んだコートを入れながら言うと「そうですね」と穏やかな声が返ってくる。
年下なのに、今野さんはどこか落ち着いた雰囲気を醸し出している。そこには「可愛いりょーちゃん」の片鱗は無い。
「何飲みます? 加山さんビールより甘い系が好きですよね」
どうして知っているのだろう。不思議に思って聞くと、あははっと笑い声を「可愛いりょーちゃん」が上げる。
「だっていつもビールはちびちび、カクテルぐいぐいじゃないですか。言われなくてもわかりますって」
ちゃんと乾杯のビールは飲み干しているのに気付かれていたとは。
意外だなと思って今野さんを見つめ返す。
「俺が決めてもいいですか」
いつもはわたしとか僕とか言う今野さんが自分の事を俺って言うのに違和感を感じつつも、その勢いに負ける。
こくりと頷く私に、今野さんは嬉しそうに笑った。
店員さんに良くわからないカクテルの名前を告げ、今野さんはお通しのナッツに手を伸ばす。
「加山さんダーツやったことあります?」
指を指さず視線だけで機械を指し示し、ひょいっと投げるフリをする。
「無いです。初めてなんですよ、ダーツバー」
置かれているダーツの機械の前には時間が早いこともあり、今は誰もいない。
「やってみます?」
「はい。楽しそうですよねダーツ」
にっこりと笑う今野さんの前に店員さんがグラスを二つ運んでくる。
チョコレートシロップがホイップの上に掛かっているグラスを私の目の前に置いてくれるので、多分これが私の分なのだろう。
とてもアルコールが入っているとは思えないそれを手に持ち、カチンと今野さんのグラスと合わせる。
「かんぱーい」
飲み会の音頭のような言葉をにこやかに口にする「可愛いりょーちゃん」の笑みにこちらの頬も緩む。それ以上に頬を緩ませたのは甘い甘いカクテル。
「これっ。チョコですか?」
「そー。チョコレートリキュールのカクテル。加山さんさっきもキャラメルマキアート頼んでたからこういうの好きかなと思って。でも俺はちょっともう甘いのいらないんで、さっぱり系です」
今野さんの持つロンググラスの中でカランと氷が音を立てる。
多分ブルーキュラソーがベースだと思うそのカクテルは炭酸の泡が規則正しく上がっていく。
「一口飲みます?」
「あ、はい」
笑っているのに有無を言わせぬ雰囲気なのはどうしてだろう。職場で接する今野さんの雰囲気とはまるで違う。
バーに相応しい仄明るい照明と、薄暗い店内という雰囲気のせいでそう感じるのかもしれない。
「そうです。肘を直角に」
生まれて初めてのダーツデビュー。
ほどよく酔いの回った私は楽しい気分でそれに興じる。
実はマイダーツを持っているという今野さんが立ち方から構え方までわかりやすく教えてくれる。
元々あたりの柔らかい人だし、あさっての方向にダーツが飛んでも軽く笑い飛ばしてくれるのでとても楽しい。
何度か投げてみた後、ちゃらんと小銭を機械の中に今野さんが入れる。
今までひっそりと佇んでいたダーツの機械から突然音が鳴り出してぎょっとする。光るだけじゃなくて音もなるのね、これ。
「カウントアップにしましょう。点数の高い方が勝ちなのでわかりやすいですから」
「えー。絶対に今野さんの勝ちですよ。私初心者だし」
ははっと笑ったかと思うと、今野さんがワイシャツを腕まくりする。
「ハンデつけますよ? それで勝ったほうが一つお願い事できるというのはどうですか?」
「お願い事?」
「そうです。例えば勝ったほうがこの後一杯奢ってもらうとか」
今野さんがダーツの機械の傍に置いたテーブルの上で空になったグラスを持ち上げる動作がコミカルで、思わずくすくすっと笑い声を上げる。
「いいですよー。そうしましょう」
くすっと笑った今野さんが当然そのゲームの勝者で、私は今野さんに一杯奢る羽目になった。
何度か勝負をして勝ったり負けたりを繰り返していると、「そろそろ」と今野さんが腕時計を見る。
まだ遅いという時間ではなかったけれど、18時の定時でコーヒー飲んでここに来てから3時間は経っている。
甘くて飲みやすいせいもあり、いつも以上にお酒が進んでいたかもしれない。
「次で最後にしましょうか」
そして最後のゲームも今野さんが勝利する。
割り勘よりも少し多い金額を今野さんが出してくれて、負けた回数は私のほうが多かったはずなのにとお店の外で恐縮すると、ははっと今野さんが笑う。
「本当は全額出したかったんですけれど、そうすると気をつかうでしょ、加山さん」
「当たり前ですよー。負けた回数は私のほうが多くって、負けたほうが奢るっていう勝負だったはずですから」
くすくすっと笑う今野さんと肩を並べて駅まで歩いていく。
「じゃあ最後の勝負の分ですけれど」
駅の入り口に差し掛かったところでぴたりと足が止まる。
立ち止まった今野さんに合わせるように足を止め、頭一つ上にある今野さんの顔を見る。
今野さんはすーっと手を伸ばして私の首の周りに巻かれたストールに指を滑らせる。その仕草があまりにも自然でそうされることに違和感を感じないほどに。
だけれど心は素直に受け入れる事は出来ない。ドキリと音を立てて心臓が跳ねる。
今、お酒飲んでて良かった。頬が赤くなってもわからないもの。
「ここ裏返ってました」
ストール、裏も表もあんまりわからないような気がするんだけれど。
息を呑んで今野さんの仕草を目で追うしか出来ない。男の人らしい節ばった指先がストールをなぞり、一瞬頬を掠める。
「今度また勝負しましょう。その時に今日の分は奢ってくださいね」
何を言われるのかと慌てたのがバカみたいに思えるほど、にっこりといつもどおりの「りょーちゃんスマイル」が炸裂する。
変に意識してるの、私だけか。なんかほっとしてすっと肩の力が抜ける。
「いいですよ。また行きましょうね」
そう答えた私に、今野さんが目を細めて笑う。
「じゃあ俺、石川さんたちに飲みに誘われているのでここで。気をつけて帰ってくださいね」
「あ。はい。ご馳走様でした」
「おつかれさまでーす」
ニコニコ笑みを浮かべたまま、今野さんは駅からまた別のところへ歩いていく。
今日も飲み会やってたんだ、なのに私と約束してたから行かなかったんですか、今野さん。聞きたかった言葉をぐっと飲み込んで後姿を見送り、一人自宅への岐路についた。